記憶が、櫻から天然色に為った《週刊READING LIFE Vol.253 カラフル》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライティングX」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2024/3/11/公開
記事:山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
写真提供:唐木 徹(カメラマン)
『こんにちは』
この日本語にメロディを付ける時、1970年の記憶を持つ50代後半以上の日本人の答えは、総じて或る曲と決まっている。
それは、数多くのヒットを飛ばした作曲家いずみたく氏の、『世界の国からこんにちは』だ。
1970年に開催された大阪万国博覧会のテーマ曲であった同曲は、文字通り大ヒットした。テレビやラジオで連日連夜流され、日本人の殆どが、メロディが耳から離れなく為っていたのだ。
だから、同曲のイントロが流れた途端に、
「こぉんにっちはぁ~♪」
と、条件反射の様に皆が、『世界の国からこんにちは』のメロディで唄い出してしまうのだ。しかも、フリ付きで。
半世紀以上経った現在、『世界の国からこんにちは』とは、浪曲師出身の国民的歌手・三波春夫氏が唄ったバージョンが有名だ。
しかし当時、『世界の国からこんにちは』は、他にも数多く歌手がカバーしたレコードが録音され発売された。有名どころでは、女優の吉永小百合さんや、元祖『御三家』の一角である西郷輝彦さん(故人・辺見えみりさんの父)のものが在った。
現代で例えなら、2025年開催の関西万博のテーマ曲を、NHK紅白歌合戦の常連MISIAさんが唄い、ヒットさせる様なものだ。そして、後追いで上白石萌音さんと、福山雅治氏が配信する様な感じだ。
そのムーブメントを、想像して頂けるだろう。
1970年当時はまさに、日本中を挙げて大阪万博を盛り上げようとしていた訳だ。
この背景には、万博の僅か6年前(1964年)に、東京で東洋初のオリンピックが開催されたことが有る。
数多くの選手・関係者・記者、そして若干だが旅行者が日本に押し寄せ、大いに盛り上がったからだ。その上、未だ戦後を引き摺っていた1964年の日本人は、外国人を見ただけでも感激してしまう時代だったのだ。
それが万博は、オリンピックとは比べ様の無い開催期間と、限定されない訪日外国人旅行者数が想像されていた。
何しろ、当時の為替相場は、$1=¥360の固定相場制だった。
昨今の日本は、50円程度の円安で外国から、
『日本の物価は安い!』
と、驚かれ、海外から観光客が押し寄せている状況だ。
1970年当時、諸外国から日本を見ると、もしかして発展途上国(当時の表記は後進国)と思われていたのかも知れない。
一方、日本で暮らす私達は、連続して開催される国際的イベントに、とても誇らしい気持ちになっていた。戦後の荒廃から抜け出し、社会の混乱が収まり、先進国(一流国)の仲間入りを果たせた嬉しさだ。
高度成長の絶頂期に在り、誰もが皆、
『明日は今日より良くなる』
と、信じていた時代だった。
当時、11歳の小学生だった私から見ると、日本をここ迄発展させ、僕等に何不足無い自由な社会をもたらせてくれた大人達に、尊敬の念を持っていた。
それより何より、ただ単に“日本という国は凄い!”と信じ切っていた。
東京オリンピックから大阪万博の間で、大きく変わったことが有る。
それは、こんなことでも解かる。
昨今のレトロブームで、年配者のことを、
「子供の頃の写真がモノクロ!」
と、批判というか‘オチョクリ’が、よく見受けられる。
これは、事実だ。
私だって幼少時の写真は、全てモノクロだ。当時からカラーフイルムは、有るには有ったが、とても高価だった。フイルム代と現像費を合計すると、約二倍だった記憶が有る。
昭和中期には、多くの家庭にカメラが行渡っていた。昭和の御父さんは、家族旅行時に首からカメラを下げているのが定番だった。しかし、カメラの中には、モノクロフィルムしか入っていなかった。正確には、入れることが出来なかった。コストの問題で。
それと同時に、各家庭に行き渡り始めていたテレビも、その大半が‘白黒テレビ’だった。
これは、私達の記憶を“白黒”で残る原因と為ったのだ。
その証拠に、経済発展によって庶民もカラーテレビに手が届く時代となった1970年頃から、記憶に色が付く様に為ったのだ。
昭和中期は未だ、多くのコンテンツに色が付いていなかった。
勿論、実際に生で観る舞台やスポーツは、色が付いていた。当たり前の話だが。
しかし、多くの映画やテレビ番組はモノクロの儘だった。
生観戦とモノクロコンテンツの混在で、私達の記憶はゴッチャに為り、その結果、記憶の殆どが、グレーを主流としたモノクロと為った訳だ。
実際、日本初のカラー映画といえば、松竹製作の木下恵介監督作品『カルメン故郷に帰る』だ。製作・公開は、1951(昭和26)年。日本映画には、戦前・戦中にカラーフイルムが使われていなかったのだ。
日本人の記憶に、色が無かったのも仕方がないことだ。
アメリが映画界では既に、カラー映画が製作されて居り、有名なものでは名作『風と共に去りぬ』が在る。製作されたのは1939(昭和14)年。つまり戦前からアメリカでは、大作にはカラーフイルムが使われていたのだ。
更に、戦争の記録映像にもカラーフイルムが使われていたことにも驚かされる。
実際、戦後に為って、戦争中の記録映像(アメリカ製)や『風と共に去りぬ』(1952年日本公開)を初めて観た日本人は、
「戦争中に、カラー映像を撮る様な国と、よく戦争なんぞをしたものだ」
「こんな映画を撮ることが出来る国に、勝てる訳が無かった」
と、口々に感想を述べたそうだ。これは、19世紀の明治生まれの祖父から聞いたことだ。
では、昭和中期からアメリカ製コンテンツを多く観ていた人の記憶は、カラーだったかというと、そうばかりではない。
アメリカ映画でも、1960年に全編モノクロ映画『アパートの鍵貸します』(名匠ビリー・ワイルダー監督作品)が、アカデミー作品賞を受賞している。
当時、数多く放映されていたアメリカのテレビドラマも、その殆どがモノクロ作品だった。アメリカ製テレビドラマに、から作品が多く為ったのは1960年代後半のことだ。
そんな訳で、幼少の頃から浴びる様に映画やテレビ、そしてアメリカ製ドラマを観て来た私の記憶は、モノクロでしか残っていないのだ。写真だけでなく。
ところで、“天然色”という語彙を御存じだろうか。
私が疑問に感じたのは、Z世代の若者に、こう質問されたからだ。
渋谷のレコード店で、
「ねぇ、山田さん。この“天然色”って、どういう意味ですか?」
と、問い掛けられたのだ。
私は、間髪を入れず、
「あぁ、カラーのことだよ」
と、答えた。
間違いなく彼女は、故・大瀧詠一(おおたきえいいち)氏の1981年にリリースされたアルバム『A LONG VACATION』を見て言っているのだろう。そして、一曲目『君は天然色』の題名を見て疑問に思ったのだろうと私は直感したからだ。
『天然色=カラー』は、モノクロの記憶を持つ日本人なら、大概は知っていることだろう。普通に使っていた言葉だからだ。
カラーテレビやカラー映像が一般的に為り、わざわざ言わなくても済む時代に為る迄、日本映画のカラー作品(の宣伝ポスター)やカメラのカラーフイルムのパッケージには、‘カラー’ではなく“天然色”、映画の場合は特に“総天然色”の表記が在ったものだ。
先述の『カルメン故郷に帰る』のポスターには、堂々と“日本映画史上初・総天然色作品”の文字が躍っている。
この表記、実は本筋を突いているのだ。何故なら、辞書で“天然色”を引いてみると、
『天然色:映画・写真などで、自然の色彩らしく表わした色。また、その映画・写真。』(精選版・日本国語大辞典)
と、在るからだ。
そう、“天然色”とはカラー全般で使うのではなく、映画や写真でこそ使って良い語彙なのだ。
現代で見ると、モノクロ写真は色が無いことも手伝って、どこか暗い感じがする。
それは、多くが震災や戦災の記録写真だったりするからだ。また、凛々しい面持ちの旧・日本兵の写真も、その後の悲しさを私達は知っているので、気持ちが高揚しはしない。
例え戦後の物であっても、モノクロ写真は全快とは言い切れない。現代と比べると、どことなく時代的な‘貧しさ’が漂ってしまうからだ。
やはり、華やかな感覚と為るのは、映画や写真そしてテレビの主流がカラーに為ってからのことだ。
それにより記憶は勿論、僕等の発想も色付いたからだ。
そしてその一助が、大阪万博のテーマソングである『世界の国からこんにちは』なのだ。
同曲の作詞を手掛けたのは、当時大阪在住の詩人・島田陽子さんだ。
島田さんは『世界の国からこんにちは』の歌詞中で日本のことを、“ニホン”でも“ニッポン”でも無く、ましてや“日乃本(ひのもと)”でも無く、勿論“JAPN”でも無く表現した。
彼女は、日本のことを代表的な花を使い『櫻の国』と色で表現したのだ。(歌詞の二番)
世界に向けて、華やかに色付いた日本を宣言したのだ。
そうして、『世界の国からこんにちは』を唄い続けた僕等の記憶も、一遍で色が付いたのだ。
櫻の開花が待ち遠しかった1970年3月15日、大阪万博は華々しく開幕した。
僕等の記憶はそこから、一気に天然色に為った。
□ライターズプロフィール
山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター)
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
更に、“天狼院・解放区”制度の下、『天狼院・落語部』の発展形である『書店落語』席亭を務めている
天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46stSeason Champion
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