メディアグランプリ

完璧な朝食を作れるようになった日、夫婦関係が終わった


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:飯田久枝(ライティング・ゼミ 2026年1月開講4ヶ月コース 第7回課題)

 

その朝、私はスクランブルエッグをふわふわに仕上げることができた。

 

トーストはきつね色に焼けていた。濃いめのエスプレッソを甘い香りのする豆乳に注ぐ。サラダのドレッシングは、自分が好きな酸味のものを迷わず選んだ。窓から差し込む朝の光が、テーブルの上を柔らかく照らしていた。椅子に座って、自分が作ったものをゆっくり眺めて、「完璧だ」と思った。

 

そして同時に気づいた。夫がいなくなって、はじめて私は、自分の朝食を作れるようになったのだと。

 

 

結婚してからの十数年、朝食は、少なくとも私にとっては、殺伐としていた。

 

夫はトーストより白米派だった。卵は半熟が嫌いで、しっかり火を通してほしいと言った。コーヒーは薄め、サラダのドレッシングはノンオイル。私がどれだけ工夫して作っても、「これじゃない」という空気が漂った。

 

文句を言われたわけじゃない。ただ、反応がなかった。「おいしい」のひと言がなかった。夫は新聞を読みながら黙々と食べ、食器をシンクに置いて、会社へ行った。私はその背中を見送りながら、何かを飲み込んでいた。

 

それが何年も続いた。

 

「どうせ何を作っても同じ」と思いながら、それでも毎朝台所に立った。自分のために作っているわけではなかった。誰かに喜ばれるわけでもなかった。ただ、波風を立てないために、黙って続けていた。好みのドレッシングを手に取りかけて、棚に戻したことが何度あったか。食べたいものを思い浮かべて、それをそっと心の奥にしまったことが何度あったか。

 

あるとき、職場の同僚が「朝ごはんは何が好きなの?」と聞いてきた。私は少し考えて、「なんでも食べます」と答えた。嘘ではなかった。でも、本当のことでもなかった。好きなものを問われたとき、答えが出てこない自分に気づいて、奇妙な感覚を覚えた。

 

朝食だけじゃなかった。夕食のメニューも、週末の過ごし方も、旅行の行き先も、友人との付き合いの頻度まで、気づけばすべてが「夫の基準」に合わせて設計されていた。私の好みは、どこかに消えていた。

 

 

離婚を決めたのは、大きな事件があったからではない。

 

ある夜、夫が先に寝て、私一人でリビングに座っていたとき、ふと思ったのだ。「私、何が好きだったっけ」と。

 

好きな食べ物。好きな映画のジャンル。好きな旅先。好きな休日の過ごし方。どれを考えようとしても、「夫が嫌いじゃないもの」というフィルターを通してしか、答えが出てこなかった。結婚前に好きだったものたちが、記憶の奥で霞んでいた。

 

怒りでもない。悲しみでもない。ただ、静かに、じわじわと怖かった。

 

このまま続けたら、私という人間が、どこかに溶けてなくなってしまう気がした。誰かの「ちょうどいい妻」として形を変えていくうちに、自分の輪郭が薄れていく感じ。そのことに気づいたとき、私の中で何かが決まった。

 

 

別居を切り出したとき、夫は驚いた顔をした。

 

「どうして?」と言った。でも私の中では、突然じゃなかった。ずっとずっと、小さな違和感が積み重なって、その夜ついに打ち明けただけのこと。

 

話し合いは行き詰まるかと危惧したが、夫は意外とあっさりと私の気持ちを受け入れてくれた。そして、私たちは別れた。怒りでも憎しみでもなく、ただ静かに、お互いが納得する形で終わった。終わった後、不思議と涙は出なかった。それが正しいことだったのだと、体が知っていたのかもしれない。

 

 

一人で暮らし始めた最初の朝、私は何を食べようか迷った。

 

迷えた、ということに、まず驚いた。

 

冷蔵庫を開けて、卵を取り出した。フライパンに油をひいて、弱火でゆっくりとかき混ぜた。急がなかった。誰かの好みも、誰かの時間も、気にしなかった。ただ自分が食べたい固さになるまで、丁寧にかき混ぜた。ふわふわのスクランブルエッグ。夫が嫌いだったやつ。

 

一口食べて、泣いた。

 

悲しくて泣いたのではないと思う。おいしかったから、なのか。それとも、やっと自分の朝食を食べられたから、なのか。うまく説明できないけれど、涙がじんわり流れた。フォークを持ったまま、しばらく動けなかった。窓の外では、いつも通りの朝が続いていた。

 

 

自由というものは、こんなにも静かにやってくるのか、と思った。

 

誰かに認めてもらえたわけじゃない。誰かに「よかったね」と言われたわけでもない。ただ、自分の好きなものを、好きなように作って、食べた。それだけのことが、胸に沁みた。

 

夫とのあの十数年は確かにあった。笑った日も、楽しかった夜も、消えるわけじゃない。でも、失ったものより、取り戻したものの方が大きかった。

 

自分の好みを知っていること。迷えること。選べること。そんな当たり前のことが、今の私にはとても大切に思える。

 

あの朝、私が私を取り戻したのだと、思う。夫婦関係は終わり、完璧な朝食を作れるようになった。

 

スクランブルエッグは、今日もふわふわだ。

 

 

終わり

 

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00



■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



関連記事