ニポポ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
吉田倫子(ライティングゼミ・2026年4月京都集中コース)
実家の玄関の靴箱の上には、ニポポが並んでいる。ニポポはアイヌ語で「木の子供」を意味する木彫り人形だ。アイヌの人々のあいだでは、お守りとして大切にされてきたという。けれど子どもの私にとっては、ただの木の人形でしかなかった。それはあまりにも当たり前にそこにあった。すべて父が北海道へ帰るたびに持ち帰ったものだと、あとになって知る。
その父は、私にとって不思議な人だった。同じ家で暮らしていたのに、会話をした記憶がほとんどない。
私の大好きなカレーライスも、お寿司も、鰻も嫌い。一緒に遊びに連れて行ってもらった記憶もない。初詣にも行かない。神社や寺にも興味を示さなかった。
そんな父の日常生活はとても規則正しかった。朝七時三十六分に家を出て、夕方六時四十分頃帰宅する。七時からのNHKニュースを見ながら黙って夕食を食べ、その後はテレビの前に座る。ごく普通の会社員だった。
けれど、最期まで私には何を考えているのかわからないまま時が過ぎた。
そんな父が亡くなったあと、初めて北海道を訪れたときのことだった。
限られた時間の中で足を運んだ北海道大学は、大学というより森の中にいるような場所だった。ポプラ並木が続き、小川が流れ、窪地では保育園児たちが走り回っている。風が木々を揺らしていた。
建物の案内板には、日本語や英語と並んでアイヌ語が書かれていた。ウレシパニシサンプ(育て合う倉)、イカッカシ(見守る)など、その響きは素朴で温かい。初めて見る言葉のはずなのに、どこか懐かしい感じがした。
それは電車の窓から見た景色も同じだった。
広い田畑。
雪の残る山並み。
どこまでも続く空。
思わずスマホに、「北海道は自然の中にカムイ(アイヌ語で神)が宿っている」とメモした。人間の存在の驚くほどの薄さ。自然は圧倒的に濃かった。北海道の空気に触れていると、不思議なくらい心が軽かった。その感覚は帰りの飛行機を降りても消えなかった。
そして、旅行から帰った翌日、ふと、ニポポのことが頭に浮かんだ。玄関の靴箱の上にある、あの木彫りの人形たちだ。
実家へ土産を持って行ったとき、私はそのニポポを眺めながら、ひとつくらい持ち帰りたいと思った。
母にそのことを告げると、
「パパの部屋にもたくさんあるから、それを持って帰ったら」
その言葉に驚いて私は二階へ上がった。
父の部屋の本棚には、ニポポが並んでいた。
細長いもの。
手のひらに収まるもの。
大きなもの。
超特大のもの。
同じ色形のものが二組。
数えてみると全部で六組ほどあった。
ちょっと待って。そんなに好きだったのか。
父は、みんなが大好きなカレーライスも、お寿司も、鰻も嫌いだった。
ニポポは、たしかにカレーライスも、お寿司も、鰻も食べなさそうだ。
私は少し笑った。
人形といえば、母も人形が好きな人だ。日本人形、西洋人形、木製の人形も飾っている。けれど、折り合いが悪いと思っていた父まで、人知れずニポポを集めていたとは。
私は何も知らなかった。
神社へ行かない理由も。
北海道へ帰るたびにニポポを買っていたことも。
何を大切にしていたのかも。
なぜそれを集めていたのかも。
中学二年生のとき、父が会社から帰って着替えながら、「おじいさんの葬儀に一緒に北海道へ行かないか」と誘ったことがあった。父の目線は窓の外を向いていた。私は中間試験を理由に断った。そのとき父がどんな思いで私を誘ったのか、考えたこともなかった。
思い返せば、父は決して冷たい人ではなかった。電車で向かいに座っていた女性がペットボトルを倒し、父のズボンがびしょ濡れになったことがあった。それでも父は「構わない」とだけ言って、その場を立ち去った。
母にも私にも、時折何気ない優しさを見せてくれた。
会社では同僚をかばったという話も聞いた。
退職後も、父はテレビと新聞ばかり見ていた。人と交流している気配はなかった。それなのに葬儀のあと、幼なじみや会社の後輩がわざわざ弔問に来てくれた。
私はそんな父を、どこか遠い人だと思っていた。何度も出入りしていた父の部屋に並ぶニポポを気にも留めていなかった。
北海道大学の森。
アイヌ語の響き。
旭川へ向かう車窓の景色。
父の本棚に並ぶニポポ。
ばらばらだったものが、そのとき一つにつながった。
そうか。
私は父のことが、ずっと見えていなかったんだ。
今、ニポポを見る。昔と同じ姿なのに、全然違って見える。
私が見ていたのは木彫りの人形だった。
けれど今は、その向こうに父が大切にしていたものの気配が見える。
家族の無事や、日々の平穏。
ずっとそこにあったものに、私はようやく気づけるようになった。
《終わり》
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