メディアグランプリ

書けなかった理由


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:那須健史(ライティング・ゼミ5月開講4か月コース)

「これまでの経験上、ライティングの上達が最も難しいのは、五十代以上の男性です」

ライティング・ゼミ初日、講師はそう言った。

教室には笑いが起きた。

私は引きつったように笑った。

五十代前半。男性。ビジネス文書以外では書いた経験はほとんどない。見事なまでの該当者だった。

「それ、受講前に教えてよ」

そんなことを思いながら、毎週2000字の課題と格闘する生活が始まった。

最初の数本は掲載された。

ところが、そのうち選外が続くようになる。

指摘されたところを直し、また提出する。

冒頭が弱い。体験記で終わっている。読者が見えない。

レビューを読み返しながら書き直す。それでも掲載されなかった。

そのうち、もっと困ったことが起きた。

アイディアは出ては消え、まったくキーボードを叩くことが進まなくなったのだ。

書きたいことはある。

旅先で見た景色。

長野県の山奥にある赤い屋根のホテル。

静かな住宅街で見つけた理想の暮らし。

どれも私にとって大切な出来事だった。

それなのにパソコンの前へ座ると、一文字目が出てこない。

「その話、誰が読む」

「もっと面白い話があるだろう」

頭の中で誰かがつぶやく。

その声に従っているうちに、一時間が過ぎ、画面は真っ白なままだった。

ある夜、眠れないままパソコンを閉じた。

ふと、思いついた。

代わりにボイスメモに向かって話しかけてみた。

頭に浮かんだことを、そのまま声にしてみたかっただけだった。

その後、文字起こしするとどうなるだろう、と。

きっかけは、一枚の写真だった。

とある大学の相撲部の学生たちが移っている記事だった。

それを見て、ふと思った。

もし私が学生時代に相撲をやっていたら、人生は変わっていただろうか。

そこから話は止まらなくなった。

学生時代に好きだったこと、不安、ほのかな思い出などが切れ目なく出てくる。

社会人になった頃、やりたかった仕事。野心に溢れた自分。住み替えてきた部屋。

理想の家。未来の暮らし。

気づけば過去を旅するように連想が次々と浮かんでは消え、現在へ戻り、未来へ飛び、また現在へ戻ってくる。場所も国内から海外へと飛び続けた。

翌朝、文字起こしされたログを読み返した。画面をスクロールしているうちに、妙なことに気づいた。

学生時代の話をしていたはずなのに、いつの間にか未来の住まいを語っている。

その次の段落では、また二十代へ戻っていた。

「なんだ、この飛び方は」

道理で、自分でもつかみどころがないと思っていたわけだ。

画面を閉じても、その飛び方が頭から離れなかった。自分の思考を、こんなふうに外から眺めたのは初めてだった。五十年付き合ってきた自分なのに、知らない癖を見つけたような、不思議な感覚だった。

だが、読み進めるうちに違うことに気づいた。

飛んでいるように見えただけだった。

私の思考は、一本の時間軸を歩いてはいなかった。

過去と現在と未来を行き来しながら、一つの問いを探し続けていたのである。

住まいも、ホテルも、旅も、仕事も。ほのかな思い出の数々も。

その時、もう一つ気づいた。

この二時間、一度も聞こえなかった声がある。

「その話、誰が読む」

「書いても意味がない」

「もっと面白いことを書け」

いつもパソコンの前で私を止めていた、あの声だった。

理由は単純だった。

思考の流れが速すぎたのである。思いついたことが、そのまま次の連想へつながる。

その速さに、あの声は追いつけなかった。

私はその声を「脳内編集長」と呼ぶことにした。

編集長は敵ではなかった。

失敗や他人からの批判、落選する恐怖、自分をさらけ出す不安。

そうしたものから私を守ろうとしていたのだろう。

ただ、少し性能が良すぎた。書き始める前に、原稿そのものを没にしてしまうほどに。

その存在に気づいた今は、この脳内編集長を追い出そうとは思わない。

役割を変えてもらった。

まず最後まで書く。

整えるのは、そのあとでいい。脳内編集長に活躍いただく。

五十代でライティング・ゼミへ通った理由は、文章がうまくなりたかったからではなかったのかもしれない。

書けなかった理由も、ネタがなかったからではなかった。

五十年間、私は自分という人間で生きてきたと思っていた。

それなのに、自分の取扱説明書は持っていなかった。

いや、持っていたのに、その存在に気づいていなかったのだった。

ライティング・ゼミと、ボイスメモとの二時間の対話と書き起こし文が教えてくれたのは文章術ではない。

ようやく、その取扱説明書の最初の一ページをめくることができた。

(終わり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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