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 【連載第44回】 《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「財布を開くまで、私は待てなかった」―“手伝うこと”で、男性から「客」を奪っていた私の話―


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

※個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。

 

誰かが困っていたら、すぐに手を貸す。それが支援者の仕事だと思っていました。しかも、早く助けるほど、よい支援になると疑っていませんでした。けれど、早すぎる親切は、ときにその人から「自分で選び、自分で払う」という役割まで奪います。レジの前で財布を開けられずにいた男性を待てなかった私に、彼は言いました。「先生、俺はもう、客じゃないのか」。その一言で、止まっていたのは彼の手ではなく、私の支援だったと気づいたのです。

——

「百八十円です」

店員の声に重なるように、レジが短く鳴りました。

Hさんは左手で財布を押さえ、ファスナーの金具をつまもうとしていました。右手は、脳梗塞の後遺症でほとんど動きません。左手だけで財布を開けようとすると、財布そのものがカウンターの上を逃げていきます。

もう一度、指をかける。金具が滑る。

後ろに並んだ人の買い物かごが、床に置かれる音がしました。店員は黙って待ってくれています。それでも私は、背中に集まる視線を勝手に想像していました。転ばせてはいけない。迷惑をかけてはいけない。早く終わらせなければ。

私は「手伝いますね」と言い、返事を待たずに財布を支えました。千円札を取り出して店員へ渡し、お釣りとレシートを受け取り、財布へ戻す。ほんの数十秒で会計は終わりました。

うまく支援できた。そう思っていました。

店を出るまでは。

Hさんは、買ったばかりの缶コーヒーを握ったまま、店の前で立ち止まりました。飲もうともせず、自動ドアが開いては閉じるのを見ていました。

「先生」

低い声でした。

「俺はもう、客じゃないのか」

意味をつかめず、私は聞き返しました。

「買うものはHさんが選んだでしょう」

「選んだだけだ。金を払って、釣りをもらって、それでやっと俺が買ったことになるんだろ。今のは、先生が買ったコーヒーを俺がもらっただけだ」

返す言葉がありませんでした。

私は、Hさんの会計を助けたのではありませんでした。会計そのものを、Hさんの手から持っていってしまったのです。

——

Hさんは六十八歳。八か月前に脳梗塞を発症し、右半身に麻痺が残りました。杖で近所を歩けるまでになり、その日の外出練習が、発症後初めてのコンビニでした。

以前は毎朝、散歩の途中でブラックコーヒーを一本買うのが習慣だったそうです。店員と天気の話をして、小銭が増えたと文句を言いながら財布を閉じる。家族にとっては「ついでの買い物」でも、Hさんにとっては、一日の始まりを自分で選ぶ時間でした。

けれど退院してから、財布は娘さんが管理するようになりました。転倒が心配だから。会計でもたつくと危ないから。必要なものは家族が買った方が早いから。どれも、Hさんを守るための判断でした。

娘さんに理由を尋ねると、「父には、もう失敗させたくないんです」と答えました。入院中、思うように動けずに落ち込む姿を何度も見てきたのです。Hさんも、その気持ちを知っていました。だから財布を返してほしいとは言わず、欲しいものを聞かれるたびに「別にない」と答えるようになっていました。守ろうとする娘さんと、心配を増やしたくないHさん。二人とも相手を思って、買い物から少しずつ遠ざかっていたのです。

私も同じでした。コンビニまでの距離、歩道の段差、店内での方向転換、疲労の程度。外出に必要なことを評価したつもりでいました。けれど、私の計画は店の入口で終わっていたのです。

歩いて店へ行けるかは考えた。そこで、ひとりの客として振る舞えるかは考えていなかった。

私は体の動きを見て、Hさんは暮らしを見ていました。

——

次の訪問で、私は謝りました。

「この前は、待たずに手を出してしまって、すみませんでした」

Hさんは、しばらく私の顔を見てから言いました。

「怒ってるわけじゃないよ。でも、できないと決めるのは、俺にやらせてからにしてくれ」

そこで今度は、会計という作業を一緒にほどきました。財布をどこへ入れるか。片手で開けやすいか。硬貨と紙幣のどちらが扱いやすいか。店が混みにくい時間はいつか。

そして、いちばん大切なことを尋ねました。

「どこまで自分でやって、どこを私に手伝ってほしいですか」

Hさんは少し考えました。

「袋は持ってくれ。金は、自分でやる」

二度目のコンビニは、昼前の空いている時間にしました。財布は、ファスナーのつまみに輪をつけた小さなものへ替えました。中には五百円玉を一枚だけ。練習ではなく、Hさん自身が選んだコーヒーを買うための五百円です。

レジで財布を開けた瞬間、その五百円玉が指から落ちました。硬貨は床を転がり、菓子棚の下で止まりました。

私の手が、反射的に動きかけました。

けれど今度は、止めました。

Hさんが私を見ました。

「悪い。あれは拾ってくれ」

私は硬貨を拾い、Hさんの左の手のひらへ戻しました。Hさんは自分で支払い皿へ置きました。店員から受け取ったお釣りを一枚ずつ財布へ入れ、レシートを半分に折る。時間はかかりましたが、後ろには誰も並んでいませんでした。

店を出ると、Hさんは缶のふたに指をかけました。けれど片手ではうまく起こせません。

「先生、これは開けてくれ」

私は「はい」と答えました。今度は、頼まれたところだけを手伝いました。

一口飲んだHさんは、顔をしかめました。

「前より高くなったのに、味は同じだな」

不満そうなのに、少しうれしそうでした。その声は、患者の感想ではなく、買い物を終えた客の文句に聞こえました。

もちろん、その一回ですべてが元に戻ったわけではありません。雨の日には「今日は娘に頼む」と言い、別の日には店の入口まで来て、疲れたから帰ると決めました。私は以前なら、それを失敗と記録していたかもしれません。でも、行くことも、やめることも、誰かに頼むことも、Hさんが選んだのなら、その日はHさんの暮らしです。再起動は、毎日同じように動けることではなく、自分で今日を選べることなのだと思います。

——

自立とは、何もかも一人でやることではありません。どこを自分で行い、どこで人の手を借りるかを、自分で選べることです。

支援する側は、危険を減らし、時間を短くし、失敗を防ごうとします。それは必要な仕事です。けれど、安全と効率だけを急ぐと、その人が失敗する権利や、頼み方を選ぶ権利まで、一緒に片づけてしまうことがあります。

待つことは、何もしないことではありません。転ばないかを見守り、助けを求める表情を読み、手を出せる距離にいながら、その人の番を奪わないこと。すぐ手を出すより、ずっと落ち着かない支援です。

 

【今週の再起動実験】手を出す前に、一度だけ尋ねる

家族や利用者が動作に手間取っているとき、安全が保てる場面なら、すぐ代わる前に「どこを手伝いましょうか」と一度だけ尋ねてみてください。答えを急かさず、少し待ちます。転倒、やけど、誤嚥など差し迫った危険があるときは、ためらわず安全を優先してください。

反対に、いつも助けてもらう側の人は、「ここは自分でやりたい」「ここだけお願いします」と、作業を分けて伝えてみてください。頼る場所を選ぶことも、自分の生活を取り戻す大切な動作です。

帰り道、Hさんは財布を自分の上着のポケットへしまい、買い物袋だけを私に渡しました。

「それは頼んだぞ」

私は袋を受け取り、隣を歩きました。

彼の財布に入ったのは、三百二十円のお釣りと、小さなレシートでした。けれど、あの日戻ったのはお金だけではありません。選ぶこと。払うこと。必要なところだけ人に頼ること。自分の暮らしを、自分の手に置いておく感覚でした。

そして私の手も、ようやく止まることを覚えました。

あなたの親切は今、誰かの番を、少しだけ先回りしていないでしょうか。

 

ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

 

 

 

 

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