【連載第45回】 《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「笑顔の練習を、やめた日」―柳原法14点。“治す側”の私が、自分の顔を採点し続けた三週間―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※筆者自身の経験をもとに、当時の記憶を再構成して書いています。症状・治療・回復経過には個人差があります。
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笑おうとするたび、私は自分の顔に点数をつけていました。右の口角は上がったか。まぶたは閉じたか。昨日より何ミリ動いたか。顔面神経麻痺になった私は、作業療法士として身につけた「評価する目」を、自分自身へ向け続けたのです。けれど、回復を確かめるための練習が、いつしか一日を不合格にする試験になっていました。これは、笑顔を取り戻すために、いったん笑顔の練習をやめた私の話です。
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木曜日の朝、右半分の顔が、私の指示を聞かなくなりました。
両目を閉じようとしても、右のまぶたが最後まで下りてこない。口角を上げようとしても、右側だけが置いていかれる。食べ物を右側で噛みにくく、目元のあたりが小さくぴくつくこともありました。
顔の右側だけが、自分の体から半歩遅れてついてくるような感覚でした。
私は作業療法士です。動きにくい体を見れば、どの動作が難しいかを分け、残っている力を探し、変化を記録します。評価することは、支援の入口です。
ところが、自分の顔が動かなくなった瞬間、その技術は私を支える道具ではなく、私を追い詰める物差しになりました。
何度も目を閉じる。何度も歯を見せる。何度も頬をふくらませる。できない動作を見つけるたびに、頭の中で赤い印が増えていきました。
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発症から六日目、私は顔面神経麻痺と診断されました。
診察では、額にしわを寄せる、目を閉じる、頬をふくらませる、歯を見せるといった動きを一つずつ確認します。顔の動きを評価する柳原法は四十点満点。私の結果は、十四点でした。
「十四点」
その数字だけが、診察室を出たあとも耳に残りました。
本来、点数は状態を共有し、治療や経過観察に役立てるためのものです。人としての価値を測る数字ではありません。そんなことは、専門職である私がいちばんよく知っているはずでした。
それでも、四十点のうち十四点しかない、という受け取り方をしてしまいました。動かない二十六点分が、そのまま失った自分のように思えたのです。
顔は、体の中では小さな場所です。けれど、目を閉じて守ること、食べ物を噛むこと、言葉を形にすること、相手へ気持ちを伝えることまで、暮らしの広い範囲に触れています。一つの筋肉が動きにくいだけでは済まない重さがありました。
作業療法士として人と向き合うとき、私は相手の表情を読み、自分の表情でも安心を返してきたつもりでした。口角が上がらない顔でも、私はこれまでどおり気持ちを渡せるのだろうか。まだ誰にも何も言われていないのに、私は人に会う前から、その答えを怖がっていました。
ステロイドの服用を始めてからも、私は効果がいつ現れるのかを調べ続けました。回復率。治療の時期。残るかもしれない後遺症。検索すればするほど、安心できる答えより、まだ起きていない未来の心配が増えていきました。
知識があるから落ち着けるとは限りません。知っている言葉が多いほど、不安に細かな名前をつけられてしまう夜もあります。
私は症状を理解しようとする一方で、理解できない部分を許せずにいました。回復には時間が必要だと知りながら、今日中に答えを出そうとする。患者さんには待つことの大切さを伝えてきた私が、自分の神経だけは待てなかったのです。
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朝と夜、私は鏡の前に立ちました。
額にしわを寄せる。目を閉じる。口をすぼめる。最後に、笑う。
左右の口角の高さを見比べ、右側が少しでも動けば安心し、昨日と同じに見えれば落ち込む。見る角度を変え、照明のせいかもしれないと、もう一度やり直す。
これは当時の私が不安から繰り返していた自己流の確認であり、勧めたいリハビリではありません。けれど、そのときの私は、確認せずにはいられませんでした。
笑顔は、本来、誰かにうれしさを渡したり、安心を伝えたりする表情です。なのに私の笑顔は、誰にも向けられていませんでした。鏡の中の右口角を合格させるためだけの動作になっていました。
食事のときも、会話をしているときも、意識の一部はいつも右側の顔に残っていました。今、どのくらい動いているだろう。左右は違って見えていないだろうか。顔を使って暮らすのではなく、顔を監視しながら暮らしていました。
うまく上がらない。もう一度。まだ足りない。もう一度。
笑顔を練習しているはずなのに、鏡の前にいる私は、少しも笑っていませんでした。
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ある夜、何度目かの笑顔をつくろうとして、口角に力を入れるのをやめました。
右側は上がりきらず、左右はそろっていませんでした。私はその顔を見たまま、自分に言いました。
「今日は、もう採点しなくていい」
治療をやめたわけではありません。必要なケアを手放したわけでもありません。ただ、鏡の前で何度も自分を試験することを、その夜だけやめました。
笑えないなら、笑わなくていい。左右が違って見えても、今日一日を過ごした顔であることに変わりはない。
鏡から一歩離れると、顔の動きより先に、ずっと力を入れていた肩が下がりました。
私は、回復しようとしていたのではなく、回復していない自分を一日中取り締まっていたのかもしれません。
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発症から三週間が過ぎたころ、右のまぶたは閉じられるようになり、上がらなかった口角も少しずつ上がるようになりました。
もちろん、笑顔の練習をやめたから動きが戻った、という話ではありません。治療の効果や神経の回復には個人差があり、私の経過も一人の経験にすぎません。
変わったのは、回復を待つ私の姿勢でした。
以前は、動かなかった場所だけを探していました。けれど、採点をやめてからは、昨日より閉じやすかったまぶた、噛みやすかった食事のように、その日にできたことも見えるようになりました。
作業療法士は、できない動作を見つける仕事ではありません。その人が、できないことを抱えたままでも、今日をどう暮らせるかを一緒に探す仕事です。
私は何度も患者さんにそう伝えてきました。けれど、自分が患者になって初めて、その言葉を自分自身に渡す難しさを知りました。
専門職の知識は、未来を完全に予測するためのものではありません。不安なときに進む方向を照らす灯りです。灯りを顔へ近づけすぎれば、かえって何も見えなくなることがあります。
必要だったのは、もっと正確に採点することではなく、採点されていない自分でいられる時間でした。
【今週の再起動実験】採点しない時間を、十分だけつくる
回復の途中にいると、昨日よりできたか、予定どおり進んでいるかと、自分を何度も確かめたくなります。そんなときは、治療や専門家から指示されたリハビリは続けたまま、自己採点だけを十分間休んでみてください。
鏡や記録画面から離れ、今できている小さな生活動作を一つ見つけます。食事ができた。着替えられた。人の話を聞けた。眠ろうとしている。それで十分です。
急に顔が動かしにくくなった場合や、閉眼しづらい状態がある場合は、自己判断で様子を見ず、医療機関へ相談してください。運動やマッサージも、状態に合った方法を専門家と確認することが大切です。
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今でも、鏡を見ると、顔の左右差を探そうとする癖が顔を出すことがあります。そんな日は、鏡の中の顔を評価したくなる自分も否定しません。
ただ、点数をつける前に、一度だけ鏡から目を離します。
笑顔の練習をやめたあの日、私は笑顔を諦めたのではありません。自分の顔を、評価表からいったん返してもらったのです。
再起動スイッチは、左右そろった笑顔の中だけにあるのではありません。うまく動かない顔にも、今日一日の居場所を渡す。その静かな許可の中にあります。
あなたは今日、自分のどこに、点数をつけ続けているでしょうか。
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❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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