環境カウンセラーと行く! ものづくりの歴史と現場を訪ねる旅

【環境カウンセラーと行く! ものづくりの歴史と現場を訪ねる旅】第10回:綱渡りのような循環の上でゆらぐ和ろうそくの炎――使い続けてこそ生きるものづくり(磯部ろうそく店)  


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/06/12/公開
記事:深谷百合子(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
徳川家康公が生まれた岡崎城から北東へ700m、徒歩10分ほどのところに「信濃門跡」という石碑がある。そのすぐ近くに、300年前から「信濃門にある三角屋敷のろうそく屋」と言われてきた場所がある。磯部ろうそく店だ。路地を入ると、江戸時代から続く店とは思えないモダンな建物が立っていた。
 
「実は、2011年に漏電による火災で、店も先祖代々受け継いだろうそくづくりの道具も、すべて失ってしまいました。今の店は、多くの方の支援によって再建されました。復活させて頂いた恩返しとして、作業場は外から見えるように変え、和ろうそくを通じて人が集えるギャラリーもつくりました」
 
9代目店主の磯部亮次さんと女将の有記枝さんは、そう言って店を案内してくれた。
 
地下にあるギャラリーで和ろうそくに火を灯すと、オレンジ色の大きな炎がゆらゆらと壁を照らし始めた。時折、炎が大きく揺れる。なぜかわからないけれど、ずっと見つめていたくなる。
 
火には不思議な力がある。古代から、人は生きる術として火を使ってきた。闇を照らすため。暖を取るため。煮炊きをするため。外敵から身を守るため……。時にはすべてを燃やしてしまう恐ろしさを、火は持ち合わせている。だからこそ人は、火に畏敬の念を抱き、火は祈りとともにあるのだろう。
 
「灯りがあると、そのまわりに人が集い、会話が生まれ、癒しや安心を感じられる場になります。でも、今の子どもたちは、ろうそくを見たことのない子もいるし、火すら見たことがない子もいます。だから、地下のギャラリーで火を見てもらえる環境をつくりました」
 
「ろうそくの灯りのある暮らし」を提案しつづけているお二人。そこには、「和ろうそくを通して人の心が動く瞬間をつくりたい」という思いがあった。
 

(写真左)磯部 亮次さん
磯部ろうそく店 九代目店主
(写真右)磯部 有記枝さん
磯部ろうそく店 女将

 
 

綱渡りのような循環の中で成り立つ「和ろうそく」



 
「和ろうそく」と聞いて、どんなろうそくを思い浮かべますか? 「白や朱色で、芯が太いろうそく」や、「花などの絵が描かれた小さなろうそく」を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。そうした「見た目」も和ろうそくの特徴のひとつです。でも、和ろうそくの最大の特徴は、「原料が100%植物由来である」というところです。石油由来のパラフィンを原料とする「洋ろうそく」とは大きく異なります。
 
当店の和ろうそくは、ウルシ科の「ハゼ」の実からとれる「はぜ蝋」を原料としています。ハゼの実は、7mほどの高さがある木にはしごをかけて、ひとつひとつ手でちぎって収穫されています。また、和ろうそくの芯の原料は、畳の材料として使われている「イ草」です。イ草の茎の中に詰まっている「髄(ずい)」を和紙に巻きつけてつくります。「芯巻き」という作業ですが、1本1本、手作業で巻いています。
 
機械で大量に生産できる洋ろうそくと違い、和ろうそくは、ほぼすべての工程が手作業で、手間と時間がかかります。加えて、今は原料や道具も入手が難しくなってきています。たとえば、ハゼの産地である九州では、自然災害の影響で木が倒れてしまったり、実を採取する人が減ったりしています。採取したハゼの実から蝋をとる精蝋会社は国内に1社、イ草を使って芯巻きをする業者も国内に1軒しか残っていません。さらに、芯にろうをつけていく作業で使う竹串をつくる業者は、もうすでにありません。原料となる植物、その植物を育て、収穫する人、原料からろうそくに加工していくまでの各工程、どれかひとつでも欠けたら、和ろうそくは存続できない状態にあります。
 
これは、和ろうそくに限ったことではなく、日本の多くの伝統工芸が直面している問題です。綱渡りのような循環の中で成り立っているわけですが、「伝統工芸は守るだけではなく、新しいことも仕掛けていかないと生き残れない」ということを強く感じています。
 
 

伝統を守っていくために大事なことは、お客様の気持ちを大切にすること



 
和ろうそくは、昔は仏具や生活用品として使われてきました。でも、今はなくても困らないものです。家の中で火を使うことも少なくなってきました。でも、静かに燃える炎を見ているとなぜか心が落ち着いたり、時を忘れて炎に見入ってしまうことはありませんか?
 
和ろうそくの炎は、夕日のようなオレンジ色をしており、独特のゆらぎがあります。ろうそくの中が空洞になっていて、その中を空気が流れるために、風がなくても炎が揺れるのです。このゆらぎが、私たちに癒しを与えてくれます。こうした和ろうそくの特徴と「お香」の香りを組み合わせて、癒やしを感じながら灯りを楽しむ使い方をSNSなどで発信し続けました。
 
すると、コロナ禍で皆がつらい気持ちを抱えている中、ネットで検索して、癒やしを求めてくる若者たちが店に訪ねてきてくれるようになったのです。
 

 
「自宅で手軽に和ろうそくを楽しみたい」という声を受けて、燭台から和ろうそくグッズまでセットになった「入門セット」をつくったり、火を使えない空間でも、画面越しに和ろうそくの炎を見ることができる「スマホde和ろうそく」といった、新しいアイディアを出したりしていきました。
 
また、和ろうそくは「おどろおどろしい」「怖い」というイメージがあるならば、真っ暗な地下ギャラリーで和ろうそくに火をともして、怪談話をするイベントも開催しました。
 
「そんなことを考えるなんて、けしからん」「仏様を冒とくするのか」と思われるかもしれません。でもそれは、昔から和ろうそくをつくり、寺院などに納めてきた「こっち側の論理」なのです。私たちは、お客様がほしいものを提供したい。自分たちの気持ちではなく、お客様の気持ちを大切にしたい。守っていくためには、何かを捨てて考えないといけないのではないかと思っています。
 
 

会社員と職人、天秤にかけられなかった突然のキャリアチェンジ



 
家業を継いで九代目店主になる前は、IT関連の企業に勤める会社員でした。ところが、26歳のときに、父である先代が病で倒れ、入院してしまいました。周りからは「店をなくしてはいけない」と言われ、悩みました。
 
ちょうど会社の仕事が面白くなってきた時期だっただけに、会社を辞めるという選択は苦しいものでした。でも、会社には自分の代わりはいるが、ここには代わりはいません。会社員と職人、天秤にかけられませんでした。加えて、父が倒れたのはちょうどろうそくの需要が増える繁忙期。お客様を待たせるわけにはいかず、とにかくやるしかありませんでした。ろうそくの仕事は何もわかっていませんでしたが、父がやっていたことの記憶をたどりながら、見よう見まねでつくりました。できあがったろうそくを集中治療室にいる父のところに持って行き、父に確認してもらっていました。当時つくったものは、今から思うと恥ずかしいものですが、お客様はよくつきあって下さったと感謝しています。
 

 
経営も厳しかったですが、会社員の経験を生かして、新しい視点で仕事のやり方を変えていくことにも挑戦しました。会社員時代、営業をしていたのですが、当時の市場の動向から、「将来は問屋がなくなっていく」と感じていました。ところが、家業のろうそく店をみてみると、取引先は問屋ばかりです。これではまずいと思い、仏壇・仏具店や寺院などを一軒一軒訪ね、お客様と直接関係をつくっていく方向へ舵を切りました。結局、今では問屋はなくなってしまったので、あの時に動いていてよかったと思っています。
 
 

植物由来だからこそ直面した自然の脅威



 
家業を継いで間もない1991年、もうひとつのピンチがやってきました。原料である「はぜ蝋」が手に入らなくなってしまったのです。理由は、ハゼの産地である九州を襲った2つの自然災害でした。ひとつは雲仙普賢岳の大火砕流、もうひとつは台風19号です。ハゼの木は根こそぎ倒されて、壊滅的な被害を受けてしまったのです。
 
ハゼの木は、実をたくさんつける豊作の年と、ほとんど実をつけない凶作の年を交互に繰り返す木です。1991年は豊作の年になるはずでした。ところが、被害を受けた影響で、その年は収穫量が激減、翌年は凶作の年ですから、翌々年の収穫時期まで「はぜ蝋」が手に入らないという事態になりました。
 
もともと豊作と凶作を繰り返すものですから、問屋には在庫があるはずだと思っていました。ところが、在庫はありませんでした。問屋の仕事は、ものを切らさないことなのではないか……。私は、「問屋を通す意味があるのだろうか」と疑問を持つようになりました。それで、生産者と直接取引する道を探ろうと、ハゼの産地である九州を訪れました。はぜ蝋の生産者と和ろうそくの生産者、お互いに顔を見たこともない者同士です。何度も現地を訪れ、話をして、少しずつ心を許して頂き、直接はぜ蝋を分けて頂けるようになりました。
 
精蝋会社と一緒に、「合成はぜ蝋」の開発に取り組んだこともあります。はぜ蝋の化学的な組成はわかっているので、同じ組成のものをつくれば、蝋を安定供給できるのではないかと考えたのです。しかし、どれだけ試行錯誤しても、天然のはぜ蝋と全く同じにはならないのです。天然のはぜ蠟には、分析されていない微量の「何か」があるのでしょうね。手触りが違ったり、蝋が乾かなかったりするのです。加えて、化学的に合成したはぜ蝋に対して、「これは別物だ」と市場が許してくれませんでした。
 
ただ、はぜ蝋を入手するために奔走しても、それは和ろうそくの生産を安定させるだけのことで、生産したものを売らないと商売になりません。でも、世の中はどんどんろうそくを使わない世界になっています。お寺でさえ、ろうそくから電気に置き換わってきました。そうした世の中の変化に対して、「ろうそくを灯してもらう意義はどこにあるのか」を悶々と考える日々が続きました。
 
 

「価値」の意味を学んだ欧米でのできごと



 
2011年に火災ですべてを失ったときは、「店をやめるチャンスだ」と思いました。しかし、周りからの「何とか復活してほしい」という期待が大きく、やめるとは言い出せませんでした。続けていくのは正直苦しかったです。でも、周りから多くの支援を頂いて、「ここでやらなければ意味がない」と思いました。
 
「苦しい」と言っているだけでは、何も変わりません。もっと和ろうそくを、自分たちのことを知って頂くことが大事だと思いました。そのために、ホームページもリニューアルし、女将がコツコツと発信を続けました。発信を始めた当初は、まったく反応はありませんでした。それでも地道に続けていると、思いがけないところから声をかけて頂けるようになりました。
 

 
海外にも打って出ました。日本のモノづくりの海外拠点としてニューヨークの一等地にオープンした路面店「THIRTEEN CROSBY」。そこに商品を置かせて頂くコンペに参加しないかとオファーを受けたときは、思い切って参加しました。そうそうたる企業が居並ぶ中で、女将が和ろうそくの特徴や背景、そして、和ろうそくに対する想いをプレゼンしました。ありがたいことに採用されて、ニューヨークの一等地に私たちの商品を並べて頂くことができたのです。
 
その店では、売れているものほど店の入口近くに置かれます。最初、和ろうそくは店の一番奥に陳列されていました。ところが、3ヵ月後には店の最前列、通りから見える場所に置かれていたのです。海外で和ろうそくが評価されたことが、とても嬉しかったですね。
 

 
また、フィンランドの首都、ヘルシンキで行われた展示会に参加したときには、「ヨーロッパには、古いもの、上質なものを良しとする文化があり、和ろうそくの価値を日本人よりも理解して下さる」と感じました。喜んで頂けるかなと思って持って行った「日本らしい絵が描かれた絵ろうそく」には見向きもせず、シンプルな和ろうそくを高く評価して下さいました。すべて植物由来であるということ、そして、「和ろうそくの、このフォルムと肌つやを人の手でつくっているところが素晴らしい」という評価でした。これは、「安くて良いもの」に価値を置く日本では得られない評価です。「値段ではなく、良いものは価値がある」という感覚を教えて頂いた経験でした。
 
家の中でろうそくを灯す暮らしが普通にあり、ろうそくを身近に感じている国で評価されたことは、すごく意味のあることだったと思います。
 
 

ひとりでも多くの方に和ろうそくのことを伝えるのが自分たちの務め



 
和ろうそくは生活用品であり、消耗品でした。消耗品をつくってきた弱さで値段を高くできないというジレンマがあります。「いずれなくなってしまうものなら、高くしてもいいかもしれない」と思うこともありますが、価値に見合った対価を得ようとした時にどうなるかわからないという怖さもあります。
 
和ろうそくをはじめとする伝統工芸品にはストーリーがあります。「物」だけでなく、その背景にあるストーリーも含めてひとつの商品になっています。でも、1、2回で飽きられてしまうことが多いのも事実です。どうしたら使い続けて頂けるのか。それをずっと模索しています。
 
今、私たちの店は、清水寺で毎月28日に開催される「1000market(サウザンドマーケット)」に出店させて頂いています。その清水寺のご住職から聞いたお話が印象的でした。
 
清水寺は、今でこそ大勢の観光客が訪れる場所ですが、荒廃していた時期があったそうです。明治維新のあとに起きた仏教排斥運動などの影響です。荒れていた清水寺を復興しようと、当時の住職は、観音様を背負って、全国を行脚し、熱心に布教活動をされたそうです。
 
そのお話を聞いて、「私たちもお店でお客様を待っているだけでなく、和ろうそくを背負って、こちらから出向いていこう」と思いました。それは、和ろうそくを売り歩くということではありません。和ろうそくにまつわること、伝統産業全般のこと、店を訪れて下さった人たちの物語を聞きたいというお客様がたくさんいらっしゃいます。そうしたお客様のところへ出向いて、話をする機会を持とうと思っています。
 
次の世代につなげていくことも大切ですが、どうなるかわからない先の未来を不安に思うより、今できる色々なことに思い切って挑戦したいと思っています。少しでも長く続け、世の中に受け入れられるものを楽しみながらつくっていきたいですね。そして、和ろうそくの良さを、ひとりでも多くの方に伝え続けていくことが、私たちの務めだと考えています。
 
 

磯部ろうそく店
所 在 地:愛知県岡崎市八幡町1-27
営業時間:午前10:00〜午後18:00
定 休 日:水曜日・日曜日
体験・見学:事前に電話で予約
見学は1000円/名(1時間、お土産つき)
絵付け体験(オプション)は1600円/名(1時間半)
アクセス :名鉄名古屋本線「東岡崎駅」より徒歩15分
バスを利用する場合は、
「東岡崎駅」から名鉄バス「康生・大樹寺」方面に乗り、「本町」バス停で下車、徒歩3分
車の場合は、東名高速道路「岡崎I.C.」より約15分
ホームページ: https://www.isobe-r.jp/

写真提供:磯部ろうそく店

 
 
文・写真:深谷百合子

□ライターズプロフィール
深谷百合子(READING LIFE編集部公認ライター)

愛知県生まれ。三重県鈴鹿市在住。環境省認定環境カウンセラー、エネルギー管理士、公害防止管理者などの国家資格を保有。
国内及び海外電機メーカーの工場で省エネルギーや環境保全業務に20年以上携わった他、勤務する工場のバックヤードや環境施設の「案内人」として、多くの見学者やマスメディアに工場の環境対策を紹介した。
「専門的な内容を分かりやすく伝える」をモットーに、工場の裏側や、ものづくりにかける想いを届け、私たちが普段目にしたり、手にしたりする製品が生まれるまでの努力を伝えていきたいと考えている。

この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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