文豪の心は鎌倉にあり

【文豪の心は鎌倉にあり 第10回】西洋の近代を受け止めて国学へとたどり着いた小林秀雄 前編《天狼院書店 湘南ローカル企画》


2022/05/23/公開
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)


 
戦後の文学界、言論界に大きな影響を与えた小林秀雄。今でも著書を貪り読んでいるファンが大勢いるほどの評論家であり、作家であり、思想家でした。筆者も『考えるヒント』(文春文庫)を読んで感銘を受けた一人です。戦前、戦中、戦後と時代が大きく動く中で残した作品は、現代に生きる私たちにも通じる考え方や物事の見方、思想が伝わるものでした。
 
西洋のモダニズムに影響を受けた作品を残した小林は、最後にどんな仕事をしたのでしょう。鎌倉文士としての顔を持つ小林秀雄について富岡館長にお話しを伺ってきました。
 
実は館長と小林秀雄の思わぬ関係も飛び出してとても盛り上がりました。
 
 

語り手:富岡幸一郎



 
昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。
 
鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html
 
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/
 
 

●自由な言論を求めて鎌倉へ


小林秀雄は鎌倉文士の中でも特に重要な人物だと思います。文芸評論家という肩書きがありますけど、近代日本の文学、思想、哲学、歴史を貫くような存在であると思います。文芸評論だけではなく、美術、音楽、最晩年の仕事は本居宣長という国学の文学者も取り上げているんですね。そういう意味では、近代日本を代表する思想家のほうが近いと思います。
 
元々生まれは東京の神田です。明治32年生まれですから江戸っ子というよりも東京っ子って感じですね。鎌倉に移り住んだのは昭和6年です。
 
移住のきっかけは、昭和8年に出版された『文學界』(鎌倉文庫)です。この雑誌は前にお話した林房雄、川端康成と深田久弥と小林さんが中心になって作りました。川端康成もそのために鎌倉へ移り住んだようなものです。この同人誌の存在は文学史において非常に大きいと思います。
 
鎌倉の雪ノ下(鶴岡八幡宮を中心とするエリア)に長く住んでおり、亡くなる(昭和58年)まで過ごしていました。鎌倉で長く住んだ家は、鶴岡八幡宮の裏山の上にあります。ホントに景色が良くて海が見渡せるんです。晩年になってから山登りは大変ということで、八幡宮のすぐ前の所に引っ越しました。大佛次郎邸の近くです。ホントに隣と言っていいくらいなんですよ。
 
 

●館長は自宅に訪ねてしまうほどのファンだった


小林秀雄は文学好きなら誰もが手に取りますよね。僕は、中学生の頃から読み始めました。小林秀雄の評論は難しいんですけど、文章にすごく力があります。僕は、『無常といふ事』(創元社)にすごく惹かれましたね。高校生の頃、当時は東京にいましたけど、友人と小林秀雄の自宅を訪ねようってことになって鎌倉まで行きました。ちょっとした冒険ですね。駅前の電話ボックスに入ると、当時は普通に置いてあった電話帳に小林秀雄の住所も電話番号も載っていたんです。今ならあり得ないけど、あの頃は個人情報への意識が緩かったんですね。それで鎌倉駅前の電話ボックスから自宅を割り出しました。
 
雪ノ下に住んでいるのは知ってましたし、家も大体わかってました。電話番号がわかったのでいきなり訪ねるのもどうかと思い電話をしたんです。
 
「小林先生のファンなんです。これからお宅に伺いたいのですけど」
 
なんて話してね。高校2年くらいかな? 電話に出たのは奥さんだと思うんですけど、
 
「小林は今、長い仕事をしていてちょっとお会いできないんです」
 
こう返事をされました。長い仕事というのは「本居宣長」でしょうね。ちょうど連載していた時期だったと思います。昭和40年(1965年)から52年まで続いたのでライフワークと言っていいでしょう。およそ隔月で雑誌に掲載するのでかなり大変だったと思います。
 
そう言われちゃうと「はい、そうですか」としか言えませんよね。それで電話を切りました。でも、せっかく来たのだから家までは行ってみようということでお宅まで行きました。でもチャイムは鳴らせなくてね、家だけ拝んで帰ったなんて思い出があります。
 

 
一緒にいた友達は、修学旅行で京都かどこかへ行った帰りの新幹線で小林さんに会ったんですよ。普通車へ行くのにグリーン車の中を歩いていたら小林秀雄が座っていたそうなんです。
 
そいつが小林秀雄の文庫本を持っていて、国語の先生に「小林秀雄がいます」と告げて、一緒に小林さんの元へ行ったんです。その時に「小林秀雄先生ですか? 今、先生の本を読んでいます。よろしければサインをいただけますか?」とお願いしたら「いいよ」と返事をしてくれてサインをしてくれたそうです。
 
友人は色々と話したかったけど、先生が「お忙しいでしょうから」なんて小林さんを気遣ったのか場を離れたそうです。東京駅に着いたら僕の所に電話をかけてきて「おい、小林秀雄に会ってサインもらったぞ」と自慢をされました(笑い)。当時文学好きの少年はみんな小林秀雄を読んでましたからね。僕は三島由紀夫を読んでましたけど、その流れで小林秀雄も読み始めましていました。そんなやり取りがきっかけでさらに深く触れるようになりましたね。その後も東京にいたけど、縁あって小林さんと同じ鎌倉へ移り住むことになりました。
 
もう小林さんは亡くなっていましたけど、晩年住んでいた家は残っていました。今はもう取り壊してしまって3〜4棟くらいのアパートになったと思います。僕が門まで行った山の上のお宅は残ってますから今でも鎌倉に小林さんの匂いはあるんですね。
 
 

●学生時代に中原中也と三角関係に陥っていた


小林さんは、明治35年生まれで活躍したのは昭和に入ってからです。第一高校から東京帝国大学のフランス文学科に入学しています。当時は辰野隆、鈴木信太郎という先生でしたけど、その前は外国人でした。この頃になってようやくフランス文学を学んだ日本人が東京帝国大学のフランス文学科の先生になった。辰野隆は辰野金吾の息子です。辰野金吾は、東京駅を建築したことで知られている建築家ですね。鈴木信太郎は、非常に裕福な家庭の人です。そういう人達は若い頃にフランスへ留学をしてフランス語やフランスの文化を学んできました。財力がないとできませんよね。鈴木信太郎はフランスで膨大な本を買って日本に戻ってきた人です。そうした人達に囲まれていたせいか小林さんの世代は、大正時代のモダニズム、西洋の文明思想を一番受け止めていると思います。
 
小林さんは、フランス語をすごく勉強したけど大学にはほとんど行っていないらしいです。自分で勝手に勉強していた。非常に苦学生でお金が無くなると、大学へ行って辰野隆に「おい、カネを貸せ」と言っていたというエピソードが残っています。この当時小林さんが出会った人物で見逃してはいけないのが中原中也です。
 
中原中也は山口県の湯田温泉の出身です。今は中也の記念館(https://chuyakan.jp/)がありますね。小さな温泉街ですけど、そこから上京してフランス語を勉強し、詩を書いてました。それから富永太郎という詩人がいて、彼も西洋のモダニズム的な詩を書いてました。小林秀雄は東京帝国大学で詩人やフランス文学者と交流があったんですね。
 
後、重要な人物が一緒に住んでいた長谷川泰子です。女優の卵で、中原中也と付き合っていたけど、小林秀雄のところへいった。いわゆる三角関係ですね。だから中也と小林さんは親友だったけど、長谷川泰子の登場で微妙な関係になります。中也はその後、鎌倉の寿福寺へ移住して結核で亡くなります。この二人の関係は長谷川泰子を抜きには語れない。現に中原中也研究でも小林秀雄研究でも長谷川泰子は語られています。
 
中也と小林が亡くなった後も長谷川泰子は元気でインタビューとかに答えています。晩年に詩人の佐々木幹朗は映画を作り、彼女も出演しています。二人とも亡くなっているからか「小林秀雄はいい男だったわよ」なんて言っていたようです(笑い)。小林秀雄と中原中也の青春時代は文学史の研究対象ですね。
 
「女は俺の成熟する場所だった」なんて小林秀雄はエッセイに残していますし、「Xへの手紙」にも匂わせるようなことを書いています。
 
実は中原中也が今でも残っているのは戦後、小林秀雄が創元社から『創元』という雑誌で紹介したからなんです。創刊号で中原中也の詩を掲載し、世間の目に止まりました。後に大岡昇平が中原中也伝を書いて野間文芸賞を受賞します。中也が残ったのは小林秀雄と大岡昇平のお陰です。もちろん中也の詩が素晴らしかったからですけど、二人の力がなければ中原中也は忘れ去られていたと思います。
 
 

●デビュー作は宮本顕治に敗れて次点だった


これは驚くかもしれませんけど、小林秀雄も最初は小説を書いていました。それから文芸評論を書き始めたんです。
 

 
昭和4年に『改造』(改造社)という有名な文芸評論の雑誌がありまして、そこに『様々なる意匠』という評論を投稿しています。これが小林さんのデビュー作です。意匠とは思想のようなもので、当時は新感覚派、モダニズム、プロレタリア文学などが出てきた時代でした。その時代に様々な意匠を確認して、どれか一つを絶対視するのは危険だと記しています。当時はマルクス主義が力を持っており、プロレタリア文学ができていた時代です。その中で批評家としての目線を語った評論集です。
 
『様々なる意匠』に相当自信があったのでしょう。当選すると思っていて、賞金は全部本に使ってしまったそうです。でも、実は次点で、当選は後に日本共産党の委員長になる宮本顕治が書いた『「敗北」の文学』(新日本文庫)です。これは芥川龍之介論です。芥川龍之介が自殺したのは昭和2年ですので、亡くなってすぐにプロレタリア文学の立場から「芥川龍之介の文学は敗北の文学」と評価しました。どういう事かといいますと、芥川はブルジョア文学であり、自殺はブルジョアの敗北だということです。「敗北の文学・芥川龍之介論」というのを日本共産党の中心になる人物が記したんですね。
 
宮本顕治が当選で、小林秀雄が次点ですよ。今ではちょっと考えられない。これは昭和4年の日本文芸界、思想界を象徴した出来事だと思います。この頃は、小林多喜二の『蟹工船』(新興出版社)が売れた時代です。しかし、治安維持法によってプロレタリア文学は弾圧され始め、満州事変によって日本は戦争時代へと進んでいきます。
 
そんな暗い世相の中、小林さんは自由な言論を求めて鎌倉へと移り住み、『文學界』(鎌倉文庫)のメンバーに入りました。昭和の初めというか、明治以降の日本の歴史の中でも一番といっていい激動期に小林秀雄は文芸評論家としてデビューしたんです。
 
最初の頃は作家論やプロレタリア文学の批判をしていたけど、フランス文学の研究もしていました。次に出版をしたのが19世紀の詩人・ランボオの『地獄の季節』を翻訳したものです。帝大時代はほとんど学校へ行っていないけど、優秀な学生で直感力が強かったようです。
 
エピソードとして面白いのが、先生の鈴木慎太郎が試験で筆記問題を出したときに「かくの如き愚問には答えず」と一行だけ書いて答案を出したそうです。それで卒業できたのかどうかは知りません。僕は「かっこいいな」と思ってマネしたけど落第しました(笑い)。
 
後に鈴木信太郎は「小林秀雄ほど優秀な学生はいなかった」と述べています。小林さんは、ランボオの研究以外にも、ポール・バレリーという詩人・評論家の翻訳や論評をしていました。それとボードレール。これも19世紀フランスを代表する詩人です。
 
どの人も今ではたくさんの読者がいて、翻訳本が出ていますけど当時から翻訳をして評論をした人は珍しかった。パイオニアのような存在です。西洋の近代思想を自分の身体感覚というか言語感覚で直接受け止めた世代だからできたのかもしれませんね。だからこそ新しい日本の近代文学を作っていった文学者と言えます。
 
 

●ドストエフスキーを知るためにキリスト教も学んでいた


その後、ドストエフスキーについての長い評伝や評論を書いていきます。これは戦前の小林秀雄の仕事でも大きなものです。ドストエフスキーはロシアですけど小林さんはロシア語を学んでいません。フランス語訳のドストエフスキーを読んで書き上げました。すでにドストエフスキーの日本語訳が大正には出ていましたので、それらを読んだり、英語で読めるドストエフスキーを読んだりして徹底的に論じています。明治に島崎藤村や透谷、内田魯庵がドフトエスキーに触れていますが、本格的に論じたのは小林秀雄が初めてです。当時は危機の時代であり、不安が大きな時勢の中で論じたのはとても重要なポイントだと思います。いまだにドストエフスキーの研究は続いていますが、小林さんのドストエフスキー論が一つのメルクマールであり、出発点になっていると言っていいでしょうね。
 
でも途中で「キリスト教がわからない」と言い出した。小林秀雄はキリスト教にも関心があったんです。当然ですよね、西洋の文学も思想も絵画も大本はキリスト教ですから。ドストエフスキーはロシア正教なんです。ロシア正教もキリスト教ですよね。ドストエフスキーは、ペトラシェフスキー事件(ドストエフスキーが加わったことで有名な19世紀ロシアの思想事件)で連座して20代で死刑判決を受けます。当時は社会主義は御法度でしたが、ドストエフスキーは社会主義のサークルに出入りしていました。それがバレて逮捕されて死刑判決を受けたけど減刑されてシベリアへ流罪になります。その時にドストエフスキーは、聖書を監獄で熟読してロシア正教への信仰を深めました。ドストエフスキーにとってイエスキリストは絶対的な存在です。だからドストエフスキーの文学の根底はロシア正教なんです。
 
ところでプーチンはロシア正教ですよね。NATOの東方拡大に怒っているのもありますけど、ウクライナは10世紀にキリスト教が入った土地があるんです。だからウクライナを持っていない限り、ロシアのアイデンティティーが成り立たないというのがあるんですよ。ロシアのアイデンティティーを作るには、ウクライナがアメリカ側に行ったら困るんです。それは原理的なものなので近代の地政学とは違います。日本は、ワシントン大本営発表に従っているからこうした報道はあまりされてませんね。
 

 
小林さんは戦争中にそんなに多くの著作を書いていませんね。でも、「徒然草」「平家物語」「源実朝」など日本の古典文学についても書いています。実朝は鎌倉幕府の三大将軍ですけど詩人としても有名ですよね。それから「西行」ですね。そういった人物を論じていました。それらをまとめたのが 『無常といふ事』(創元社)です。この本は昭和21年に発行されました。いずれもそんなに長くないけど日本の古典を通して日本人の魂を描こうというのが『無常といふ事』で伝えたかったことです。非常に多くの人に読まれた小林秀雄の代表作の一つです。
 
後は、昭和21年にモーツァルトについての評論を書いています。戦時中から構想を練っていたそうです。戦前からクラシック音楽について聞く機会はあったし、向こうの楽団も戦争前は来日したり、レコードで聞いたりしていたけど、今みたいに簡単にクラシックコンサートが行われたり、日本人がクラシックを演奏したりする機会はありませんでした。そんな時勢なのにSP版のレコードを聴いてモーツァルトについて評論していたんですね。日本の音楽評論の草分け的な評論だと思います。
 
小林秀雄と同じく鎌倉に長く住んだ音楽評論家の吉田秀和さんも「小林秀雄のモーツァルトを読んで音楽評論をやろうと思った」と言っていたくらいです。だからやっぱり文芸以外にも、西洋音楽の代表的な存在であるモーツァルトを論じてみせた辺りに小林秀雄の近代思想における批評家及び先駆者としての凄さがありますよね。戦後になって小林秀雄のモーツァルト批評を批判する人が色々といました。でも、ドストエフスキーでもそうだけどパイオニアとして書いた輝きや凄さというのはずっと続いていると思います。
 
敗戦後に創元社から出版をして話題になりました。『モオツァルト』(創元社)は、小林秀雄の批評の流れが、戦前戦後を通じて形成されていったと思います。
 
 
後編へ続く)
 
 

●小林秀雄の歩み

明治35年(1902)4月11日、東京・神田に生れる。
大正11年(1922) 20歳 小説「蛸の自殺」を「跫音」に発表。志賀直哉に送り、賞賛の手紙を受け取る。
大正14年(1925) 23歳 東京帝国大学仏蘭西文学科に入学。この年、中原中也を識る。長谷川泰子と棲む。
大正15年(1926) 24歳 「人生斫断家アルチュル・ランボオ」を「仏蘭西文学研究」に発表。
昭和3年(1928) 26歳 「Arthur Rimbaud」を卒業論文として東大仏文科を卒業。長谷川泰子と別れ、奈良へ赴く。
昭和4年(1929) 27歳 「様々なる意匠」を「改造」の懸賞評論に応募、二席に入選して同誌9月号に掲載される。
昭和5年(1930) 28歳 「文藝春秋」に文芸時評を連載。ランボオ「地獄の季節」を翻訳刊行。
昭和7年(1932) 30歳 「Xへの手紙」を「中央公論」に発表。
昭和8年(1933) 31歳 「『永遠の良人』」を「文藝春秋」に発表。以後ドストエフスキー研究が昭和30年代まで続く。
昭和16年(1941) 39歳 「歴史と文学」を刊行。古美術に親しむ。
昭和17年(1942) 40歳 「当麻」「徒然草」など日本の古典論を発表。
昭和21年(1946) 44歳 「無常といふ事」を刊行。5月27日、母精子死去、享年66。
昭和22年(1947) 45歳 「モオツァルト」を刊行。
昭和24年(1949) 47歳 「私の人生観」を刊行。
昭和27年(1952) 50歳「ゴッホの手紙」を刊行、翌年、読売文学賞を受賞。今日出海とヨーロッパ旅行に出発。
昭和33年(1958) 56歳 「近代絵画」を刊行、野間文芸賞を受賞。「新潮」にベルクソン論「感想」の連載を始める。
昭和34年(1959) 57歳 「文藝春秋」に「考へるヒント」を連載。芸術院会員となる。
昭和40年(1965) 63歳「新潮」に「本居宣長」の連載を始める。岡潔と対話「人間の建設」。
昭和57年(1982) 80歳 一月、「『流離譚』を読む」を「新潮」に発表。四月、「本居宣長補記」を刊行。
昭和58年(1983) 3月1日、午前1時40分永眠。墓は、鎌倉・東慶寺にある。
※新潮社の小林秀雄年譜(https://www.shinchosha.co.jp/zenshu/kobayashi/nenpu.html)より引用。

 

□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)

神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す日々。藤沢出身のプロレスラー諏訪魔(すわま)のサイン入り色紙は宝物の一つ。

□カメラマンプロフィール
山中菜摘(やまなか なつみ)

神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店スタッフ、店長として勤務をしながら様々なカメラマンに師事を受けて、プロとして独立。現在は山口県山口市にあるKDDI維新ホール(https://ishinhall.com/ )の施設管理を行う傍ら、人物、建物、食べ物、イベントなどを撮影している。

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富岡 幸一郎


2022-05-23 | Posted in 文豪の心は鎌倉にあり

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