「仕事したい」のも「仕事したくない」のも宗教上の理由なのでほっといてください《川代ノート》
記事:川代紗生(天狼院スタッフ)
このトピックについて書くかどうか、とても迷った。
なぜなら、天狼院書店は原則として「政治・宗教とは一切関わらない」とオープン当初から決めているからだ。Webの記事だろうとなんだろうと、そのルールに沿わない記事は掲載してこなかった。
私は一応ライティング・ゼミの講師とかも担当している。フィードバックをすることもある。その人間が原則を破るなんてことがあっていいのか。許されるのか!
と、思わないでもないが、あの、すみません、許してください。しょうがないのだ。もう我慢できないのだ。
ことの発端は、私の上司であり、ライティングの師匠でもある天狼院書店店主の三浦が言ったことだった。
「いやー、最近すごいびっくりしたことがあってさ」
「なんですか?」
「ツイッターでさ、『成長したければ徹底的に努力するしかない』みたいなツイートがあって、結構リツイートもいいね!もされてて。僕、いい意味で広まってるのかと思って、リプ欄を見たら、ひどいんだよ」
「ひどいって、どういうことですか?」
聞く限り、そのツイート内容に問題はないように思えた。自分の限界を突破したければ努力するしかない。うん。普通だ。普通だよね? 正論でしかない。
「すげー炎上しててさ。みんな『こういうやつがいるから社会はダメになるんだ!』みたいなこと書いてて」
え、まさか、と思った。信じられなくて、該当のツイートを見てみた。
三浦の言う通りだった。
もう、烈火のごとく、炎上しているのである。ここは戦場か? と思うくらい炎上しているのだ。リツイート数といいね!数を見たその瞬間に私の頭に浮かんだ「さすが〇〇さん! おっしゃるとおりですね(^^)」とか「やっぱり努力しないとだめですよね。。。」とかまして「本当にこれ。ポテンシャル以上を発揮したければ努力するしかない。」みたいな意識高い系のリプライなどは超少数派で、大多数の「こういう思考がブラック企業を生むんだよなぁ。本当やめてほしい」派によって埋めつくされていたのである!
「え……まじですか、これ?」
にわかには、信じられなかった。一体何がおこっているのだ。
「そういう時代だ、ってことだよ」
なにかを諦めたように、三浦は言った。
あまりの衝撃に、私はしばらく身動きが取れなかった。
そうか、そうか、そうか。
「努力をしなければならない」という、たったひとつのシンプルな論点ですら、炎上する時代になってしまったのか。
もちろん、大前提として、そのツイートをした人自身のアンチがもともと多かった、ということもあるだろう。前から嫌いで面白くないと思っていて、嫌いな奴が言っていることだから、叩いた。それだけのことかもしれない。
でも、それにしても。
この数十とついている、批判的なコメントはなんなんだ。
まるで、自分が間違っているのかと、一気に目の前が暗くなった。
けれども、こういう気分になったのは、これがはじめてじゃなかった。
一番よく覚えているのは、二年前に私がNHK Eテレのドキュメンタリー番組「人生デザインU-29」に出演したときだった。
二週間くらい撮りっぱなしだったので、取り繕う余裕なんかなく、30分番組で私のすっぴんも生活も働き方も何もかもべろっと明らかにされてしまった。
私の仕事風景といえば書店の片隅に座ってパソコンをカタカタやっているという全くテレビ映えしない映像ばかりだったのだが、ディレクターさんがうまいこと編集していい感じのストーリーにまとめてくれた。
と、ここまではいいのだが、問題はそのあとである。
私は承認欲求が強いので、放送のあと、当然のごとくSNSでエゴサをして番組の感想を調べていたのだが、目に付いたのはこの意見だったのだ。
「やりがい搾取されててかわいそう」
「こんな仕事ばっかで絶対幸せになれない」
もちろん、肯定的な意見の方が多かったのだが、「やりがい搾取」、あるいはそれに類する言葉が書かれているコメントも一定数、存在した。
私は、やりがい搾取されているのか。
それはおそらく、天狼院書店という企業で、がむしゃらに働いている、仕事のことばかり考えている私の働き方がおかしい、という意見だった。
たしかに、私は同世代の中だとかなり働いている方だと思う。
寝ても覚めても仕事のことばかり考えているし、次はあれをやろうとか、あ、あれができるようになるために頑張ってこのスキルをマスターしなきゃとか、常に仕事に紐付けて物事を考えている。
けれどもそれは、私が好きでやっていることであって、自分で選んだ結果だから、やりがい搾取も何も。ブラック企業も何も。と、思っていたのに。
そう、二年前から、私がやっていることに対して、私の働き方に対して、意見されることが増えた。
否定的なことを言われることが増えたように思う。
ちらっと仕事のことを話すと「そんなに大変ならやめなよ」と言われることが多いし、そうでなくとも、「いい職場だね!」と言われることはあまりない。
まあ、私の相談の仕方とかもあると思うけれど、なんだかなぁ、と思うのだ。
そして、今回の件。
「努力」に対する否定的な意見。
なんだか、悲しくなってしまった。
「努力をする」ということが、否定的にとられる時代がきたのか。
根性論だとか精神論だとか言われ、がむしゃらに頑張るという生き方は害であり、そういうやつがいるから世の中がダメになるのだと、言われる時代がきたのか。
いや、たしかに、生産性を上げて休むときは休み、働くときは働く。効率よくやろうという意見はわかるし、そうするべきだと私も思う。
けれども、「好きで」働いていることに対して、なぜ、「おかしい」と言われなければならないのか。
なぜ、「成功するには、他人を凌駕するくらい努力するしかない」というツイートが炎上して、「『好きなときに休んでいいよ』と言ってくれた優しい上司」のツイートに、何万個ものハートがついているのか。
そしてなぜ、私は自分の働き方が認めてもらえていない事実に、ここまで憤りを感じているのか。
私は仕事が好きで、努力は別に好きじゃないけど、上に行くためには絶対的にやらなければならないことだと思っているし、とりあえず限界まで行ってみたいと思っている。
何度も言うようだが、これは「好きで」やっていることだ。
そして、当の「努力が必要」というツイートも、別に誰かをバッシングした結果ではなく、ただの「個人の意見」である。
私の上司の三浦が休まずに働いているのも好きでやっていることだし、「楽しい」と思っているからやっていることだ。
なのになぜ、「働き方」ひとつでここまで……。
ここまで考えて、私は思った。
これは、わかりあおうとして、わかりあえる問題ではないのかもしれない。
「働きたい派」と「働きたくない派」の間には大きな溝があって、これはもはや「宗教の違い」のようなものと考えるしか、ないのかもしれない。
「働きたい派」の私は働くことこそ正義だと思っているし、働いて成果を出せなかったり必要とされることがないと退屈で我慢できないタイプだ。とにかく動いていないとそわそわするし、「何かに向かって頑張っている自分」が好きなのだ。
でも、だからといって、「働きたい派」の私が、「働きたくない派」をバッシングする資格はどこにもない。
「働きたくない派」の人を無理やり「働きたい派」に転換させようとしたら、それこそブラック企業のやることだと思うし、「やめてくれ〜」と泣き叫ぶ仏教徒に無理やり十字架を握らせて「キリスト教徒になれ!」と強要とするようなものだ。
逆に、私がやけにモヤモヤしてしまっていたのも、「働きたい教」超原理主義者なのに、「働きたくない教」に入りなよ!! と強く勧誘された気がしたからなのだ。
宗教上の違いというのは、大きい。とても大きな壁がある。
つまり、そのツイートのリプ欄で起こっていたのは、いわば宗教戦争だったのだ。
おそらく、ツイッターという村では「働きたくない教」の人の方が多数派で、その村の中に「働きたい教」過激派信者の人が爆弾をぶち込んできたもんだから、それを鎮圧するために大荒れ、村が血の海になったのだろう。
だから、Facebook村とか、「働きたい教信者」が多いエリアで発言したら、もしかしたらここまで荒れなかったかもしれない。
「働き方」というのは、一度固まってしまったら、なかなか変えられないものである。
イコール「生き方」にも関わってくるからだ。自分の生き様を左右することにもなりうるからだ。
だからそもそも、人の働き方に首を突っ込むべきじゃないのである。働きたい人は勝手に働かせておけばいいし、働きたくない人は勝手に休ませておけばいいのだ。
どっちでもいいのだ。生き方なんて。
休んでもいい。
会社が合わなかったら3ヶ月で辞めてもいい。
怖い上司から逃げてもいい。
パワハラと言われようと頑張り続けてもいい。
サービス残業をしてもいい。
休み返上で出勤してもいい。
何も美徳じゃないし、何も正解じゃない。
絶対的な正義などどこにも存在しない。
勝手なのだ。
その人の自由なのだ。何を選ぼうと。
重要なのは、自分は「何教」に所属しているのかをちゃんと理解して、偽らないことだ。
たとえば、実は根っからの「働きたい教」信者なのに、「働く女は可愛くない」「結婚する方が幸せ」という常識に影響されて、「私は『働きたくない教』信者だから、大丈夫……」と自分に言い聞かせる人がいる。
好きな人に合わせて自分の宗派を変えようと無理をして、結局追い詰められて自分が苦しくなったりする。
逆に、「働きたくない教」信者なのに、「クリエイティブな仕事がしたい!」とクリエイターの世界に飛び込んで、圧倒的な努力が必要とされる現実に打ちのめされ、苦しくなってしまう人もいる。
問題が起きるのは大抵、自分が信仰している宗教とは真逆の宗教を信じる人たちがたくさん住んでいる組織に入ってしまう場合だ。
就活のときに見るべきなのは「自分が入ろうとしているこの村は、私の信仰とはマッチしているかしら」というところだと思う。
自分が何教を信じているのかははっきりと見定める必要があって、他人に積極的に知らせる必要はないけれども、自分だけは、自分に嘘をついてはならない。
自分が何を信じているのかを理解してさえいれば、ぶれることなく、生き続けることができるのだと思う。
だから、他人と分かり合えなかったら、いい意味で、諦めるしかないのだ。
その人には、その人の生き方がある。
自分には、自分の生き方がある。
何をしようと、自分の勝手であり、他人の勝手である。
何を信じ、何を正義とし、何を悪とし、何を美徳とするのかは、自由に選んでいいのだ。
だって、宗教上の理由なんだから。
だから、私も心配されることもあったりするけど、次にもし言われる機会があったら、こう言おうと思う。
「あ、大丈夫です。仕事したいのは宗教上の理由なので、ほっといてください。あなたのことも、ほっときますから」
「相手のため」とお為ごかしばかり言って自分の宗派に引きずり込もうとするのではなく、干渉しすぎず放っておくことこそが、本当の優しさであり、「多様性」というやつではないかと、私は思っている。
❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。
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