花が咲くように笑う《出してからおいで大賞》
記事:谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
※この記事はフィクションです。
「だめだ、もう苦しい……」
息はすっかり上がりきり、心臓の鼓動は最大級で、その振動が指先にまで伝わってくる。
並木の桜は、すっかり葉を茂らせていた。
程よい木陰をみつけ、足を止める。
背中はぐっしょりと濡れていたが、立ち止まるとさらにたくさんの汗がつたった。
Googleマップを開くと、残り500mを示している。
全力疾走ではないにしろ、これから500mのランニングは結構辛い。
気持ちは焦るが、体は悲鳴を上げている。
カバンの中から、ペットボトルを取り出し、口に流し込む。
莉緒(りお)と初めて言葉を交わしたのは、半年ほど前のことだ。
「これ、忘れてませんか?」
差し出されたのは、洗濯を繰り返し、すっかりほころびた僕のタオルだ。
とっさに、耳が赤くなる。
慌てて受け取り、礼を言った。
小さなスポーツジムだし、以前から何度か顔を見かけたことはあった。
20代前半ぐらいの若い女性は、何人もいたから、特に強い印象を持っていたわけではない。
タオルの件以降、あいさつを交わすようになり、徐々に小さな世間話をするようになった。
女性として、全く意識していなかったと言えば嘘になる。
目立つ美人という訳ではないけれど、透けそうなほどに肌が真っ白で、笑うと、それこそ花が咲くように明るくなった。
でも、一回りも歳が離れていたし、男女の関係なんて、想像すらしていなかった。
心臓が、少しずつ落ち着きを取り戻してきていた。
足首をくるくると回し、まだ走れるだろうかと不安になる。
空を見上げると、莉緒の花のようなあの笑顔が、思い浮かぶ。
じわっとあたたまる愛おしさと、同じ量だけの焦燥感が胸に迫った。
果たして、彼女は、まだ待っていてくれているだろうか。
僕よりずっと若い別の男と楽しそうに過ごす莉緒の姿が、脳裏によぎる。
とても、立ち止まっていられる気分ではなかった。
なんとか、足を前へと振り上げる。
その日は、スポーツジムが定休の水曜で、仕事終わりの時間を持て余していた。
本でも読むかと、自宅近くのコーヒーチェーンに入り、注文のためレジに並ぶ。
すると、思いがけず背後から声がかかった。
「池井戸さん、こんばんは」
振り返ると、莉緒がいた。
「わっ、どうしたの?」
「仕事帰りに通りかかったら、池井戸さんがいるのが見えて思わず入っちゃいました」
「そう。仕事場、ここから近いの?」
「そうなんです。歩いて、5分ぐらいかな。池井戸さんのおうち、この辺でしたよね。今日、奥様は一緒じゃないんですか?」
「うん。最近、忙しいみたいで、毎晩帰りが遅いんだよ」
「それは、さみしいですね」
「そう、さみしいの。うちは、子供がいないでしょ。だから、奥さんが帰ってこないと、本当にさみしい」
「正直ですね! そんなこと言う旦那様、うらやましいな」
結局その後、コーヒーを飲みながらに、一時間ほど話をした。
天気のことやら、仕事のこと。
当たり障りのない話ばかりだったけど、楽しい時間だった。
「そろそろ、帰ってくる頃かな?」
「そうですか。池井戸さん、来週の水曜日も、ここにきます?」
「どうかな? 君はくるの?」
「池井戸さんに会えるなら、きます」
「なんだそれ。ジムでも、会うのにね。まあ、また」
池井戸さんに会えるなら。冗談だとしても、どきりとした。
再び走り始めると、世界は、僕の足音でいっぱいになった。
余計なことを考えないよう、足を前に出すことだけに集中した。
相変わらず、心臓はバクバクとして、呼吸もだいぶ苦しい。
それでも、不思議な快感が、体を包む。
流れる景色も、背中に吹く風も、心地良さでしかない。
ランナーズハイってやつだろうか。
きっと、もうすぐ決着がつくってことも、影響しているに違いない。
短くて長かったこの半年の決着が。
あの日以降、なんとなく水曜日は、二人でコーヒーを飲む日になった。
ジムでは挨拶程度の素っ気ない莉緒が、コーヒー店では、ずっと僕にむけて笑いかけた。
そして、「会いたかった」とか、莉緒は、そんな言葉を、冗談まじりによく言った。
明らかに僕に好意を寄せていた。
新婚のような熱い気持ちはなくとも、妻には愛情があった。
それに女性経験も多くない僕は、不倫願望なんてちっとも持っていなかった。
それでも、若くて魅力的な女性が、自分だけに笑いかけてくれる。
好きにならないなんて、とてもじゃないけど、無理だった。
一ヶ月もすると、仕事帰りに、莉緒の住むマンションへ寄るのが日課になっていた。
二人ともスポーツジムは退会してしまった。
莉緒の作った夕食を二人で食べ、時間の許す限りベットの上で時間を過ごす。
ただそれだけを、毎日毎日繰り返していた。
それなのに、毎日毎日、甘くてうれしくて幸せだった。
莉緒の部屋が幸せであふれるのとは反対に、僕の自宅は苦痛の場所でしかなくなっていった。
妻になんの落ち度もないことは、わかっている。
それでも、後ろめたさから彼女の目を直視することができない。
そんな空気は、しっかり伝わっていたのだろう。
妻は、いつにも増して、僕に優しかった。
週末になれば、テーブルいっぱいに僕の好物が並んだ。
料理の苦手な彼女のことだ、相当苦労をしたに違いない。
悪いのは、僕だし、彼女は何もしていない。
わかっているし、理解はできているけれど、もうその全てがうとましくなっていた。
罪悪感ばかり募り、どんどん自宅へ帰る時間は少なくなった。
莉緒は次第に「結婚」と言う言葉を、頻繁に使うようになっていた。
それに影響され、僕も、莉緒との結婚生活を想像するようになった。
「結婚したら」なんて話も、二人でしていた。
嘘ではなくて、莉緒と結婚できたらどんなにいいだろうと考えた。
それでも、僕は離婚を切り出すことがどうしてもできなかった。
自分のしていることが正しいと思えなかったし、妻にはなんの罪はない。
本当に身勝手だけれども、うとましいと思いながらも、やっぱり愛情があったのだと思う。
なかなか離婚しない僕に、莉緒は不満を漏らすようになった。
「まだ、一緒に暮らせないの?」
「今、タイミングを見ているところだから」
「その話、この間も聞いた」
こんな会話をしたのだって、一度や二度ではない。
小さなケンカも増えるようになった。
そして、いろんな理由をつけて莉緒は、僕と会う回数を減らしていった。
木立の隙間から、莉緒のマンションが見えてきた。
足は、とっくに限界を迎えている。
あと、少し。
走っていても、膝が震えているのがわかる。
ああ、莉緒、突然のことで驚くだろう。
笑ってくれるだろうか。それとも怒るだろうか。
会いたい気持ちと、会いたくない気持ちがぐちゃぐちゃと入り混じる。
莉緒が僕と距離をとり始めた頃だったと思う。
最近では、全く使うことのなかった、自宅の固定電話が頻繁に鳴るようになった。
僕が出ても、相手は言葉を発しない。
「今時、無言電話か」
すぐに飽きるだろうと、放置することに決めた。
ある日曜日、買い物から帰ると、妻が固定電話で誰かと話し込んでいた。
はっきりと内容は聞こえないけれど、尖った声の感じから楽しい電話でないことはわかった。
「どうしたの?」
電話を切ったあと、妻に尋ねてみたが、返事は返ってこなかった。
次の日、妻は、家に帰ってこなかった。
何か事故にでもあったかと、携帯に電話をかけたが、何度かけてもすぐに留守電になってしまった。
電話はつながらなかったが、メールが届いた。
「少し、一人になります。友達の家にいて、元気なので、心配しないで」
僕のせいだ。妻にとった、冷たい態度を省みた。
それでも、僕は心のどこかで、妻がいなくなったことを喜んでいた。
これで莉緒に大手を振って会える。
莉緒と一緒に暮らすことができるかもしれないと思うとうれしくてたまらなかった。
ところが、せっかく一人になったのに莉緒は、僕に会う機会をくれなかった。
「大好きだけど、しばらく距離をおきたいの。離婚したら、また会いましょう」
電話口で、泣きながら僕にそう告げた。
どうして? 僕は納得ができなかった。
一緒にいられるだけではダメなの?
こんなにも、こんなにも好きなのに。
毎日毎日、莉緒のことを考えた。
大きな目に、さらさらとした長い髪、白い肌……。
もう、会えないなんて。
もう、さわれないなんて。
彼女だって、電話口で泣き出すほど僕のことが好きなのだ。
こんなこと、あるはずがない。
あっていいはずがない。
僕は、意を決して、妻にメールを打った。
久しぶりに家で会う妻は、驚くほどに痩せ細っていた。
顔色もすぐれず、虚な目をしている。
「大丈夫?」
偽りのない心配の言葉だった。
妻は、顔をあげ僕の目を見て、何かを言いかけた。
でも、すぐにその言葉を飲み込んだ。
そして、下を向いて、ため息まじりに「離婚届は?」と言った。
離婚届を差し出しながら、僕は「ごめん」と呟いた。
サインをすると、妻は、何も言わずに立ち去った。
感傷的な気持ちが、全くなかった訳じゃない。
それでも、できるだけ早く莉緒に会いたかった。
一刻でも早く、莉緒に会いたい。
会って、話がしたかった。
離婚届をカバンに入れると、休日で浮かれる街中へたまらず駆け出した。
息を整え、インターフォンを鳴らす。
ばくばくと鳴り止まない鼓動は、走ってきたからか、緊張のせいなのか、もはや判然としない。
名前を告げると、ガチャリと鍵の音がして、扉の隙間から莉緒が顔をのぞかせた。
莉緒だ! 大きな目も、長い髪も、ちっとも変わっていない。
ずっと待ち望んでいた、あの莉緒だ!
ところが、僕の気分とは裏腹に、彼女の表情は明らかに冴えない。
扉から出した顔は、眉間に深いシワがよって、困惑しているように見えた。
「もう、会わないって話じゃなかった?」
小さな声だったが、驚くほどに強い調子だった。
「うん……。離婚するまでは会わないって話だった」
開いた扉の隙間から、ふっと香りがこぼれた。
どこかで嗅いだことのある懐かしい香り。
なんの匂いだっけ。
「そうだよね。じゃあ、どうして?」
「離婚が、決まったんだ」
呆れた表情を浮かべ莉緒は、共用廊下の僕の前にゆっくりと姿を現した。
「うそだ」
僕は、もう、彼女の部屋へ、上がることさえ許されないのだろうか。
彼女の後ろで、玄関扉はゆっくりとしまっていっている。
「いや、本当なんだよ!」
「言葉だけじゃ、信じられない」
「じゃあ、これ、離婚届! 妻のサインも入ってる」
閉まる直前の、玄関扉の隙間から、一足の靴が目に入る。
見慣れたベージュのハイヒール。
え、妻の靴……?
胸の中に、ふわっと黒い煙が立ち上がる。
離婚届の薄い紙を受け取り、莉緒は、じっとそれを見つめた。
そして、顔をあげ、笑みを浮かべた。
まるで、世界中に花が咲くような、見たこともないような満面の笑み。
僕の頭に、「悪魔」という言葉が浮かんだ。
神様が、うっかり地上に落としてしまった、世にも美しい悪魔。
「うれしい!」
勢いよく、彼女は、僕の胸に顔をうずめた。
だめだ、だめだ、だめだ!
35年分の経験が、全理性が、警告アラームを鳴らしている。
脳内で、真っ赤な非常灯が点滅し、非常事態を知らせる。
それでも、体は止まらない。
ずっと忘れずにいたシャンプーの香りと、白い肌が、目の前にある。
何度も何度もフラッシュバックした、あの甘い体だ。
たまらず、僕は、力一杯、彼女を抱きしめた。
莉緒の小さな手が、僕のシャツを握りしめる。
警告アラームは、相変わらず鳴り続いている。
無視して僕は、ブラウスの裾から手を滑り込ませ、彼女の背中に触れた。
吸い付くような温もりが、手のひらに広がる。
「あっ、待って。今、部屋がとても散らかっていて。少し片付ける時間が欲しい。そしたら、ご飯の準備をするから、二人でお祝いしよう。カレー、好きだったよね?」
「覚えててくれたんだ」
莉緒は、ほのかに桃色に染まった、小さな唇と尖らせた。
その唇から、こぼれる声は、どこまでも甘い。
「忘れたことなんてないよ。ずっと待ってたんだ」
目を伏せると、透けるような頬に、長い睫毛の影が落ちた。
警告音のせいだろうか。
キーンと耳鳴りがしている。
莉緒の声の甘い響きが、耳鳴りをかいくぐって鼓膜に届く。
「今でも、まだ信じられない。ちゃんと迎えにきてくれたのか、不安なの。だから、これ、先に……」
白い指で離婚届を差し出し、莉緒は、真っ黒い目でこちらをみつめた。
「出してからおいで」
◻︎ライタープロフィール
谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
1982年栃木県生まれ。
2019年より半径3メートルの世界を綴りたいと、書くことを学び始める。
好きな言葉は、食う寝るところに住むところ。
http://tenro-in.com/zemi/103447