気持ちが追いつかなくなった日。無数の蛍が真実を、照らしてくれた夜。
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:藤原 宏輝(ライティング・ゼミ名古屋会場)
「結婚式キャンセルします、手続きお願いします。もちろん、入籍もしません」
七夕を4日後に控えた日。
いつも穏やかだったご新婦様の静かで、けれど決意に満ちた声。
「何が起こったのか?」
私は一瞬、頭が真っ白になった。
七夕に入籍、12月に結婚式を迎えるはずだったお2人。
仲睦まじいカップルだと信じ、全く疑っていなかった。
お2人の幸せな未来を一緒に描いてきた私にとって、それはあまりにも突然の出来事だった。
受話器の向こうで、ご新婦様はぽつりぽつりと、しかし堰を切ったように、事の顛末を話し始めてくれた。
それは、淡い光を放つ蛍が照らし出した真実。
お2人が出会った頃。
「蛍がたくさんいる、すごく幻想的な場所があるんだ」と嬉しそうに彼が話し車を走らせた。その言葉に彼女は、胸を躍らせた。
1時間ほど「今か、今か」と待ってみたが、その夜、蛍は1匹も現れなかった。
翌年、再び同じ場所を訪れた。
けれど、タイミングが悪かったのか、その年も蛍の姿を1匹も見ることはできなかった。
梅雨が明けきらず、台風もチラホラと発生し始めた頃。
「今年こそ、蛍いっぱいの美しい景色が見られるかもしれない」と彼女は期待した。
太陽が沈み始め、辺りが美しい茜色に染まるドライブの帰り道。
「蛍のところ、ちょうど通るよね。3度目の挑戦、今年こそ蛍見れるかな?」
彼女は、助手席からそっと尋ねた。
しかし、彼の口から返ってきたのは
「蛍なんて6月でしょ、時期がもう遅いんじゃない」
予想もしないぶっきらぼうな言葉に、彼女は内心ガッカリしながら、窓の外の夕焼け空をぼんやりと眺めた。
それでも彼女の言葉が気になったのか、車を蛍のスポットへと走らせる。
しかし、車内には冷たい空気が流れ始めていた。
「まだ完全に暗くないから、蛍はどうせ見れないよ。こんな時期にいるわけがない」
目的地に近づくにつれ、彼の発言はさらに否定的になっていき、彼女は小さな違和感を感じた。
『結婚するとは、お互いに寄り添うこと。相手の気持ちを少しでも理解しようと、まずは受け止めること』
価値観が違っても、意見が合わなくても、彼を理解しようと努力してきた。
ずっとそうして、自分を納得させてきた。
もちろん、彼となら一生一緒に歩んでいける、そう信じて結婚を決めた。
はずだった……。
車を停めてしばらくすると、真っ暗闇の中に、ぽつり、ぽつりと、淡い光が浮かび上がった。1匹、2匹と、蛍が飛び始め、あちこちでほのかな光を放ち始めたのだ。
「すごーい、きれい!」
彼女は思わず、少女のようにはしゃいだ。
やっと出会えた、3年越しの蛍。
しかし彼の反応は、彼女の心を冷たく突き放すものだった。
「初めてここで蛍を見た時は、この何百倍、何千倍もいて、本当に凄かったんだ。こんなもんじゃなかったよ」
彼は、目の前で喜ぶ彼女の今を、スルーした。
過去の自分だけの記憶に、こだわり続けていた。
それでも彼女は、健気に微笑みを返した。
「すごいよ、蛍があちこち飛んでる。キレイ! 3度目にして、やっと見れたね。本当にありがとう……、これを私に見せたいって、思ってくれたんだよね?」
嬉しそうに、愛おしそうに伝えた。その言葉に、
「うん、一緒に見られて本当に良かった」
という言葉が返ってくると、信じて疑わなかった。
しかし、彼は突然、怒った口調で言い放った。
「見せたいんじゃない」彼女は耳を疑った。
「えッ、私に見せたかったんじゃないの?」思わず反射的に聞いた。
「……」
彼は黙り込んだ。彼女は胸に走る不穏な予感に怯えながら、恐る恐る聞いた。
「自分が見たかった。ってこと?」
「そう。俺がもう一度、見たかったんだ」
その瞬間、彼女の中で積み重なっていた小さな違和感の答えが、パズルのピースがピッタリとハマるように、すべて繋がった気がしたという。
世界には、美しいものがたくさんある。
桜、夕焼け、紅葉、海や山、川など。晴れ渡る青空も、一面の雪景色も、雨上がりの虹も、すべてが美しい。
けれどその「美しさ」を美しいと感じるポイントは、人それぞれ違う。
ただ目の前の一瞬を感じることで「今」を生きることができる。
「蛍、キレイ!」
そう思った一瞬だけ「今」にいる。
けれど、すぐに過去や未来へ心を彷徨わせてしまう。
彼はずっと過去に囚われ、最も美しい景色や喜びさえも、彼女と共有しようとしていなかったのだ。
美しいものを、お互いに美しいと感動する。
もし、自分だけしか見たことがない素敵なものや景色があれば「あの人にも見せてあげたい」と思う。
そんな純粋な思いやりこそが、人と人との間に行き交う「愛」という名の美しい景色なのだ。
その愛が共鳴し合うからこそ「繋がり」の中で、心が温かくなる。
しかし、彼には彼女の喜ぶ姿、その笑顔を一緒に味わいたいという「今」の喜びもなかった。
「過去に自分が見た感動を、もう一度」という欲求だけだったのだ。
それは、自分本位で利己的な価値観だった。
さらに23時近くになり、彼は自宅近くの駅で彼女を降ろし、さっさと帰っていった。
「さっきまで星がきれいだったのに、見えない。また、雨降るのかな」と空を見上げながら、ふと思った。すっかり、雲がかかった夜空。
この時、自分の気持ちが急速にスローダウンしていくのを、はっきりと自覚した。
価値観が違う彼のことを、理解しようとしたが、もう気持ちが追いつかなかった。
「七夕入籍する前に、気づいて良かったです」
電話の向こうで、ご新婦様はゆっくりと、自分を労るようにそう締めくくった。
「そうでしたか。無理して頑張って、我慢しなくていい幸せが、きっとあります。今回のキャンセルは承りました」
と私は電話を切った。
これまで、たくさんの結婚式を見守ってきた。
華やかなドレス、誓いのキス、溢れる涙。それらはすべて、二人の中に共通の「美しい景色」があるからこそ、輝くものだ。
違和感があるのに、見て見ぬふりをしてしまうことは、誰にでもある。
「ここまで付き合ってきたから」
「もう、親にも周りにも言ってしまったから」
「結婚って、我慢も必要だから」
そうやって、自分に言い訳をして、自分の本当の気持ちに蓋をして、世間体をも気にしてしまう。
真っ暗闇の中で、あちこちを儚く飛び交う蛍。
やっと気づいた本当の気持ち、そして「結婚式をキャンセルし、彼と別れる」という決断。
結婚とは、お互いの違和感まで抱きしめられること。そして、そんな相手と一緒にいる自分を「好き」と思えること。
もし我慢をしているなら、一度立ち止まっていいし、止めてもいい。
小さな違和感は、時間が経つにつれ広がり、やがて人生そのものを揺るがすような亀裂になるから。
別れることは、失敗ではないし逃げることでもない。
涙を流した数だけ、人は優しくなれる。
迷った数だけ、本当に大切な人が分かる。
人間関係でも、同じことが言えると思う。
だから、自分の心の声を無視しないでほしい。
誰かの人生を生きるのではなく、自分に正直に、自分で選び、決める。
その一歩はとても怖いけれど、自分を裏切らなかった人だけが、本当の幸せに出会える。
あの夏の夜。
儚く光る蛍はもう一度、彼女が自分の人生を歩き始めるための道を、静かに照らしてくれたのかもしれない。
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