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返還前の沖縄に、隆盛の起源を見た《週刊READING LIFE Vol.361「フリー」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:山田THX将治(天狼院・ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)

 

「この子は、凄い!」

 

と、バスのステアリング(ハンドル)を握りながら運転手さんは、直ぐ後ろの席に座っていた5歳の私を褒め称えた。

 

何しろ、対向してくる車の車種を全て言い当てて居たのだから。

 

もう、60年以上前のことだ。

日本のモータリゼーションは、まだ始まって居らず、車種だって現代よりずっと少なかった。

面白いことに、現代より外国車、特にアメリカ車が幅を利かせていた。

それを例えるなら、令和の現代で、街中によく見られるレクサスが、全てアメ車だったとしたらと謂えば、御理解頂けることだろう。

 

 

その様な訳で、

私は、子供の頃から無類の自動車好きだった。運転したいが為に‘早く大人に為りたい’と願っていた。

何しろ絵本よりも、父親が持って居た“東京モーターショー(現・モビリティショー)”のガイドブックを、暇さえ有れば眺めている珍しい子だった。

唯、眺めているのではない。写真を見ただけで車種を言い当てるのは勿論、規格(車格)や摘要(性能)も、頭に叩き込んで居た。

 

対向してくる車種を言い当てること等、訳の無いものだ。

 

 

“三つ子の魂百迄”とは、よく謂ったものだ。

実際、5歳で全ての車種を言い当てた私は、現在でも無類の自動車好きだ。

移動は殆ど車だ。

勿論、運転するのは自らだ。

 

その上、免許証返上が勧められる年齢に近付いて居ても、未だに自動車の運転を苦にして居ない。

 

何しろ、出張等の話をする時に、上手く会話が噛み合わないことが有る。

例えば、住んでいる東京から関西方面へ出向く際、大概の方は新幹線か飛行機で向かう前提の話をされる。

然し、自動車移動が基本の私は、地続きの場所は車で向かうのがデフォルトだ。

従って、時間の感覚と謂うか、移動の段取りが伝わり辛いのだ。

 

ま、傍(はた)から見れば多分、単に“車バカ”と思われていることだろう。

 

 

こんな、“車バカ”に活きて来て仕舞った5歳児は、60年も経った現在でも、自動車に関するテレビ番組を隈なく観ている。情報を得る為に。

60年とも為ると、ちょいとした歴史だ。

その分、日本の自動車産業の変遷も見て来た訳だ。

 

子供の頃を想い出すと、

60年前、日本の自動車業界は、未だ未だ弱小だった。

海外輸出は始まってはいたものの、

 

『外国の自動車は凄い』

 

と、思って居た。

事実、映画スターや有名野球選手しか、外国車を所有していなかった。出来なかった。

為替相場が、‘$1=360円’だったことも有り、一部の超々富裕層しか購入出来なかったのだ。

 

 

こんな話もある。

 

御当地ナンバーが当たり前と為った現代とは違い、20世紀迄の自動車好きは、ナンバープレートの地名に強い拘りを持つ者が居た。

人気の地名は、“横浜”と“品川”だった。

特に拘りの強い者は、挙って‘横浜ナンバー’や‘品川ナンバー’を求めた。

常識的に考えれば、車庫証明を取得出来る地域のナンバーが正当だ。

ところが、自動車を少しでも多く売りたいカーディーラーは、ユーザーの“横浜”“品川”信仰を手助けしたのだ。

俗に『車庫飛ばし』呼ばれる手法で。

ディーラーの手助け(車庫飛ばし・現在は違法)で、拘りのユーザーは地域外に住んで居ても、“横浜”“品川”ナンバーを愛車に付けることが出来たのだ。

 

ここで一つ疑問と為るのは、何故に‘横浜ナンバー’と‘品川ナンバー’が珍重されたのかと謂うことだ。

これには、私と同じく車好きの父から得た確かな証言が在る。

 

「戦後直ぐは、日本の自動車メーカーは、四輪車を造ることが許されなかった」

 

「車が欲しい者は、中古の外国車(主にアメリカ車)を購入するしかなかった」

 

「新車が自由に買えなかった昭和中期まで、“横浜”と“品川”ナンバーが、特に好まれて居た」

 

とのことだった。

 

何故なら、‘横浜ナンバー’と‘品川ナンバー’が付いた車は、査定で高い金額が付けられたそうなのだ。

これにも確かな理由が在り、‘横浜ナンバー’‘品川ナンバー’の地域には、腕の良い自動車工場が多かったそうなのだ。

 

実際、‘横浜ナンバー’地区には、本牧を始め多くの米軍(進駐軍)施設が在ったし、それ(当然、アメ車)に対応するには、腕利きの修理工が必要だったのだ。

そう謂えば、HONDAの創業者・本田宗一郎さんが若い頃、修理工として修業していた“アート商會”は、修理が上手いことで有名な自動車修理工場だった。

所在して居たのは、東京・文京区本郷。立派に今でも‘品川ナンバー’地域なのだ。

要するに、腕利きの修理工が携わった自動車は、中古車に出す際に高値で引き取って貰えたという訳だ。

今では、誰も知らない伝説ではあるが。

 

 

一方、日本の自動車メーカーはと謂うと、手をこまねくばかりでは無かった。

元々、数量を多く売ることは、日本の得意とするところだ。

そこで、諸外国の事情に合わせた仕様に、自動車を合わせて行ったのだ。

 

例えば、ロングドライブが多いアメリカ向けには、燃費の良い車種を投入した。

石畳が多い、イタリアやフランス向けには、サスペンションを柔らかく仕上げた。

英国を始め寒冷な国々には、燃料混合器(キャブレター)を自動で調整出来る仕様にしたりと謂った具合だ。

勿論、日本と反対の左ハンドル仕様は、輸出を始めた当初から設定されていた。

 

日本に対して、1980年代後半から言われ続けている、

 

「日本人は、車を買ってくれない」

 

とのアメリカメーカーに対して、日本のユーザーの

 

「デカいアメ車は、左ハンドルでは運転し難い」

 

との反論を逆手に取る様なものだ。

 

ただ実際には、左ハンドルの国(米・独・仏・伊)から、日本に合せた右ハンドル仕様が輸入される迄、

 

『左ハンドルで無いと、輸入車感が出ない』

 

と、謂った一部の考えが有ったのも事実だ。

その証拠に、ロールス・ロイスやジャガーと謂った英国車も、左ハンドル仕様(要するにアメリが仕様)の方が、日本では比率が高かったのだ。

 

もうこう為ると、日本人の売る側に立った時と、買う側に立った時の感覚の違いには、頭がこんがらがるものだ。

外国人なら、尚更だったことだろう。

 

 

先程も述べたが私は、テレビで自動車に関する番組が放映されると、欠かさず観る様にしている。

この処、御気に入りの自動車番組は、BS限定で放映されて居る、

 

『昭和の車といつまでも』

 

と、謂う番組だ。

番組の内容は、元号が昭和だった時代(1988年迄)から乗り・維持され続けられている車を探して歩くものだ。

ディレクターに依る取材は、結構難航する。それもそうだろう。40年近くも同じ自動車を維持することは大変だ。税金だって、経時に従い高く為るし。

 

担当ディレクターは、地域の自動車修理工場や、ビンテージカーを展示して居たりする中古車販売店で情報を探る。

然し、昭和から同じ自動車を乗り続けている人はそう簡単に見付からない。

取材範囲は、日本全国に広がっていく。

 

それでも、昭和から同じ自動車を乗り継いでいる人の出逢い・取材すると、決まって自動車に関する素敵なエピソードが出て来るから不思議だ。

何しろ、40年近く同じ自動車に乗って居る人は、間違い無く高齢者なのだ。

 

そんな高齢者から、昭和から乗り継いで来た自動車を前に、

 

『学生の頃、徹夜でバイトした御金を頭金にして手に入れた』

 

とか、

 

『今は亡き母親が、卒業祝いに買ってくれた』

 

とか、

オーナーの隣に立っていらっしゃる奥様を指差して、

 

『この子とドライブデートしたくて、必死にローンを組んだ』

 

とか。

兎に角、家族の歴史を綴る様なエピソードが出て来る。

 

古い自動車に関する話題だけでなく、人間ドラマも垣間見ることが出来る、素敵な番組でも有るのだ。

 

 

そんな『昭和の車といつまでも』が、年明けから取材範囲を沖縄に広げた。

BSの番組と謂うことは、沖縄でも視聴可能なのだから、今更感は否めないと思われることだろう。

然し私は、それにもまして期待感を薄めて仕舞っていた。

 

理由としては、沖縄の立地が有った。御存知の通り、沖縄は海に囲まれた小さな島だ。台風も多く通過するし、何より雨が多い地域だ。

多分、塗装が未だ弱かった昭和の車では、雨風が強く潮風に晒され易い沖縄の気候に堪えられないのではと考えたからだ。

 

案の定、昭和に登録されたオーナーカーは見付かったものの、錆び付いて居たり動かない個体ばかりだった。

 

『やっぱりなぁ』

 

そう感じた私は、諦めてテレビの前から立ち上がろうとした。

ところが、テレビに映し出されたテロップを観て思い直した。

画面には、

 

『次のコーナーは、昭和44年型セドリック』

 

と、表示されていた。

私は、

 

『もしかして!?』

 

と、期待したからだ。

 

 

歴史の授業で習ったと思うが沖縄は、1972(昭和47)年5月15日に日本へ施政権が返還された。

それ迄沖縄は、米軍統治だったので、自動車の通行方向はアメリカと同じ右側だった。

と謂うことは、昭和44年型セドリックは、もしかしたら左ハンドル車ではないかと考えたからだ。

 

因みに、沖縄県の通行方向は、アメリカ式が返還後も続き、本土と同じ自動車の左側通行と為ったのは、施政返還6年後の1978年の事だった。

 

 

長く感じたCMが明けテレビ画面には、立派な屋根付きガレージが映った。

私は、

 

『これだけ大切に保管されて居るなら、良い個体かも知れない』

 

と、期待した。

そして、ガレージの扉が開くとそこには、錆一つ出て居ない状態のセドリックが保管されていた。勿論、動かせる個体だ。

 

更には勿論、私が期待した様に、左ハンドル仕様の個体だった。

 

私は新年早々、嬉しくて仕方が無かった。

 

 

それ以上に、半世紀以上前からアメリカ式通行方向の沖縄へ、左ハンドル仕様の自動車をわざわざ出荷していたメーカーが、誇らしく為った。

 

いずれは返還(日本に)され、左側通行に変わって仕舞うのに。

 

 

この、一台でも多く買って頂こうとする気遣いこそが、現代に於ける日本自動車産業の隆盛の基だと思った。

 

 

これだから、日本の自動車は売れるのですよ!

 

 

《終わり》

 

 

〈著者プロフィール〉

山田THX将治(天狼院・新ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター)

1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役

幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余

映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を45年に亘り務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る

これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿

ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている

本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」

映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり

Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載

続けて、1970年の大阪万国博覧会の想い出を綴る『2025〈関西万博〉に伝えたい1970〈大阪万博〉』を連載

加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する

更に、“天狼院・解放区”制度の下、『天狼院・落語部』の発展形である『書店落語』席亭を務めている

天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46stSeason Champion

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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