【連載第37回】 《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「その一口で、涙がこぼれた」―”食べない”を選んでいた人が、食卓に戻った瞬間―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
—
食べることは、生きることだ。
でも人は、生きていても食べることをやめることがある。
身体が受けつけないのではなく、心が「食べる理由」を見失ったとき。
山本さん(82歳)と初めて話したのは、食事拒否が続いて三週間が経ったころだった。
—
「食欲がない、というわけではないんですか?」
「ないわけじゃないんですよ」
山本さんは静かにそう言った。窓の外に視線を向けたまま、続けた。
「一人で食べても、おいしくないから」
その言葉が、胸のどこかに刺さった。
夫を亡くして二年。子どもたちはそれぞれ遠くに住んでいる。デイサービスに来る日以外は、一人でテーブルに向かう。誰かの気配もなく、誰かの声もなく、ただ食事だけがそこにある。
食欲の問題ではなかった。
孤食が、食べる意味を少しずつ溶かしていた。
—
「好きな食べ物は、ありますか?」
「昔は何でも食べましたよ。でも今は……」
少し考えてから、ぽつりと言った。
「栗ご飯が好きでしたね。秋になると、毎年炊いていたから」
「誰かと一緒に食べていたんですか?」
「主人と。二人でね」
そのとき、山本さんの表情がかすかに動いた。
懐かしさと寂しさが、同時に浮かんでいるような顔だった。
—
「一口だけ、食べてみませんか」
その日、スタッフが用意したのは小さな茶碗一杯の栗ご飯だった。
施設の厨房に無理を言って、季節外れに作ってもらった。
山本さんは、しばらくそれを見ていた。
箸を持つ手が、少し震えていた。
ゆっくりと、一口。
口に入れた瞬間、山本さんの目に涙が浮かんだ。
「……おいしい」
その言葉は、かすれていた。
涙をぬぐおうともせず、山本さんはもう一口、箸を伸ばした。
誰も何も言わなかった。その場に、静かな時間が流れていた。
—
おいしいという感覚は、記憶とつながっている。
栗ご飯の味は、夫との食卓の記憶だった。
秋の夕暮れ、湯気の立つ茶碗、向かいに座っている人の気配。
一口の中に、それがぜんぶ入っていた。
「食べる理由」は、味ではなく、記憶の中にあった。
—
それから、山本さんは少しずつ食事をとるようになった。
劇的な変化ではない。でも、毎回完食するわけでもない。
ただ、「食べない」を選ぶことが減っていった。
あるとき、山本さんがこう言った。
「今日は、息子が来るから。何か食べておかないとね」
「誰かが来る」という理由で、食べる気になった。
それで十分だった。
食卓は、食べ物だけでできているのではない。
そこに誰かがいた記憶が、人を食卓へ引き戻す。
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こんな人におすすめ
– 気力が落ちて、何もやりたくなくなっている方
– 一人でいることが増えて、生活のリズムが崩れている方
– 「誰かのために」という感覚が薄れてきた方
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「記憶とつながった、一口を探す」
① かつて「おいしい」と感じた食べ物を一つ思い出す
② 誰と食べていたか、どんな場面だったかを思い浮かべる
③ その食べ物を、一口だけ用意する
④ 急がず、味わう
量は関係ない。
「おいしい」と感じた瞬間に、心が動く。
その動きが、再起動のスイッチになる。
食べる理由は、お腹の空き具合だけじゃない。
誰かとの記憶が、人を食卓に引き戻すことがある。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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