断られたくなかっただけだ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:山本圭亮(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)
※この話はフィクションです
母が電話をかけてきたのは、三月の終わりだった。
「膝が痛くて、荷物が運べない」と母は言った。引っ越しの話は聞いていた。長年住んだ団地を出て、弟の家の近くの小さなアパートに移ると、年末に弟から聞いていた。母本人から連絡が来たのは、それ以来初めてだった。
「手伝おうか」と、俺は言わなかった。
弟がいる。業者もいる。俺が行かなくても、なんとかなる。そう自分に言い聞かせて、電話を切った。
でも本当は、知っていた。
母は俺に頼みたくて電話してきたのだと。「膝が痛い」は、「来てくれないか」の言い換えだったのだと。受話器の向こうの声が、いつもより少しだけ細かった。それに気づいていながら、俺は気づかないふりをした。
なぜかと問われれば、答えは一つしかない。
断られるのが、怖かった。
正確に言えば、断られることそのものより、断られたときに「やっぱり俺たちはもう他人なんだ」と確認してしまうことが、怖かった。
母と俺の間には、長い空白がある。
俺が三十のとき、仕事を辞めた。当時は「自分を見つめ直したい」などと言っていたが、実際はただ逃げたかっただけだ。貯金を崩して一年間、ほとんど部屋にこもっていた。母はその一年間、一度も「どうするつもりだ」と言わなかったし、俺も何も言わなかった。そして、電話もほとんどなくなった。
俺はそれを、見捨てられたと受け取った。
母はたぶん、俺を傷つけないように黙っていたのだと、今ならわかる。でもあのころの俺には、母の沈黙が冷たい拒絶に見えた。助けを求めれば「そんな息子に育てた覚えはない」と言われる気がして、何も言えなかった。母も何も言わなかった。ふたりとも、黙ったまま、一年が過ぎた。
それから十年。俺たちは年に数回会い、当たり障りのない会話をして、それぞれの場所に戻る関係になった。お互いに、何かあっても頼ることがなかった。さらに頼られることがないから、断ることもしなかった。だから、心は痛くも痒くもない、でも何も積み上がらない関係であった。
それを俺は「大人の距離感」と呼んで、納得したふりをしていた。
そんな折、母が引っ越しをすると弟から連絡が来た。
「兄貴、明日来れる?母さん、兄貴に来てほしいって言ってるんだけど」
俺は画面を見つめた。
来てほしい。
母がそう言ったのか、弟に気を遣ってそう言ったのかは分からない。でも、弟を経由して、確かに、俺に向かってそう言った。
すぐには返信できなかった。十年ぶりに、何かが胸の奥を押すような感覚があった。台所に立ったまま、スマートフォンを握って、しばらく動けなかった。
母が弟を通して言ったのは、俺が断るかもしれないから。あるいは、俺に断られたら、今度こそ立ち直れないから。
そう考えたとき、初めて気づいた。怖かったのは、俺だけじゃなかったのだと。
母も、ずっと、怖かったのだ。
翌日、俺は母の団地に行った。
廊下に段ボールが積まれていた。六畳の部屋で、母は小さく見えた。七十二歳になっていた。膝にサポーターをつけていた。去年より、背が縮んだ気がした。
「来てくれたの」
母は驚いた顔をした。本当に来るとは思っていなかったような、そんな顔だった。
「来てほしいって言ったんだろ」
「弟に言っただけよ。あなたには言えなくて」
その言葉が、静かに胸に刺さった。
あなたには言えなくて。
俺に断られるのが怖かったから、弟を通した。十年間の空白が、母にとってもそういう意味を持っていたのだと、その一言で初めてわかった。
俺たちは十年間、お互いに断られるのが怖くて、お互いに頼むことをしなかった。
お互いに傷つきたくなくて、お互いを遠ざけていた。
それだけのことだった。ただ、それだけのことが、十年だった。
荷物を運びながら、母が言った。
「重い箱、お願いできる?」
弟を通さず、直接、俺に言った。
俺は「ああ」と言って、一番大きな段ボールを持ち上げた。
それだけだった。大した言葉も、和解の場面もなかった。ただ段ボールを運び、母が指さす場所に置いた。
でも俺は、その「お願いできる?」を、しばらく忘れられないと思った。
怖かったはずなのに、言えた。七十二歳の母が、十年間遠かった息子に向かって、それでも直接、言えた。
俺はまだ、母に何も頼めていない。
でもいつか、頼める気がした。
母が怖いまま言えたなら、俺にも、きっと言える日が来る。
夕方、作業が終わって、母が麦茶を出してくれた。ふたりで黙って飲んだ。十年ぶりに、沈黙が冷たくなかった。
それだけで、今日来てよかったと思った。
≪終わり≫
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