けっこん、します。

 【連載第36回】《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「一杯の水から、もう一度はじまった」―歯磨きができなかった男性の、静かな一週間―


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※一部フィクションを含みます。

「もう、やらなくていいです」

田中さん(65歳)がそう言ったとき、声に怒りも悲しみもなかった。

ただ、静かだった。

諦めた声というのは、感情が抜けたあとに残るものなのだと、私はそのとき思った。

 

脳梗塞の後遺症で左半身に麻痺が残り、退院後は右手だけで生活していた。

 

「歯磨き、できていますか?」

 

最初にそう聞いたとき、田中さんは少し間を置いてから答えた。

 

「やろうとするんですよ。でも、うまくできなくて。歯ブラシが思うように動かなくて……気持ち悪くなって、やめちゃうんです」

 

「気持ち悪く、というのは?」

 

「なんか、違うんです。自分でやってるのに、自分じゃないみたいで」

 

その感覚は、麻痺のある方に珍しくない。

慣れ親しんだ動作が、まるで他人の手でやっているように感じられる。うまくいかない経験が積み重なると、やがて「やる前から無理だ」という記憶になっていく。

 

失敗の記憶は、次の挑戦を奪う。

 

 

「一つだけ聞かせてください。歯を磨くとき、何が一番つらいですか」

 

田中さんはしばらく考えてから言った。

 

「……うまくできないのが、嫌なんだと思います。昔みたいにできないのが」

 

「昔みたいに、できなくていいんです」

 

私がそう言うと、田中さんは少し眉をあげた。

 

「まず、口をゆすぐだけ、やってみませんか。歯ブラシは持たなくていい。コップに水を入れて、それだけ」

 

「……それだけ、でいいんですか」

 

「それだけです」

 

 

翌日の記録に、こう書いた。

 

口腔ケア:うがいのみ実施。「これはできる」と発言あり。

 

たった一行だ。

でもその一行に、私は小さな灯りを見た。

 

「できる」という言葉が、田中さんの口から出た。

それだけで、今日は十分だった。

 

 

三日目。田中さんがこちらを見て言った。

 

「水、ちょっと多めにしてみたんです。そしたらなんか……気持ちよくて」

 

「口の中、すっきりしましたか」

 

「しました」

 

その顔には、小さな得意げな表情があった。

久しぶりに見た表情だった。

 

五日目。田中さんが自分から言い出した。

 

「歯ブラシ、ちょっとだけ試してみようかと思って」

 

私は何も言わずにうなずいた。

 

七日目の朝。

 

「磨けました」

 

それだけだった。長い説明も、感慨深い言葉もなかった。

ただ、「磨けました」。

 

でもその三文字の中に、一週間分の積み重ねがあった。

 

 

再起動は、大きな決意からは始まらない。

 

「できる」という小さな体験が、次の「できる」を呼ぶ。

その連鎖が、いつの間にか人を動かしている。

 

田中さんが教えてくれたのは、そういうことだった。

 

やり直しは、一杯の水からでいい。

 

 

 こんな人におすすめ

 

– 「続かない」が積み重なって、挑戦をやめてしまった方

– うまくできないことが怖くて、動けなくなっている方

– 昔の自分と比べて、落ち込んでしまう方

 

 セルフエクササイズ【習慣化型】

 

「できることを、できる時間に、一回だけやる」

 

① 今できていないことを一つ選ぶ

② 「その最初の一動作」だけに分解する(例:歯磨き→口をゆすぐ)

③ 毎日同じ時間・同じタイミングでやる(食後・起床後など)

④ できたら、それで終わりにする

 

「続けよう」と思わなくていい。

「今日一回だけ」を積み重ねた先に、習慣がある。

 

昔みたいにできなくていい。

今日の自分にできることが、再起動のスタート地点だ。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

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