今なお輝きを放つ、父からもらった大切な言葉《 週刊READING LIFE Vol.43「「どん底」があるから、強くなれる」》
記事:樋水聖治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
高校3年生の冬、必死に机にかじりつく同級生を尻目に、僕はバイトざんまいの日々を送っていた。僕の進路はすでに決まっていて、そこは言ってしまえば「無試験同様」で入学できる語学学校だった。
「語学学校に通ってから、海外の大学に進学しよう」
これが僕の高校卒業後のプランだった。だから、入学金を貯めるためにバイトに勤しんでいたというわけだ。
ただ、最初からそういう進路に決めていたわけではなかった。春には、東京の国公立大学を目指して受験勉強に勤しんでいた。進路を変更したのは夏の頃。今なら断言できるけれど、それはなかなか思うように進まない受験生活からの“逃げ”だった。「無試験で進学できる」ということが僕の心を揺り動かした。
「若いうちに日本以外で暮らすということを経験すべきだ」
「語学力はこれからの人生、絶対役に立つ」
確かな説得力を持つ理由をこしらえることはいくれでもできた。でも、“本当の理由”は他でもない自分自身がよく知っていた。挑戦から逃げたということに。
だから、“あの時”は「魔が差した」のだと思う。
「自分が将来振り返った時に後悔しない選択はなんだろう」
バイトの休憩中、こんな問いがフッと心の中に湧いて出て、消えて、また湧いてきて……。
気づいたら、というのは違うかもしれないけれど、バイトが終わった時には僕は「大学受験をする」という決断を下していた。それも、かつて志望していた大学ではなく“東大”を受検することを決意していた。“略して東大”となるような大学ではない。日本最高学府と言われる、正真正銘あの東京大学だ。
「人生一度きりしかないんだ。どうせやるなら日本一のものに挑戦しよう!」
もちろん、親や兄弟、友人たちには様々な苦言をいただいた。
「あんた何考えてるの?」
「樋水、血迷ったか!?」
今、もしも僕が彼らの立場だったら、同様の言葉をかけていたと思う。若気の至りというのは恐ろしいものだ。でも、心がそうしたいと叫んでいたのだからしょうがない。
それで、肝心の受験プランは以下の通り。
・ 1年間の浪人生活は覚悟の上
・ 塾に通うほど裕福でもないので、宅浪で頑張る。
・ 軍資金は渡航費として貯めた数十万
以上である。
数ヶ月とはいえ、受験勉強から長く距離を置いた生活をしていた僕は、勉強法の勉強から始めた。そして、インターネットで「英語 センター試験 参考書」という具合に打ち込んで、一教科一教科、Yahoo!知恵袋さんにアドバイスをもらった。そうして作ったリストを片手に、新宿にある紀伊国屋の8階「学参コーナー」に行って、1冊ずつ“武器”となる参考書を揃えていった。
「この時の準備のためにバイトしていたんだな、うん」と、無理やりポジティブシンキングに帰結させた。合格というゴールから逆算して、教科ごとの目標点数を計算し、1ヶ月、1週間、1日の学習計画を立てた。
「自分はできる!」
そういう自信でみなぎっていた。
しかし、現実は厳しいものだった。中学生の時に流行った、偏差値36の高校に通う6人が東京大学を目指す姿を描いた『ドラゴン桜』というドラマの、あの世界はドラマの中だけなんだな、と痛感せずにはいられない現実にいくつもぶつかった。
解けない数学の問題、読めない英文、筆者の気持ちがわからない現代文。唯一、東大レベルに達したのは世界史くらい。センター試験直前の模試の時でさえ、志望大学を書く欄に「東京大学」と書くのが恥ずかしく感じていた。
だから当然の結果というべきか、一年目の挑戦は無残な結果に終わった。どこの大学にも受かることができなかった。浪人を決めた時のように、積極的に「進路がない」という状態にした時とは異なり、本当の意味で進路がないという状況がこんなに怖くて不安な気持ちになるとは思ってもみなかった。
「1年目はダメだったけれど、1年間の土台があるんだから2年目ならきっと……」
現役時代に受験に失敗して浪人するほとんどの人が思う自分への期待だろう。そんな期待をかけずにはいられなかった僕は、親にこの言葉をゴリ押しする形でなんとか了解を得た。親は「あなたがやりたいのなら、やってみなさい」と言ってくれた。こうして僕の浪人生活二年目が始まった。
ところで、匿名掲示板「2ちゃんねる」ではまことしやかに囁かれる“ある噂”がある。
「浪人したやつの半分以上は、現役時代より成績が下がるか、もしくは伸びない」
科学的な根拠はない。浪人したての頃にすでにこの噂を目にしていた僕は、「そんな“伸びない浪人生”なんかになってたまるか!」と息巻いていた。ただ、どうやら僕はその半分以上の一人になってしまったらしかった。
浪人二年目の夏がすぎ、秋になり、センター試験本番前の最後の実戦模試、返ってきた結果は、「東京大学E判定」。何も成長していなかった。たまたま解けない問題が当たったにすぎないとか、そういう気休めを思い浮かべることすらできないくらいの無慈悲な冷たい宣告だった。
季節が秋から冬へと移り変わる中、部屋の片隅にある勉強机のスタンドライトの下、僕はじーっと、帰ってきたばかりの模試の結果を見つめていた。
これからの巻き返しを図るための、現実味を帯びていない無謀な学習プランは打ち立てられてはすぐに崩された。重ねてきた努力を無理やり正当化しようとする言い訳もたくさん浮かんできた。でも、結果が全てだった。目の前の「E」の文字、そこに全てが現れていた。
誰のせいでもない。自分自身の目論見の甘さ、計画の立て方の甘さ、時間が無限大にあるように思った奢りのツケ。他にも言い出したらキリがない。でも結局は「自業自得」、この一つの言葉で片付いてしまうシンプルさ。
「あんなに大きいことを言っておきながら、所詮自分はこの程度なんだ。僕は頭の悪い子だったんだな」
勉強への自信のなさは、そのまま自分という存在の否定へとシフトしていった。否定的な感情が心を支配して、真っ暗な冬の夜の海に放り出されて溺れているような気分だった。
そんな時に、一つのメッセージが携帯に届いた。父からのメールだった。そこにはこう書かれていた。
「お父さんは、聖治の親だから聖治のことを信じているよ。それは『大学に合格する』という小さな次元(もちろんそれは大事なことだけど)のことを信じているのではなくて、受験という貴重な経験を生かして『幸せな人生を送ること』、それができることを信じているよ。だから、どんな結果になっても大丈夫」
目に溜まった涙は、やがて溢れ出し、机にポタポタとこぼれた。僕は声を押し殺して泣いた。一通のメールは一筋の光となって暗い深海にいる僕の元に届いた。
僕の胸のうちには一つの思いが湧いてきていた。
「客観的に見たら、誰もが、今の状況から自分が東京大学に合格するなんて思わないだろう。それはそうかもしれない。でも、『信じてくれている親を喜ばすため』に、残りの短い受験生活を駆け抜けてやる」
涙を拭いて、僕はもう一度ペンを握った。
正直なことを言うと、それからの記憶はセンター試験の結果が出た頃からくらいしかない。僕は東京大学の「足切り」に引っかかるか引っかからないかという得点しか取れなかった。東京大学への挑戦か、他の大学に出願するか。悩んだけれど、結局「首都大学東京」と「法政大学」に出願した。
そして、無事に両大学から合格をいただき、首都大学東京への進学という形でもって僕の浪人生活は幕を閉じた。
受験を通して学んだこと。
それは「誰か一人でも、その人が幸せな人生を送ることを願い信じてくれている人がいれば、その人は頑張れるし救われる」ということだ。
あの日、どん底にいたからこそ、胸の奥深くにまで届いた父の言葉。何かにつまずいた時、苦しい時、投げ出したくなった時に思い出す“勇気の言葉”。
その言葉は、今でも僕の心の中で輝いている。
◻︎ライタープロフィール
樋水聖治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
東京生まれ東京育ち
首都大学東京 歴史考古学分野(西洋史)卒業
在学中にフランスに留学するも、卒論のテーマは『中世イタリアのユダヤ人金貸しとキリスト教徒の関係について』
囲碁が好きでネット碁が趣味。(棋力はアマ5段ほど)
好きな漫画はもちろん『ヒカルの碁』
2019年GWの10日間で行われた、天狼院書店ライティング・ゼミで書くことの楽しさ、辛さ、必要性を知り、ライターズ倶楽部でさらなる修行を積んでいる途中。
http://tenro-in.com/zemi/86808