週刊READING LIFE vol.194

「母親失格」と告げられた言葉は、いまでは子育ての道しるべとなった《週刊READING LIFE Vol.194 仕事で一番辛かったこと》

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2022/11/21/公開
記事:種村聡子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
わたしは、息子を出産して5日後に「母親失格である」と宣言された。
 
息子を産んだ産院で、数人の看護師を伴った小児科医から、告げられたのだ。その言葉はわたしの心に重くのしかかり、わるい魔法使いにかけられた呪文のように、いつまで経っても拭い去ることができなかった。でも、あの出来事があったからこそ、わたしはいつも冷静であるように心掛け、時々立ち止まっては振り返り、最善を尽くすための努力ができるようになった。はじめは驚きと憤りでしかなかったけれど、いまでは感謝すらしている、出来事だ。
 
「あなたは母親としての自覚が足りません。これから、無事に赤ちゃんを育てることができるのか、わたしたちは心配です」
 
小児科医は胸をそらし、顎をかるく突き出し、母親であるわたしを見下ろすようにして、高らかにそう告げた。彼女のうしろに控えていた看護師たちも、咎めるような視線でまっすぐにわたしを見つめていた。出産した産院で、数日後に退院を迎えようとしていた、昼下がりだった。病室にはお見舞いに来ていた母もいた。小児科医は続けて言った。
 
「赤ちゃんは母乳が足りなくて、体重が減ってきています。赤ちゃんを乳児室へ預けたままで、あなたが夜中に世話をしないからです。これから退院した後にも、おなじように世話をしないつもりですか。あなたは、母親として失格ですよ」
 
呆気にとられて、わたしは口をきくことができなかった。居合わせた母も、同じだった。なんでそんなことを言われなければならないのだろう? なにがそんなにいけなかったのだろう? それほどに非難をされることを、わたしはしたのだろうか?
 
夜中に乳児室へ赤ちゃんを預けていたことは、事実だ。出産で、気力も体力もすり減ってしまったので、少しでもからだを休めたい、ゆっくり眠りたい、と看護師さんがお世話をしてくれる乳児室へ預けていた。退院したら、否が応でも母子密着の生活が始まる。その前に、少しでも体力を回復させたい、という思いもあった。それが連日続いたことが、いけなかったようだ。さらに、わたしは、なかなか母乳が出なかった。母乳が出ないから、赤ちゃんは母親であるわたしのお乳を飲もうとしない、飲もうとしないから母乳も出ない、という悪循環に陥っていた。赤ちゃんにとって、母乳やミルクは生きるための命綱だ。母乳が出ない母親の子どもは、ミルクを投与される。我が子は、入院中ほぼミルクを与えられていた。なかには、溢れるほどの母乳をもてあまし、搾乳しては捨てているお母さんも、いるというのに。
 
小児科医と看護師の回診の直後から、わたしの病院での生活は一変した。夜に乳児室へ預けることは禁止され、わたしと子どもは、出ない母乳にふたりで格闘しながら、長い授乳時間を過ごした。それでもやっぱり母乳は出ていなかったようで、我が子は疲れ果てて眠ってしまったこともある。眠る子どもの顔を見ながら、母乳が出なくてごめんね、と言っていた。わたしは、まだ母親になって数日だというのに、母親失格の烙印を押されてしまった。まだ、育児のスタート地点に、たったばかりだというのに。
 
その場に居合わせた母は、この出来事を思い返しては、憤慨していた。あなたはなにも悪くない、気にする必要はない、と。夫も同じ意見だった。親しい友人からも、大きな病院では、ほぼあかちゃんは乳児室で過ごすから、特別問題のあることではない、とも言ってくれた。でも、小児科医にかけられた言葉は、まるで呪いの言葉のようにわたしの心を塞ぎ、不安な気持ちでいっぱいにした。はじめての育児が始まるというのに、マイナスからのスタートだった。
 
「心配な母親」と宣告されたため、我が子は退院してから2週間後に特別検診を受けることになっていた。通常であれば、退院後の検診は1ヶ月後に行われる。その2週間で母親として結果を出さなければならない、気持ちばかりが焦ってしまっていた。でも、なかなか出なかった母乳は、その検診の直前に出るようになっていた。それは、突然だった。
 
生後2週間の検診に対応してくれた小児科医は、病室でわたしに宣告した小児科医とは、異なる人物だった。初老で優しげな男性の医師は、通常とは異なる検診に訪れたわたしと我が子に、不思議そうに言った。
「どうしたの? なにか、心配なことがあるのかな?」
どうやら入院時の出来事は申し送りがされてなかったようで、わたしは事の次第を説明した。医師は目を細めながらわたしの話を聞き終わると、ゆっくりと話し始めた。
「それは大変だったね。でも、いまは、母乳は出ているんでしょ? あかちゃんにも問題はなさそうだし、心配することはないよ。でも、なにか不安になることがあったら、いつでも病院へ来ていいからね」
優しく穏やかな声と言葉に、わたしはほっとして、なんだか涙が出そうだった。張り詰めていた気持ちが、和らいでいくようだった。抱っこしていた我が子をしっかりと抱きしめて、先生の話を聞いていた。
 
母乳育児は、出始めたら順調に進めることができた。出産して、母乳が出るなどの母親としてのからだが整うまでに、時間がかかったようだった。きっと、個人差があるのだろう。子どもが生まれてすぐに、母親としてからだが切り替わるわけでは、ないのかもしれない。でも、生まれた子どもはそんな母親の事情はおかまいなしだ。待ってはくれないし、待たせてはいけない。それは命に関わることだから。わたしは気持ちばかりが焦ってしまっていたけれど、優しい医師の言葉は心強く、励みになった。
 
いつのまにか、わたしの母乳は潤沢にでるようになった。産院では、まったく出る気配がなかったのに。我が子も、満足するほどに飲むことができたようで、おなかがいっぱいになって、安心して眠ってくれるようになった。よかった、ほんとうによかった。満腹で眠る子どもの顔を見ることができるなんて、これ以上幸せなことはない。わたしは母乳にこだわっていたけれど、ダメだったらミルクでもいいじゃないか、とにかく、子どもが満足してくれれば、それでいいではないか、とさえ思えるようになった。わたしの仕事は、子どもを安全に元気に育てることだ。極端な言い方をすれば、死なないように守ることだ。
 
産院での小児科医の言葉は、衝撃だった。でも、あの出来事があったおかげで、あの時の言葉を覆そう、「母親失格である」、と宣言した相手が驚くほどのよい保育者になって、言ったことを後悔させてやろう、と心に誓った。実際には、できないことは山ほどある。不出来な母で、我が子が困っただろうことも、きっとある。でも、少しでも理想の母親に近づけるための、努力をするように心掛けた。
 
人間の子どもは、1年ほど未熟な状態で生まれる、と聞いたことがある。本来だったら、あと1年は母親のおなかの中で成長してから生まれても、おかしくないそうだ。生まれたてのあかちゃんは、目も見えないし立ち上がることもできない。ほかの動物が生まれてすぐに歩いたりすることができるのに対して、とてもか弱く、無防備な状態で誕生する。お世話をしてもらうことが前提の状態だ。これは、もしかしたら母親、もしくは保育者のために与えられた1年という期間なのかもしれない、と思うのだ。あかちゃんが成長する1年の間に、母親もしくは保育者が、保育するものとしての気持ちや心構えを育むための期間ではないのだろうか、と。
 
ある日、子どもと一緒に散歩に行ったときのことだ。1歳になろうとしていた子どもを抱っこひもで括り付けて、のんびり歩いていると、通りすがりの婦人に声をかけられた。すこしの会話の後、初めて会ったその婦人は、眩しそうにわたしの子どもをながめて、言ったのだ。
「上手に子育てをされているのね」
びっくりした。そんなことを言われたのは、はじめてだったから。我が子はそのとき、こぼれそうな頬は桜色につやつやと輝き、手や足もふっくらと、はちきれそうだった。おそらく、その様子を褒めてくれたのだろうと思う。ほんの偶然の出会いの、わずかな時間の会話だったけれど、わたしはこの時のことを忘れられない。子どもが生まれてから、これでいいのだろうか、ほんとうは間違いではないだろうか、といつも悩んで苦しんでいた。でも、わたしがいま子どもと向き合って過ごしてやっていることは、間違いではなかったかもしれない、と初めて思えたのだ。わたしがしていることを認めてもらえたような、そんな気持ちがしたのだ。
 
母となって、やっと10年が経った。わたしは、ほんとうによい母になっているのか、と聞かれると、正直わからない。悩みながら、苦しみながら、進んだり戻ったりして、子どもに帆走している。子どもの年齢の数だけしか、母親も母としての年数が経っていないのだ。これからも一緒に学びながら、寄り添っていきたい、この子を守っていきたい、そんなことを子どもの誕生日に、あらためて誓ったのだ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
種村聡子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

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2022-11-16 | Posted in 週刊READING LIFE vol.194

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