我が子に超早期教育をしたことが間違いだった理由《週刊READING LIFE Vol.194 仕事で一番辛かったこと》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2022/11/21/公開
記事:牧 奈穂 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
私は、20歳で結婚した。学生結婚だ。夫が12歳年上だったから、卒業後は、専業主婦をするつもりでいた。だが、大学4年生になって、皆と同じように就職がしたくなる。当時は、就職の氷河期でもある。逃げようと思えば、結婚を理由に仕事を探す必要もない。
それでも、英語を使う仕事がしたい。このまま社会に出ないのは嫌だ。そう思い始め、リクルートスーツを着て、就職活動を始めた。思うように仕事を見つけることができず、活動に苦しむ。そして、やっとの思いで、児童英語講師になった。
本当は、小さな子があまり好きではなかった。私がいちばんしたかった仕事は、高校生、大学生、大人に向けての英会話教室の講師だ。学校が嫌いだった私は、学校ではない自由な空気の中で教えたかった。だが、英語力が足りず、英検を受けても受からずに、履歴書さえ出せる資格がない。だから、英語の勉強を続けられる仕事に「妥協」した。
不純な動機のまま、英語教室で初めて授業をする日がやってきた。
「Hello!」
年長の子が、初めてのレッスンにやってきた。明るい笑顔で教室に入ってくる。子供を久しぶりに見た私が、生徒の目の奥を見ると、学びたい気持ちでキラキラと光っているのが伝わってくる。私を信じきった、輝く目を見た瞬間、いい加減にしてはいけない仕事だと気づかされた。時給なんて、関係ない。人を育てる仕事なのだ。子供達の目から、仕事の重みを諭された気がした。
それからは、英語の勉強をしながら、子供達に教えるための勉強もした。児童英語は、ゲームばかりして、遊んでいるイメージが強い。中には、本当に楽しませていればいいと思っている先生さえいる。だが、意外と奥が深い。いかに子供達を飽きさせずに、レッスンに集中させ、英語を習得させることができるか……指導者の腕を問われる仕事なのだ。レッスン中、流暢に英語を話している先生は、まず腕が悪い。シンプルな英語で、言葉を少なく、自分自身はあまり話さず、子供達に英語を何度も話させることができる先生が、腕の良い先生だ。実際、先生の腕によって、生徒の伸び方は大きな差となって返ってくる。
児童英語の先生は、子供好きで、英語教育に前向きで熱心な人が多い。だから、上手なレッスンをする先生を見つけては、「授業を見せていただけませんか?」と貪欲にアプローチした。研修代なんていらない。仕事の休みを見つけては、他の先生のレッスンを見学し、必死にメモを取り、自分の授業との比較をし、腕を磨いた。
息子を授かった頃、外で働きながら、私は自宅でも教室を開いていた。
仕事ばかりの日々の中で、息子を出産する。息子にも英語教育をすることは自然な流れだった。生まれたばかりの赤ちゃんは、生後半年くらいまで、サルの顔を見分けられると聞いたことがある。生後半年までの脳は、とても柔軟でたくさんの可能性を秘めているのだ。だからこそ、その時に、日本語と英語の両方に接する環境があれば、どちらにも対応する脳が育つのではないか? そう考え、息子には日本語と英語の両方を、お腹にいる時から聞かせていた。
子守り歌は、英語のほうが多かったかもしれない。仕事で歌を歌っていたから、日本語の童謡を歌うより、ずっと楽に歌えたからだ。
本棚にも、日本語と英語の絵本を両方入れておいた。息子が取り出して持ってくる絵本を、その言語のまま読んで聞かせた。言語教育では、最低でも、「2000時間」聞かせるといいと言われている。日本語は、日々の生活に溢れているが、英語は意識しないとなかなか与えられない。だからこそ、早くから与えていいものだと、私は疑わなかった。
日々、DVDを見せ、歌を歌い、絵本を読む……毎日、意識して英語を息子に聞かせ続けた。順調に英語も口から出るようになる。舌を歯と歯で噛むようにして出す「th」の音も、教えなくても発音できる子になっている。英語を教える者として、自然に身に付く姿は眩しかった。赤ちゃんが言語を習得していく姿は、言葉を教える私にはとても新鮮で、何がどう言えるようになったか、どんな教材が適しているか、記録を取るようになった。いつか新しい仕事として、妊婦さんなどを集め、英語をどう聞かせていけばよいかを伝える講座が作れるかもしれない。新しい講座を立ち上げる野望もあった私は、息子への成功例をたくさん作ろうと、家庭の中でもバリバリ働き始めた。
息子が2歳になったある日、異変が起きた。
「……っぼく……っこれ……」
口から言葉が出ないのだ。息子は言葉を発しようとしているのに、言葉が出ない。顔が真っ赤になるくらい力を込めても、一音が出ない。苦しそうに言葉を出そうと詰まるほど、顔だけが赤くなった。
「あら? ちょっとおかしいわよ……」
私の母がまず異変に気づいた。
瞬間的に何かがおかしいと思っても、母親とは我が子の異変を認められないものなのだ。
「えぇ? そうかなぁ……」
私は、母の言葉を否定した。
だが、時が経つにつれて、言葉の詰まりはますますひどくなっていく。「かきくけこ」などの音が特に言いにくく、息子は自分の名前を言えなくなった。調べていくと、吃音の可能性が高い。「母親のカン」が、専門家に相談しなければならないことを私に伝えてきた。だが、いざ先生を探そうとしても、専門の先生が見つからない。何度か子育て相談室に連れて行き、やっとの思いで先生を見つけることができた。
言葉の専門の先生のところに診察に行くと、先生のアドバイスが始まった。
「お子さんの脳は、今、風邪をひいているような状態ですね。だから、英語教材は片付けましょう。しばらく英語を聞かせることはやめてくださいね」
その言葉を聞きながら、先生に尋ねる。
「息子は、自分からDVDを入れて、英語の歌などを聞いています。私が与えようとしなくても、勝手に見ているのに、やめさせねばらないのですか?」
すると、先生は穏やかに答えた。
「今、脳が風邪をひいている状態なんですよ。だから、混乱しないよう、英語教材をそっと片付けましょう。お子さんは、吃音だと気づいていませんから、気づかせるような発言も避けて下さいね。そして、もし私を信用してもらえるなら、インターネットで吃音の検索をするのをやめてもらえませんか? 情報がありすぎると、お母さんが不安になってしまうものです……」
先生を信頼し、インターネットの検索をやめ、英語教材をすべて片付けた。息子は、きっと英語教材を求めるだろう。そう思っていた。だが、私の予想とは全く逆で、片付けたことにさえ気づいていないようだ。息子は、一度もDVDも絵本も探そうとはしなかった。日本語の世界の中だけで、不満もなく毎日を過ごしている。
息子は、英語を全く求めていなかったのだ。
その姿が、一番の答えだった。自分自身の欲を、単に息子に押し付けていたにすぎない。専門家ぶって、我が子に自分の欲を押し付け、さらに吃音にまでさせてしまった。吃音は複数の理由が重なって起こるようだが、息子には英語はよくなかったのだろう。実際、バイリンガルにも吃音は多いらしい。先生として、母親として、失格どころではない。一人の子供の脳を傷つけてしまったのは、虐待と言われてもおかしくない行為だ。
なんてことをしてしまったのだろう……
先生として、母として、私はとんでもない過ちをしてしまった。
我が子の言葉の問題に悩みながら、生徒達に言葉を教える日々は、とても苦しかった。まるで、言葉を教える資格がないと言われているかのようだ。精一杯の笑顔で、生徒達に英語を教えながら、その度に心が痛んだ。私は教える資格なんてない……そう毎日思いながら、生徒達と過ごし、いつも自分を責め続けていた。
英語なんて、話せなくていい。日本語だけで十分だ。普通に苦痛なく話させてあげたい。
祈るような気持ちで、毎日、毎日、息子を公園の砂場に連れて行った。吃音がひどい時は、話さない遊びをさせるといい。脳に、吃音の癖を覚えさえないことが良いからだ。公園の砂場ならば、遊びに夢中で話さないかもしれない。どんなに眠くても、どんなに疲れていても、息子との公園の時間をいちばんに考えた。時に、疲労のあまりに公園の砂場で居眠りをしたこともあったが、一緒に遊ぶことが、私なりの償いだった。
息子の吃音は、少しずつなくなり始め、吃音が落ち着くと、日本語がたくさん口から出るようなことの繰り返しだった。言葉が発達する脳が活発な時期に、英語の刺激は、息子には強すぎたのかもしれない。吃音は、良くなり、悪くなることの繰り返しだった。だが、少しずつ波が小さくなりながら、半年くらいで言葉の詰まりもなくなっていった。
私がこの仕事をしていて、いちばん辛かったことは、息子の吃音を引き起こしたことだろう。先生として、誰よりも理想的な学習環境を作れると思ったことが、最大の失敗へと繋がってしまった。教えることに少しずつ自信が出てきた先の、痛い挫折だった。
だが、その中で、私は得たことがある。
それは、人の心に「寄り添う」ことの大切さに気づけたことだ。
息子が吃音の時、何かができるようになることを期待するのではなく、吃音のある息子を丸ごと受け止めることができた。それまで仕事ばかりしてきた私は、成果ばかりを追い求め、母親としての愛情が足りなかったかもしれない。息子の吃音は、愛情とはどのようなものかを教えてくれた。
それと同時に、先生として、親へも心を寄せることができるようになった。
極端すぎる親、子供にうまく接することができない親……少し変わっているような親がいても、私は受け入れようと思えるようになった。少しおかしな言動があっても、その先に、かつての自分自身が見えるからだ。大切な我が子に、とんでもないことをした私が見える。親も、迷いながら生きている。おかしな行動の先には、親の愛がある。そう思うと、心を寄せ、話を聞き、支えてあげようと思えるのだ。英語を教える前に、先生としてもっと大切なものに気づくことができた。
辛い経験ほど、必ず人生の学びになる。
辛ければ辛いほど、それを受け止め、乗り越えるまでに時間はかかるかもしれない。だが、必ずその先には、自分自身に必要なものが得られる気がしてならない。
「仕事でいちばん辛かったこと」は、「仕事でいちばん学べたこと」と言い換えられる。これからも、仕事を通し、生徒達からたくさんのことを学び取っていきたい。
□ライターズプロフィール
牧 奈穂(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
茨城県出身。
大学でアメリカ文学を専攻する。卒業後、英会話スクール講師、大学受験予備校講師、塾講師をしながら、25年、英語教育に携わっている。一人息子の成長をブログに綴る中で、ライティングに興味を持ち始める。2021年12月開講のライティング・ゼミ、2022年4月開講のライティング・ゼミNEOを受講。
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