虹の水たまり
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:小隈 聡子(ライティング1DAY講座)
冬の夕方。 冷たい風が頬と耳に当たり、風が痛く感じる冬特有のひんやりした空気。 銭湯の煙突からは白い煙がゆっくりと空に伸び、まるで空に向かって手を差し伸べているみたいだった。
「寒いから早く帰ろう」と、まだ体から湯気がふわりと立ち上る幼い私は、銭湯の出口で縮こまって立っていた。
すると母がにっこり笑いながら、「見てごらん! 大きなお月さん! あそこあそこ!!」と指を差した。
私は思わず顔を上げ、冷たい風に髪を揺らしながら、母の指の先に目を向けた。 小さな私はその煙の横に、信じられないほど大きな月を見つけたのです。
両手いっぱい広げるほどの巨大な月。
近所の銭湯の煙突の横から、優しく幼い私を見下ろしていました。 銭湯の入り口からはお風呂上がりの人たちの笑い声が聞こえ、ふわりと石けんの匂いが漂っていました。
空は群青色に変わりかけ、吐く息は白く、私はその場に立ち止まってしばらく巨大な月を見上げていました。
大人から見れば、ちょっと大きく見える程度の月だったのかもしれません。 でも体も小さく目線も低い幼い私には、あんなに大きく見えたのでしょう。
あの月のことは一生忘れません。
その頃、私は不思議な体験をたくさんしていました。 と言ってもただの空想なんですけど。 私はよく頭の中で別の世界へ出かけていました。
そこでは誰も急かさず、時間もなく、叱られることもありません。
自分が思ったことがそのまま世界になる、そんな自由な場所でした。
母と保育園の帰りに水たまりを見つけました。 そこには小さな虹がありました。 今思うと、たぶん水たまりに油が落ちて七色に見えただけなのかもしれません。 でも当時の私には、空に大きくかかる虹のように、まるでその水たまり一面に巨大な虹がかかっているように見えたのです。
そして私は頭の中で勝手に小さくなって、その虹を渡りました。
端まで渡ってまた引き返し、虹の中に入ってみました。
体がふわふわ浮いて一体化する感覚。
大きく見開いた目には様々な色が飛び込み、光の道を歩きながらどこまで続いているのだろうと胸を躍らせました。
すると「いつまでボーッと見てるの。もうそろそろ帰るよ!」 という母の声で、夢の世界から現実に引き戻されました。
私は「あー、楽しかった!また明日ね!」と心で水たまりに手を振りました。
翌日、楽しみに水たまりの場所へ行くと、もうそこにはありませんでした。
別の日に探しても、あの「虹の水たまり」には会えませんでした。
こんなこともありました。 ある日、洗濯機を眺めていました。 中の水はぐるぐる回り、真ん中に渦ができています。「ここに落ちたら抜け出せない」と思いました。 するとまた不思議なことが起こりました。
あたりは急に真っ暗な夜になり、横殴りの大雨が降り、嵐になったのです。
気がつくと小さくなって、洗濯機の中で小舟に乗り、航海していました。
私の小舟には、大事にしていたカエルのぬいぐるみとうさぎの指人形も一緒です。 真っ暗な夜の大雨の中、みんなで必死にオールを漕ぎ、渦に飲み込まれないよう戦います。 その世界では私たちは勇敢な船乗りでした。
何度も海に(洗濯機に)落ちそうになりながらも、仲間と助け合い、荒波を越えて行くのです。
しかしまた、「もう!! いつまで眺めてるの! いい加減にしなさい!」 母の声に、私の世界はぱっと現実に戻りました。
真っ暗な夜は昼になり、嵐も消え、小舟も消え、カエルも指人形もいなくなりました。 そんな空想の世界で遊んでいた少女は、やがて現実の世界で生きることを学びます。
ボーッとしていては出遅れる、いくつものことを同時にこなさなければ置いてきぼりにされる、周りのことを考えて人に合わせなければお友達とうまくやれない。
小さな幼な子が小学生になる頃には、そんな「大変なこと」がたくさん出てきました。
お友達からは「いつもボーッとしてる」とからかわれ、先生からは授業を聞いていないと怒られました。
窓の外の雲がゆっくり形を変えていくのを眺めていると、あの頃大好きだった「アルプスの少女ハイジ」のオープニングのように雲の上に横たわり、下界を見下ろして手を振る…。
私はまた空想の旅に出てしまうのです。
気がつくと授業は進み、ノートは白いまま。 そして先生の怒った声でまたハッとします。
みんなが私の大好きな空想の世界へ行ってはいけないと言います。 でもあそこには面白いことがたくさんあるのに。
社会人になり、三人の母になった頃には、すっかりテキパキと複数のことをこなし、周りの空気を読み、「立派な大人」になっていました。
子育て中はボーッと空想に浸る時間なんてありません。
仕事と子育てに追われ、とにかく時間との戦いでした。
子育てが終わり、子が巣立ったころ、ふとあの頃の自分を思い出しました。
あの幼な子はまだ私の中に残っているのだろうか。
眠ったまま、静かに私の中で居続けているのだろうか。
もし起こせば、「待ってたよ」と笑ってくれるのだろうか。
でも、もしかしたらあの子はどこにも行っていなかったのかもしれません。 忙しく生きる私の中で、ただ静かに眠っていただけなのかもしれません。
保育園帰りの息子を自転車の後ろに乗せて駆け上がる夕焼けの道で、息子が言いました。
「お母さん! 見て! すごく綺麗な夕焼け!」
私は自転車を漕ぎながら振り返り、「そうだね」と答えました。
その瞬間、あの子が私を呼んだ気がしました。
私は時間に追われながらも立ち止まり、息子と手を繋ぎ、しばらく夕焼けを見上げました。
ほんとうに綺麗だね、ピカピカだね、あったかいね、と二人で空を見つめました。
特別なことをしなくても、ただ立ち止まってじっと見つめるだけで、そこから世界は広がっていったのです。
大人になるということは、その入り口を見つけるのが少し下手になるということかもしれません。 急いで走り続けるうちに、小さな扉を見落としてしまうのです。
でも扉そのものが消えたわけではない。 ただ、私たちが通り過ぎているだけなのかもしれません。
気がつけば私はもう60歳。 こんなおばあさんだけど、またあの子と一緒に冒険に出られるかな。
あの大きな月や虹色の水たまりを、また見られるかな。
洗濯機の嵐の中を航海できるかな。
目を覚ましたあの子は「もー! 遅いーー!」と怒るかもしれません。
50年以上も待たせちゃったもんね。
人は一度本当の自分を失い、もう一度取り戻す旅を生きているのかもしれません。
失うことで初めて、その尊さや深みを知るのです。
たくさんの風に吹かれ、傷つきながらも根を張り続けた木は、いつしか太い大木になります。
厚みと深さを身につけたその大木は、旅の後半になってようやく、あの頃の大きな月や水たまりの虹たちと再会できるのかもしれません。
もう一度戻ってみたい。
あの頃のあなたに。
想像力豊かに空想の世界を楽しめた「本当の私」に。
もしかしたら今日も、あの子はどこかで私を呼んでいるのかもしれません。
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