送る春
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:ひーまま(2026年ライティング1年完全習得パスポート)
「3月30日で始まる有名な漢詩があるんですよ」
「今日の事ですね」
書を習い始めてから10年が過ぎて、今年の「書初め展」は春に開催することとなり、会場の受付の当番に行った時の事だった。
3月30日。
その日、当番ではなかった90歳のKさんが、すこしおぼつかない足取りで会場に入ってきた。
数日前からの陽気で、昨日から広島もあちこちで桜が満開になっていた。上着が不要なほどの気温になっている。
そんなKさんの第一声が「3月30日で始まる有名な漢詩があるんですよ」だった。
Kさんは有名国立大学で教授をしていた天文学者である。
書をたしなまれ、独自の感覚で篆書を書かれる。
その作品は象形文字のようでもあり、いつも私たち書の仲間の目を楽しませてくれるのだ。
象形文字のようなかわいい形の書体からは、Kさんの穏やかだが、あくなき探求心と宇宙への深い関心を感じる。
「李白」や「杜甫」の漢詩を独特の解釈で象形文字にされ、毎回作品の中に「猫」がどこかに隠れている。
今回の作品展には思いがけず「不可思議」の数文字で小さな作品を出されていた。
小さな作品だが、ちゃんと「猫」が隠れていて、見る人に温かい心を感じさせていた。
Kさんは、おもむろに「3月30日で始まる詩はこんな内容ですよ」と携帯の解説を読み上げてくれた。
三月三十日 さんがつさんじゅうにち
春は去り 日もまたくれる
うらみつつ春風にきく
明日きみはもういないのか
人生は旅人のよう
両足は 歩みを止めず
日一日 先へとすすむ
さきざきにたくさんのみち。
中国の白楽天の「送春」そうしゅんという詩だという。
Kさんはゆっくりと、静かにその詩を朗読してくれた。
ゆっくりとかみしめるように「今日がこの詩と同じ3月30日なんですよ。この詩は私とおんなじ気持ちを歌ってくれてるんです」
「わたしも毎日老いていくんです。」
「昨日できたことが今日できると限らないんです」
私に話してくれてるのか、自分に言い聞かせているのか……
Kさんは穏やかな笑顔で、送る春と書いてね「送春」です。と言った。
私はぼんやりと、32年前に57歳で天に還って行った父を思い出した。
父の命日は2月1日だが、その前年の春「これでわしの花見も最後かもしれん」と言いながら、桜の名所の、川土手の満開の桜並木を一緒に歩いたのだ。
肝硬変の末期と糖尿病の末期で、透析以外の手立てはなく、体重はどんどん減って、枯れ木のようになった父と満開の桜並木を久しぶりに歩いた。
原爆が落とされ市内はすべて焼け落ちたので、広島の桜はみんな戦後市民が植えたものだ。
今では穏やかな流れの川だが、あの日の川は原爆の熱線に焼かれた人々が水を求めて、雪崩のように川に入った人でいっぱいだったという。
原爆の被害で亡くなった人々を慰める桜並木でもあった。
父はホテルマンとして働きながら、「平和の灯奉賛会」などで平和活動を熱心にしていたので、その河原で見る満開の桜は胸に迫るものがあったのだろう。
「わしに詩心があったら、一句の俳句でも読みたいような満開やな」
といい、桜の切り株によろよろと腰を下ろして、はらはらと散る桜の花びらのなか静かに座っていた。
その時、一陣の風が吹き抜け、父は桜吹雪で取り囲まれた。
この世の事と思えないほどの一瞬の景色に私は(あ~これは父の最後の花見なんだろうな)と涙があふれるのをこらえられなかった。
そっと父から離れて涙をぬぐった。
Kさんが読んでくれた「送春」は、私を32年前の父との最後の花見に連れ戻してくれたのだ。
満開の桜は毎年春を告げ、またいつまでも続きはしない春を教えてくれる。
今年の春は、世界中が喜びだけではない現実を告げている。
「世界ではまだ戦争がおさまらん。なぜ人間はこんな愚行を繰り返しているのだ」天の父からの声が一瞬聞こえるようだった。
昨年の終わりに「被爆体験伝承者」の認定を受けた私は、3月3日初めて広島県外の中学校へ平和学習の講師として招かれていた。
小さな田舎の中学校、一年生20人への被爆伝承講話だった。
原子爆弾の実相を伝えるのだが、実相を伝える短いフレーズの中に、私も初めて認識したような現実が含まれている。
日清日露戦争から、第一次世界大戦、第二次世界大戦と続く日本の戦争参加への歴史があった。
日本にも兵隊さんがいて、軍隊があったのだ。という事実を私も中学生に話しながら驚きの再確認をするのだった。
日本が太平洋戦争に参戦して、赤紙というはがき一枚で戦争に行かなければならなかった多くの若者。そしてお父さんたちがいた。
話しながら、私もこんな歴史をきちんと習うことのないまま過ぎてきたことになんとも複雑な気持ちになるのだった。
そして、私が伝承した5歳10か月で被爆した「廣中正樹さん」の被爆実体験を事実だけお伝えする。
中学一年生の子供たちがわかるような言葉で、丁寧に。
45分間の短い講話だが、子供たちから感想を聞くことができた。
「中学1年の3学期から戦争の事を勉強していましたが、ぜんぜんリアルな話だと思えないでいました。
今日5歳だった廣中さんが体験した原爆が落とされてからの4日間の話をきいて、原子爆弾が本当に落とされたことを初めてリアルに感じました。
5月に平和公園にいったら、本当にあったことだと思って平和公園をあるきます」
と真剣な表情で伝えてくれた。
「戦争は絶対にダメだと思いました」
「ちいさな5歳の子供が頑張って生きてきたことがわかりました」
と、みんな次々感想を発表してくれた。
私の方が感動をもらったような一日だった。
一人の人間が何かできるか?と聞かれればなんとも心もとない弱気になるのだが、少なくとも20人の子供たちに平和の種を託せたかもしれない。
白楽天の詩にあるように、人生は旅人のように過ぎ去っていくのだ。
今日がずっと続いていかないかもしれないのだ。
今年の満開の桜を見ながら、父が私に託してくれた平和の種を、次の世代に送ることが今の私にできる小さな事かもしれない。
小さな種が大きく育って満開の桜のように育っていくことを祈る。
今年の春をまた次の年へ送る気持ちにさせてくれた「送春」だった。
《終わり》
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