週刊READING LIFE vol.170

子供の願い《週刊READING LIFE Vol.170 まだまだ、いける!》


2022/05/23/公開
記事:赤羽かなえ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
※このお話はフィクションです。
 
 

声が引っかかったように出なかった。
でも、どうしてもの願いだった。
 
「お母さん、クラスの子、みんな塾に行っているんだよ、私も行きたい」
 
母は、横目でチラッと私を見ながら、バッグからタバコを取り出した。赤いネイルがなまめかしく動きながら、長いタバコの先に火がつく。
 
「学校の授業をきちんと聞いていればできるでしょ? うちは、塾になんか行くお金はないんだよ。受験なんてしなくたっていいんだから。義務教育は中学までなんだからね、塾に行かないと入れないような高校なんていかなくていいよ」
 
取り付く島もなかった。母と私はどこまでもかみ合わなかった。どこで、ボタンを掛け違ったんだろう。
 
部屋に入って教科書を開く。涙で数式が見えなくなった。
 
私が子供を産んだら、自分が何もできなくたって子供には精一杯の教育を受けさせてやろう。母子家庭で、水商売だからって自分への投資ばかり優先して、塾代も出してくれないような母親にはなりたくない。あいつみたいに。
 
いつか、縁を、切ってやる。

 

 

 

「知ってる? サク小の近くにね、サク小OBの保護者がやっている受験対策教室があって、ミオのクラスに1枠だけ空きができたら信頼できる人を紹介できるんだけど、中林さんのところどう? 先生も受験内容にも熟知されているし、願書に書いておくと有利なんですって」
 
「行きたい!」
 
千堂さんは、頷いた。
 
「そうでしょう。頼んでおくわね。ミオもゆりちゃんもサク小に入れるといいね」
 
さくら学園小学校、通称サク小に合格すること、それが目下の目標だった。サク小に入ったら、大学までエスカレーターで進学ができる。
 
とにかく、小学校に上がりさえすれば、安泰。
 
ママ友はライバルであり、同志でもある。お互いに情報交換しながら、時にはマウントを取り合いながら、日々を過ごしていた。
 
けれど、習い事12個目か……さすがにきつくなってきた。でも、お受験まで、あと半年だ、まだまだいける!
 
幼稚園が終わった後に、毎日2個ずつ。土曜日も、2個で日曜日だけ休み。送り迎えに、付き添い、日々のお弁当、おやつも全部手作りだ。もちろん、朝ごはんも、夕飯も。
 
毎日が由梨のためにまわっていた。
 
これが私の理想。由梨に理想の教育をしてあげられている。小学校お受験のための塾、小学生になってからどんどん勉強が進むようにするための学習塾、右脳を鍛える知育、ピアノ、バレエ、絵画教室、スイミング……。誰かが勧めてくれて、由梨のためになりそうだから、始めた。どれかを減らせばいいけど、減らしたら由梨が他の子から後れを取りそうで怖かった。紹介してくれた人にも申し訳ないし、ママ友たちのコミュケーションからも外れてしまうかもしれない。
 
さあ、今日は、ママ友同士のランチだ。幼稚園に由梨を送ったら、洋服を着替えて、束の間の息抜きだ。

 

 

 

わかっていた。
息抜きが息抜きにならないことを。周りの人達はいつもきらびやかな恰好をしていた。毎回洋服をなんとかむりやり着まわしているのは私くらいだった。陰で笑われているかもしれない。それでも行かなければ情報は得られない。
 
「中林さんも、川内先生のところに行くんでしょう?」
 
「サク小受験対策のですよね? はい、千堂さんにお誘いいただいて」
 
「よかったね。あそこに入れたら、サク小はほぼ受かるのよ。うちももう、2年になるかな、子供達3人ともお世話になっているんだけど、先生信頼できる方だから。ゆりちゃん、ちょっと大人しいし、人見知りもあるから、そういうところも丁寧に見てもらえるわよ」
 
「わあ、気になっていたから、助かるかも。入れてよかった」
 
そうしたら、進学塾はもうやめようか、サク小に入れればいいのだから。
 
「でも、万が一、サク小がダメだった時のために、塾はやめられないよねえ」
 
そう言われれば、そうだ。どうせあと半年なんだ。ここでケチって落ちたら、一生後悔する。それにしても、疲れる。話題は、子供達のことばかり。由梨の同級生たちの話が終わったら、次はお兄ちゃんやお姉ちゃんがいるママが学校での学習内容や、塾のことを話している。
 
仮にサク小に入ったとしても、ずっと塾に通い続ける子が多いらしい。私立の授業費に学費、働かなければまかなえないだろうか。
 
美味しいはずのランチは、お金の味がした。

 

 

 

「ねえ、お母さん……、私、もう少し習い事を減らしたいの。お友達と公園で遊びたい」
 
ため息が出た。もう、何度、由梨から言われただろうか。幼稚園の時から塾などで一緒だった仲良しのミオは、小学校入ったら全ての習い事を辞めて毎日公園で遊んでいるらしい。だから、一緒に遊んで帰りたいのだと訴える。それでも、ミオは、学校の成績もよく、クラス委員をやるなど活躍しているのだと、千堂さんが近況報告をくれた。由梨ときたら、習い事もしっかりやっているのに、成績がおぼつかなくて、夏休みの補習に呼び出されることもあった。もっと、塾の日数を増やしたいくらいなのに、本人は頑として受け付けてくれないのだ。
 
「何を減らすの? これから、勉強だって難しくなるし、ただでさえ、由梨は算数も苦手でしょ? 英会話だって将来のためには絶対に続けた方がいいし、体操は、体力つくからやった方がいいわ」
 
「塾の日数減らすとか、由梨疲れて学校で眠くなっちゃうんだ」
 
由梨は消え入るような声でつぶやいた。
 
腹が立った。こっちは、平日に必死でパートをこなして、由梨の学費や習い事代を捻出していた。それなのに、由梨は習い事をやめたいという。なんで? 私はなんにも習わせてもらえなかった。どんなに頼んだって、母は何もしてくれなかった。
 
私は由梨にこんなにしてあげているのに、これ以上なんの不満があるというの?
 
「じゃあ、辞めたらいいじゃないの! どれを辞めたいの? 早く言いなさい、さあ」
 
由梨の目がオドオドと左右に動いた。そしてうつむいて、セーターのすそから出ている糸を引っ張ってはちぎる。
 
「いや、いいや、もう少し、頑張ってみる」
 
自分に言い聞かせるように由梨はつぶやいた。
 
「いや、いいわよ、辞めなさいよ、どれを断ればいいの?!」
 
「いいって、由梨、やるって言っているじゃん!」
 
涙目で由梨がリビングを出た。
 
そんな、一過性な気持ちなら、最初から言わないでほしい。でも、結局こちらがねじ伏せたような感じがして、後味が悪かった。

 

 

 

『由梨さん、様子はどうでしょうか? できれば、保健室にでも登校してもらえたら、出席扱いになるんですけど……』
 
電話口で、教頭は困ったようにつぶやいた。
 
「そうしたいところなんですが、どうしても具合が悪くて学校に行けないって言うんです。昼間や夜は元気なんですけど、朝、起きるとお腹がいたいっていって脂汗かくものですから……」
 
幼児の頃から苦労して、サク小に合格し、勉強に追いつくために習い事を7個もやってきたのに、5年生に入ってから、学校に行けていない日が続いている。夏休みが終わって、休んだせいもあるのだろうか。まだまだ暑い日が続いているのに、由梨の部屋の扉は冷たく閉ざされていた。
 
私は、リビングにある観葉植物の色が変わってしまった葉を抜きながら、教頭と電話で話していた。
 
「あまり出席日数が悪いと、中学への推薦が受けられなくなりますから、一度、由梨さんと、お母さんと私の3人で話してみませんか? 家に伺うので」
 
わかりましたと言って、電話を切った。
 
習い事をいくつか減らしてあげたらいいのかしら。あの子、何が不満なんだろう。でも、朝、お腹が痛いのは本当のようだけど……。
 
「由梨、おかあさん、仕事に出かけるわね。今日はスイミングにはいけるの?」
 
玄関わきの、冷たい扉の向こうに声をかける
 
『ちょっと、無理かも……調子悪い』
 
「じゃあ、お休みでお願いしておくから。お昼ご飯はテーブルの上のおむすび食べなさいね。お母さん、ティッシュがなかったから、帰りにドラッグストアに寄るから。ちょっと遅くなるわね」
 
『わかった、いってらっしゃい』
 
「それと、明日、お母さん、お仕事休みだから、教頭先生が由梨と話したいんだって。具合が悪くても来てくれるみたいだから」
 
『うん、わかった』
 
翌日の昼過ぎ、呼び鈴がなった。教頭は、リビングに上がった。お茶を出すと、
 
「ああ、おかまいなく。まず、由梨さんと二人で話させてもらえませんか?」
 
と言われた。
 
由梨が部屋から出て来た。青白い頬に伏し目がち。あんなに明るくておっとりとした由梨はどこに行ってしまったんだろう。まだ暑いのに、長袖のTシャツのすそを手の甲まで伸ばしていた。
 
教頭がどうしても、二人だけで話したい、というので、私は、居場所がなく、由梨の部屋に来た。
 
パジャマが脱ぎ捨てられ、ゴミ箱もゴミが沢山詰まっていた。
 
もう、ちゃんと片付けないんだから。つぶやきながら、床に散らばっているプリントなどをゴミ箱に入れようとしたときに、ティッシュが赤く染まっているように見えた。
 
そのティッシュを持ち上げると、間違いなく血だった。鼻血でも出たのかな、そう思いながら、ゴミ箱を覗くと、ティッシュでできたやたら大きな団子がいくつもいくつも入っていた。
 
何だろう。だから、最近、やたらとティッシュがなくなるのね。由梨に注意しなきゃ。そう思いながら、ティッシュ団子の塊を崩すと、中から血だらけのティッシュが出て来た。
 
息が止まりそうになった。
 
どの塊にも同じように血がついたティッシュ。多い少ないはあったけれど、いくらなんでも、そんなにしょっちゅう血はでないだろう。由梨は、何をしているのだろう。
 
『お母さん、倉田先生が来てくださいって』
 
由梨の声が扉の向こうから聞こえた。
 
慌ててティッシュの塊を元に戻して、パジャマを拾い上げた。
 
「もう、由梨、パジャマをちゃんと片付けてよ」
 
ドアを開けると、ハッとしたように由梨がパジャマを私の手から奪った。
 
「ごめん、ごめん、洗濯機に入れようと思っていたのよ」
 
リビングに戻ると、教頭が窓の外を見ながらついだお茶を口にしていた。
 
「今、新しいお茶を入れますんで」
 
慌てて、キッチンに向かおうとすると、教頭は強めの声で、
 
「お母さん、いいですから、お座りください」
 
と言った。
  
「由梨さんとお話しさせてもらいましたが、わが校では、中学から外部入試を経て入学されるお子さんと、小学校から内部進学されるお子さんの学力差をなくすために、公立よりも早めに小学校のカリキュラムを終えて、受験対策もします」
 
私は、頷いた。今までも何度も聞いたことがある話だったからだ。
 
「ですから、学力については、まず、学校の勉強をしっかりやってもらい、宿題もちゃんと出してもらえれば、学習塾などは必要ないと考えています」
 
「はい、それは、分かっています。でも、由梨は、ちょっと算数が苦手でどうしても周りの人から遅れてしまうので、塾に通っているんです」
 
「お母さんは、とても教育に熱心でいらっしゃいますね、でも由梨さんの気持ちを考えられたことがありますか?」
 
横で、由梨が青ざめていた。口を堅くきゅっと結び、私とは目を合わせず、膝を見ている。
 
「ときどき、習い事を辞めたいとは言いますけど、最後には頑張るって言ってくれるので、ちょっと弱音を吐きたいときもあるのかなあ……と」
 
「由梨さん、限界に、来ていると思います」
 
教頭は、低い声で一言、一言区切るように言った。
 
私は、ゆっくりと、隣に座る由梨を見た。由梨は気まずそうに目を伏せた。手のひらで、長袖Tシャツの裾をぎゅっと握りしめて。その裾の上に、涙がポタ、ポタっとこぼれた。
 
「限界、ですか……」
 
「実は、2年ほど前から、担任を通じて、由梨さんのことが気になると、由梨さんと個別に話してきたんです。彼女は、習い事がつらいと、でもどれを辞めたらいいかわからない、と言っていました。辞めたいって言ってごらんとアドバイスして、実際にお母さんに言ったけど、無理だった、怒られてしまったと泣きながら駆け込んできたこともありました。お母さんは、昔、塾に行きたいのに行けなかったから、その分、由梨さんに行かせてあげているんだって言われたそうですね。でも、それは、お母さんがしたかったことであって、由梨さんがしたいことではありませんね」
 
教頭の言葉が頭の中でわんわんと響いた。
 
「子供のしてほしいことを、親がしてあげない、子供の思いを親が聞き取ってあげない、この点において、お母さんのお母さんと、お母さんがされていることは、同じなのではないでしょうか」
 
あの、母と私が一緒?
 
由梨を揺さぶりたかった。今まで私がしてきたことは、あなたのためじゃなかったの? このまま行ったら、由梨をどんどん追い詰めるだけだったの?
 
あんなに嫌いな母親と私が一緒だっていうの?
 
息が苦しかった。教頭のことも由梨のことも見られず、視線が定まらなくなった。
 
だって、由梨には、ちゃんといろんなことをさせてあげたかった。いい学校、いいキャリア、そしていい結婚。私の全てを犠牲にしても、由梨には幸せになってほしかったのに、由梨のことを追い詰めていたっていうの?
 
「お母さん、私、もう少し時間がほしい。本も読みたいし、友達が楽しいって言っているところで遊びたいし、音楽も聞きたい」
 
由梨の声が私の耳の中で空回りした。
 
教頭が帰った後、何も考えられなくて、洗濯をしようと脱衣所に行った。由梨の部屋に先ほど脱ぎ捨ててあったパジャマが濡れていた。開いてみると、パジャマにところどころ血の跡がにじんでいる。
 
洗濯機にパジャマを押し込んで、由梨の部屋に行った。
 
「由梨、ちょっといい?」
 
「どうしたの?」
 
部屋から由梨が顔をのぞかせた。
 
「由梨、今日、寒いの? なんで長袖のTシャツ着ているの?」
 
由梨がビクッと肩を震わせた。部屋に引っ込もうとする由梨の手首をつかんだ時に、由梨が悲鳴を上げた。
 
袖をまくると、手首にグルグル巻きの包帯が出て来た。血がにじんでいる。
 
そこまで、彼女を追い詰めていたなんて……
膝から崩れ落ちた。
 
母と縁を切ってやる、なんて思っていたけど、とんでもないことだった。
今、気づかなかったら、あと数年後に縁を切られていたのは、私だ。
 
それから、しばらくの間、由梨と私の泣き声だけが、家に響いた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
赤羽かなえ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

自称広島市で二番目に忙しい主婦。人とモノと場所をつなぐストーリーテラーとして、自分らしい経済の在り方を模索し続けている。2020年8月より天狼院で文章修行を開始し、エッセイ、フィクションに挑戦中。腹の底から湧き上がる黒い想いと泣き方と美味しいご飯の描写をとことん追求したい。月1で『マンションの1室で簡単にできる! 1時間で仕込む保存食作り』を連載中。

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2022-05-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol.170

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