スパイダーマンの告解《週刊READING LIFE Vol.373「効率化の先にあるもの」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:吉田 倫子(天狼院公認ライター)
夜11時。
お風呂に入ろうと洗面脱衣室の電気をつけた。その瞬間、視界のど真ん中で、何かが動いた。
クモだ。
長い足を優雅に八方にしならせた、大きなクモ。
「うわっ」
心の中で叫びながら、手にしたタオルを、
ペーン。
クモのわずか数センチ横の壁に振り下ろした。クモはバサリとも音をさせず、忍者のように洗濯機の隙間へ滑り落ちていった。
消えた。
目的を果たして、私はニヤリとした。
「スパイダーマンかと思ったわ」
このときは、ただの冗談だった。一仕事済ませて、ゆったりとした気持ちで、私は湯船に浸かった。
普段から、一センチ足らずの小さいクモなら家の中でたまに見かける。見つけても、そっとしておける。けれど、さすがに直径十センチはあろうかという巨体は、圧倒的な存在感があった。とはいえ、その姿の記憶も、温かいお湯の中に溶けて消えていった。
お風呂から上がり、髪を乾かし、ホッと一息。ベランダの鍵を閉めに行ったときだ。
サッシの上の壁に、見覚えのある姿。思わず心の中で、叫んだ。
「さっきのクモ!」
長い足を伸ばした、大きなクモ。どう見ても、どう考えても、さっきのクモと同じに見える。でも、クモに、
「さっきのやつですか?」
と聞くわけにもいかない。さすがに気味が悪かった。
「うわっ!」
今度こそ声が出そうになった。私はタオルを握り直した。
壁に向かって、
ぺんぺん。
クモ、少し動く。
ぺんぺん。
また動く。
ぺんぺん。
三度目で、ようやく窓の外へ追いやった。目の前にクモの輪郭は一切ない。ただ暗闇が広がっているだけだ。
けれど、その暗闇を見ながら、私は思った。どうやって、あのクモは、ここまで来たんだろう。
風呂場からベランダまで。
リビングを通り抜けて。
まるで、私を追ってきたみたいに。
ただ明るい場所へと移動してきただけなのか。
それとも――。
虫の影に「何か不吉な予兆」を見てしまうのには、理由があった。
自宅に不法侵入者が入る二日前のことだった。出窓のあたりを、大きな黒いハチがふわふわ飛んでいた。どうして、こんなところにいるんだろう。出窓には、こんな大きなハチが通れるほどの隙間はない。網戸も閉まっている。私は網戸を開け、ハチを外へ追い出した。ところが、しばらくすると、また飛んでいる。
「また?」
もう一度、外へ追い出した。
「変なの」
どうして、この部屋に入れたのか。一瞬、そんなことを考えた。でも、ハチに刺されたら病院へ行かないといけない。ゴキブリよりも、大きなクモよりも、ハチのほうが私には恐ろしい。とにかく、いなくなってくれたことにホッとした。
そして、その二日後。
わが家に不法侵入者が入った。警察を呼び、現場検証が行われた。そのとき、年配の女性警察官から厳しい口調で言われた。
「どうして窓を開けたまま寝るの!」
私は、ただ黙ってうつむいた。被害者なのに怒られている。そんなモヤモヤを感じながら、何も言えなかった。
そして、頭に浮かんだのが黒いハチだった。あれは、何だったのだろう。
今でも、ときどき思う。
あれは危険の予兆だったのではないか、と。
だから、大きなクモを見たときも、
「もしかして、また何か悪いことが起きるのでは?」
と、胸がざわついた。
チロチロ、ジジジ、リーンリーン。
ベランダのサッシ越しに、秋の虫の音が聞こえている。その音を聞きながら、ふと、昨日のことを思い出した。20年越しの愛車、赤い自転車が、とうとうおかしくなった。
自転車を倒してしまった拍子に、ペダルがぎこちなく、とんでもなく重くなってしまった。2か月前、前かごを修理してもらったときに、自転車屋さんに言われていた。
「もうペダルのあたりが引退させてくれって、悲鳴あげてますで」
これを機会に新調することにした。新しいものが届くまで、自転車を借りることになった。
「今度届くモデルと、ほとんど同じものです」
そう言われ、手渡された自転車は、軽くて乗り心地がよかった。今まで、えいこらせ、よっこらせ、と坂道を登っていたのが嘘みたいだった。
車体が軽い。
ペダルも軽い。
年齢が20歳ほど若返ったみたいに、坂道をすいすい登れる。
新しい自転車が届くのを楽しみにしていた私は、その自転車にすっかり気をよくしていた。
帰り道、その自転車で近所のスーパーへ行った。買い物を終え、駐輪場に戻る。鍵を開けて、帰る。颯爽と風を切って、帰る。ただ、それだけのはずだった。
後輪の鍵にキーを差し込む。
回す。
あれ?
回らない。
押し込む。
角度を変える。
もう一度回す。
少し深く入ったものの、入りきれていない。
回らない。
「なんで?」
右にひねっても、左にひねっても、鍵の方向を反対にしても、回らない。
少し力を込める。
ガチャガチャ。
開かない。
「どうなったの、これ!」
さっきまで普通に使えていたのに。私は動揺して、同じことを繰り返すばかりだった。
「自転車の鍵が壊れた」
それ以外の答えが、頭に浮かばなかった。10分ほど格闘して、とうとう自転車屋に電話した。
「レンタルした自転車の鍵が開かないんです」
すると、
「自転車、ほかのものと間違ってませんか?」
と言われた。
「はい。大丈夫です」
即答した。電話をしながら、自転車に黒い油性ペンで自転車屋の名前が書いてあることまで、頭の中に浮かんでいた。
「そうですか。では、そちらへ伺いますので、その場でお待ちください」
よかった。これで解決する。
そのときだった。
「ちょっと、あなた。それ、私の自転車」
後ろから、年配の女性が歩いてきた。野菜やら何やらをいっぱい詰め込んだレジ袋を持っている。
「えっ?」
「そっち。そっちに自転車屋さんの自転車あるよ」
見ると、すぐ横に、同じような色の自転車が涼しげに立っている。
女性はレジ袋を、私が鍵をねじ込もうと必死になっていた自転車のかごに入れた。そして、またスーパーの中へと戻っていった。どうやら私の惨状を見るに見かねて、途中で出てきてくれたらしい。
オーマイガー。
私は、他人の自転車の鍵を10分も必死になって開けようとしていた。もしも本当に鍵が開いていたら、壊れたのではなく、危うく壊したことになっていた。壊す手前で自転車屋に電話をしたのだけは、正解だった。
壊れていたのは鍵ではない。
私の認識だった。
お恥ずかしい。
「私、何やってんだ」
少し力が抜けて、心がゆるんだ。
自転車屋に急いで電話をかけ直した。
「うまく開きました」
「大丈夫そうですか?」
「はい」
さすがに、
「自転車を間違えていました」
とは言えなかった。
そして、ふと思った。
似たようなことを、誰かしていなかったか。
母だ。
母は90歳、一人暮らしをしている。私は週に二、三度、見守りに家を訪ねている。そのたびに母は、
「朝日新聞、いらないって何度断っても勝手に新聞を入れてくるのよ」
と訴えていた。
普段は聞き流している。でも、そのときは、なぜか親孝行心が働いた。高齢者だと甘く見られて、押し売りのようなことになっているのかと思った。母を助けなければ。そんな気持ちで、母が示した新聞屋の電話番号に電話をかけた。
「もう朝日新聞は要らないので、止めてもらいたいんですけど」
少し強い口調で言った。すると電話口の男性が、
「何度も何度も、しつこいですね。うちじゃないって言っているでしょう!」
逆ギレされた。
「あ、そうでしたか。わかりました」
私はすごすごと受話器を置いた。冷や汗が吹き出た。「頼りになる娘」を気取って息巻いた自分が、たまらなく恥ずかしい。親孝行のつもりが、ただの迷惑電話である。 母は自分の思い込みを疑わず、同じ不満を繰り返していたのだろう。そして私も、母の言葉を真に受けて相手を悪者だと決めつけていた。
「どうして自分の間違いを疑わないんだ」
そうやって母を冷ややかに見ていた私自身、自転車の前でまったく同じ愚行を犯していた。
恥ずかしさと気まずさに、私はため息まじりに苦笑するしかなかった。
鍵が開かない。だから、鍵が壊れた。
断っているのに届く。だから、勝手に配達されている。
そのときの私たちにとって、それ以外の可能性は存在しなかった。
私の誤解は、隣の自転車を見てあっさり解けた。
では、母の誤解は?
母が示した電話番号と、新聞の領収書の番号を見比べると、違っていた。もしかしたら、と思った。けれど、それ以上深掘りするのはやめた。しばらく、このままにしておくことにした。
チロチロ、ジジジ、リーンリーン。
目の前の暗闇と流れてくる虫の音の中で、大きなクモのことを思い出した。私は、あのクモを何かの「サイン」だと思った。黒いハチのことが、ずっと頭に残っていたからだ。
あれも予兆だったのではないか。
クモも、何かを知らせに来たのではないか。
けれど、これも同じではないか。
自分の中で答えを決めて、それに合うように世界を見る。
サインかもしれない。
ただの偶然かもしれない。
わからない。
だから、決めない。
少しだけ、わからないままにしておく。
いつもの就寝時間より、15分ほど遅くなってしまった。ベッドに体を横たえて、目をつぶる。
そうだ、ベランダの鍵をかけないと。
あやうく忘れるところだった。
起きて、隣の部屋へ行く。私はもう一度、ベランダの窓を見た。もちろん、クモはいない。
サッシを引く。
カチリ。
鍵が閉まる。
チロチロ、ジジジ、リーンリーン。
ベッドに戻る。窓の外では、虫の音が静かに鳴っている。
虫の音に耳を澄ましているうちに、さっきまで気になっていたクモのことも、虫の知らせのことも、いつの間にかどうでもよくなっていた。
虫の知らせを探すより、虫の音に耳を澄ませていたい。
そう思っているうちに、眠っていた。
今夜も、虫の音が聞こえている。
《終わり》
吉田 倫子(天狼院公認ライター)
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