双極性障害の男性が”5分だけ散歩”から世界を取り戻すまで《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
2025/12/1/公開
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
家のドアの前で、何度も立ち止まっていた。
外に出たい。でも、出られない。
そんな彼がある日、玄関で靴を履いたまま言った。
「5分だけ、行ってみます」
その”5分”が、彼の世界を少しずつ取り戻していく最初の一歩になった。
——
彼が最後に外出したのは、3ヶ月前だった。
それまでは、営業職として毎日外回りをしていた。活発で、社交的で、仕事熱心な人だった。しかし、双極性障害の診断を受けた後の抑うつ期は、彼から全てを奪っていった。
最初は、会社に行けなくなった。次に、コンビニに行けなくなった。そして最後には、玄関から一歩も出られなくなった。
訪問での初回面談で、彼は布団の中から出てこなかった。
「すみません、こんな姿で……」
声だけが、薄暗い部屋の奥から聞こえた。カーテンは閉め切られ、空気は重く澱んでいた。部屋の隅には、コンビニ弁当の空容器が積まれていた。すべて、家族が買ってきたものだった。
「外に出ようと思うんです。でも、玄関まで行くと、身体が固まってしまって……」
彼の声には、深い疲労と自責の念が滲んでいた。
双極性障害における抑うつ期は、単なる「気分の落ち込み」ではない。それは、生きるエネルギーそのものが枯渇する状態だ。起き上がることも、顔を洗うことも、すべてが途方もなく重い。そして、「こんな自分ではダメだ」という罪悪感が、さらに身体を重くする。
「外に出たら、人に会う。何か話さなきゃいけない。でも、何を話せばいいのかわからない」
彼は続けた。
「それに、みんな普通に生活してるのに、自分だけがこんな状態で……情けなくて」
外の世界は、彼にとって”普通”で溢れた場所だった。そして、その”普通”に自分が届いていないことが、彼を苦しめていた。
外出への恐怖には、いくつもの層があった。
人に会う不安。会話をする恐怖。「普通」を演じなければならないプレッシャー。そして、「外に出られない自分」を認めたくない気持ち。
だから彼は、家という殻の中に閉じこもった。
「もう、外の世界は自分には関係ないんだって、そう思うようにしてました」
それは、諦めではなく、自己防衛だった。傷つかないために、世界から距離を取る。しかしその距離は、彼をますます孤立させていった。
ある日のセッションで、私は彼に提案した。
「外に出てみませんか? ほんの5分だけ」
彼は即座に首を横に振った。
「無理です。外に出るなんて、考えただけで心臓がバクバクします」
「では、玄関まで行ってみるだけでもいいですか?」
彼は少し考えて、小さく頷いた。
作業療法における”段階づけ”は、小さな成功体験を積み重ねることで、失われた自信を取り戻すプロセスだ。彼の場合、「外出」という行為をいくつもの小さなステップに分解する必要があった。
最初のステップは、玄関に立つこと。
彼は布団から出て、リビングを抜け、玄関に向かった。その数メートルの距離が、彼にとってはマラソンのように長かった。玄関のドアの前で、彼は立ち止まった。
「ここから先に行くと、もう戻れなくなる気がするんです」
「大丈夫です。いつでも戻っていいんですよ」
そう伝えると、彼は深呼吸をした。そして、ドアノブに手をかけた。
ドアを開けた瞬間、外の空気が流れ込んできた。
彼は目を細めた。久しぶりの自然光が、眩しかった。風が、頬に触れた。どこかで鳥が鳴いていた。
「……外って、こんな感じだったんですね」
彼は、呟いた。
それは、世界との再会だった。
次のステップは、玄関の外に出ること。
翌週、彼は靴を履いて、玄関の外に立った。家の敷地内、ほんの3歩。でも、その3歩が、彼にとっては大きな挑戦だった。
「周りに人がいないか、すごく気になります」
「もし誰かに会ったら、挨拶だけでもいいんですよ。話さなくても大丈夫」
彼は頷いた。そして、ゆっくりと外に出た。
誰もいなかった。静かな住宅街の午後。遠くで子どもの声がしていた。彼は立ち尽くしていた。
「何か、懐かしいです……」
その言葉には、失っていた感覚を取り戻す驚きがあった。
そして、3週目。
「5分だけ、散歩してみませんか?」
彼は長い間、黙っていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「やってみます」
私たちは、家の前の道を歩き始めた。ゆっくりと、彼のペースで。
最初の1分は、緊張していた。彼の歩き方はぎこちなく、視線は地面に向いていた。でも、2分を過ぎたあたりから、彼の歩調が少し軽くなった。
道端に、小さな花が咲いていた。
彼は立ち止まって、それを見つめた。
「この花、名前なんていうんでしょうね」
「タンポポですよ」
「……そうか。タンポポか」
彼は、小さく笑った。
その笑顔を見て、私は気づいた。彼が取り戻し始めているのは、「外出する能力」ではなく、「世界に触れる感覚」だったのだと。
風の音、花の香り、遠くから聞こえる生活の音——それらは、彼が3ヶ月間、遮断してきたものだった。そして今、それらがひとつずつ、彼の中に戻ってきていた。
5分の散歩を終えて家に戻ったとき、彼は言った。
「……できたんですね、僕」
その言葉には、驚きと、小さな誇らしさがあった。
それから、彼の散歩は少しずつ長くなっていった。
5分が10分になり、10分が15分になった。ルートも少しずつ広がった。家の前の道から、公園まで。公園から、コンビニまで。
ある日、彼はコンビニで買い物をした。
「何を買おうか、自分で選ぶのが楽しかったです」
彼は嬉しそうに言った。
それまで、家族に買ってきてもらうことに、彼は罪悪感を抱いていた。「自分は何もできない」という無力感。でも、自分で店に行き、自分で選び、自分で買う——その一連の行為が、彼に「できる自分」を思い出させた。
散歩の途中で、近所の人に会うこともあった。
最初は、視線を逸らしていた。でも、ある日、勇気を出して挨拶をした。
「おはようございます」
「あら、おはよう。最近見かけなかったけど、お元気でしたか?」
「はい、ありがとうございます」
それだけの会話。でも、その会話が、彼を社会とつなぎ直した。
「自分は、まだこの世界の一部なんだって思えました」
彼は言った。
双極性障害の回復において、「行動の再開」は重要な転換点となる。抑うつ期は、思考も感情も身体も、すべてが停止する。その停止状態から抜け出すには、小さくてもいいから「動く」ことが必要だ。
しかし、「動く」ことの目的は、距離を稼ぐことではない。それは、「感覚を取り戻す」ことだ。
彼が5分の散歩で得たのは、「5分歩けた」という達成感だけではなかった。それは、風を感じる皮膚、花を見つける目、鳥の声を聞く耳——失われていた”世界を感じる装置”を、再び起動させることだった。
作業療法では、これを「感覚の再接続」と呼ぶ。
人は、世界との接続を失うと、生きる実感も失う。逆に、どんなに小さくても、世界と再びつながる体験は、「自分は生きている」という感覚を呼び覚ます。
彼の場合、散歩はリハビリではなく、「世界とのリンクを張り直す作業」だった。
3ヶ月後、彼は職場復帰のための面談に参加した。
「まだ、フルタイムは無理かもしれません。でも、週2日くらいから始めてみたいです」
彼の声には、以前にはなかった落ち着きがあった。
そして、半年後。
彼は、毎朝散歩をしてから出勤するようになっていた。
「朝の散歩が、自分を整える時間なんです」
彼は言った。
「外を歩くと、今日も生きてるなって感じられる。それが、仕事に向かう力になってます」
5分の散歩は、今では彼の生活の一部になっていた。それは義務ではなく、彼が自分自身とつながるための儀式だった。
「あのとき、5分だけって言ってもらえて良かったです」
彼は振り返った。
「もし『毎日30分歩きなさい』とか言われてたら、絶対できなかった。でも、5分ならできるかもって思えた」
回復は、大きな目標から始まるのではない。それは、「今日、この瞬間にできる小さなこと」から始まる。
そして、その小さな一歩が、失われた世界を取り戻す扉になる。
今日も、彼はどこかの道を歩いている。
風を感じながら、花を見つけながら、世界とつながりながら。
それが、彼の”再起動スイッチ”だ。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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