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週刊READING LIFE Vol.26

「理系」と「IBM」という転機《週刊READING LIFE Vol.26「TURNING POINT〜人生の転機〜」》


記事:小倉 秀子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「イソムラはもちろん、理系コースに進むんだよな!」
 
15歳、中学3年生だった私に向かって、当時通っていた学習塾の塾長が言った言葉です。
 
え? 私が理系??
全くそんなことを考えていませんでした。
 
私の通っていた中高一貫校では、高1から理系コースか文系コースかを選択し、それぞれに特化した授業を受けるしくみになっていました。
私は英語が好きだから、文系コースに行って英語を頑張ろうと思っていました。
そんな私の思惑をよそに、小5の冬からお世話になっていて、私の中学受験を合格に導いてくれて、中学受験が終わっても通い続けるほど全幅の信頼を寄せていた塾のカリスマ塾長から、このように言われてしまったのです。
 
でも今思えば、理系の道に進むことをすすめてくれた塾長のこの言葉が、人生の好い転機になったとつくづく実感しています。
 
塾長のひと言で私はその後、高等部の理系コースに進みました。
高校の3年間は学校生活を楽しむというよりは、大学受験の事が頭のほとんどを占めているような心理状態でした。多分子供の頃から、もっと先へ行きたい、もっと楽しい人生にしていきたいという願望が強かったので、高校生活は私にとって頑張らなければいけない時期と捉えていたのかもしれません。
 
理系科目の勉強は、目も当てられないほど悲惨な成績だった物理を除けば、概ね志望校に通用するものでした。
化学と英語は元々得意科目だった。
数学は、今となっては何をやっていたかもさっぱり覚えていないけれど(笑)、機械的に手を動かし記述しまくると部分点がもらえ、それで平均点には達するという状態。
物理だけは、「あなたは本当にこれで受験するんですか?」っていうくらいに毎回ひどい点数でした。
それが最後までひびいて、入学を切望していた大学にはついにご縁がなかったけれど、英語、数学、化学で受験できる理系大学に合格して進学する事ができました。
 
もし第一志望だった大学に合格していたら、ここで花開いて謳歌してしまっていたかも知れません。でも幸か不幸かそうではなかった。
進学した大学は勉強も大変で、テニスサークルにも入ってそれなりに充実した大学生活を送ったけれど、私にはまだ先があるという思いを捨てていませんでした。
応用化学科という学科で学んだけれど、就職活動の段階になって、私の希望は化学メーカーに就職して研究することではないとはっきり悟りました。これも幸か不幸か、学校推薦で就職できる程成績も良くなかったので、自ら応募して就職試験を受けると最初から決めていました。
だから化学系にとどまらず、私が本当にやりたいこと、就職したい会社を一から考える事ができたのです。
 
でも、就職したい会社について一から考える機会がありながら、じっくり考えたり調べたりせず、私の選択はほぼ瞬時に直感で決まってしまいました。
 
大学での4年間、一回も思い出した事がなかったのに、就職活動の時期になってふと、ある映像が私の脳裏に蘇りました。
 
中学と高校の6年間通い続けた六本木に、当時ただひとつそびえ立っていた高層のビル。私は事あるごとにその高層ビルを校舎の窓から眺め、
 
「この辺りであのビルだけが高層だけれど、中には何が入っているのかな」
「あの窓の数だけ部屋があるのかな? 中で何をやっているんだろう。のぞいてみたいな」
 
高層ビルには、窓の数だけ部屋があると考えていた天然の私は、結構本気で、ビルの中身を見てみたいと6年間考え続けていました。
 
その高層ビルの上部に掲げられていたのは「IBM」(以下I社)のロゴ。今はどのように認識されているのか分かりませんが、当時は「NTT」「JAL」「サントリー」等、国内の大手企業と同じくらいに知名度があり、就職したいランキングでも上位に入っていた外資系のIT企業です。
中高時代の思い出と、海外に憧れていた私にとって、就職を目指すには申し分のない、いや、実力以上の企業でした。
 
私はあまり器用な方ではなく、同時に色々なことをこなす事が出来ないので、他社には関心が向けられずI社一択の就職活動となりました。とても危険な賭けだったけれど、それほど全精力をI社に注いでいました。
 
I社の就職活動は、とても長くて厳しいものでした。
とにかく長い期間焦らしに焦らされました。
 
「人事担当者に、好印象を持たれていないかも?」
「なかなか連絡がこないけれど、私を試しているのだろうか?」
 
面接を受けるまでにも相当な月日が流れていた気がします。
物事が先に進まない焦り、
そもそもI社の人事担当者は私をどうしようと思っているのかという不安、
私の就職は本当に決まるのか、というもっと大きな不安。
色々なネガティブな気持ちが混ざり合って、相当ストレスフルな環境に身をおいた数ヶ月間。
その中で、試験を受ける前にほかの道に進むことを決めたり、他社を受けることにして、I社をあきらめた大学の仲間もいました。
そんな中でも、私の「必ず面接を受けるのだ」という気持ちは揺るぎませんでした。数ヶ月もの間随分と焦らされたけれど、それでも他社を受ける気になれませんでした。
実際、同じIT業界の他企業を1社だけ受けてみたけれど、見事に落ちました。それ以降は身も心もI社一択、背水の陣で人事担当者にアピールしました。
 
そしてやっと訪れた面接のチャンス。
何を聞かれたのかはさすがにもう覚えていないけれど、卒論のテーマである、希土類元素(今でいうレアアース)についての研究のことを、図解しながら一生懸命説明したのだけはよく覚えています。
 
その面接の結果も、なかなか連絡が来ませんでした。
とことん焦らされたのです。
数週間があっという間に過ぎていきました。
それは面接を受けた大学の仲間たちも同様だったようで、
 
「連絡来た?」
「来ない」
「まだかね」
「緊張するね」
 
などと、皆で気を揉んでいました。
 
そんな時、ついに人事担当者から連絡が来ました!
その結果は……
 
「もう一度面接を受けに来てください」
 
は!?!
面接は一回でしょう?
一回で採用か不採用か決まるはずだったでしょう??
 
「あなたを入社させてもいいかどうか決定打に欠けるから、もう一度面接を受けに来てください」
 
もちろんはっきりとそんなことは言われなかったけれど、そう言うニュアンスを含んだ二次面接のご案内のように思えてなりませんでした。
 
次が最後、これで全てが決まってしまう。
今まさに崖っぷち!
でも、絶対に絶対に突破する!!
 
アドレナリンが大量に放出された状態で、人生で1、2を争うくらいに緊張して、2回目の、正真正銘の「崖っぷち面接」を受けました。
終わった後、涙がドバーッと溢れるのを抑えることができませんでした。
 
ああ、終わった。
もうチャンスを使い切ったよ。
これで決まっちゃう。
 
こうして、これからの私の人生を決める、I社就職への闘いがやっと終わりました。
 
自信なんて全くなかったのだけれど、
でもなぜか、
帰り道を歩いていて、この道を歩くのは今日が最後じゃない気がしてなりませんでした。
 
それから一週間ほどして、人事担当者の方から連絡をいただきました。
 
「是非我が社で一緒に……」
 
確か、こんな出だしだったような気がします。
でもそう言われる前に、電話に出たときの挨拶のニュアンスで、「受かったんだ」と分かりました。
 
今までの塩対応、上から目線、焦らす感じ、そう言ったものとは打って変わって、迎え入れてくれるような温かさを感じる挨拶を返してくれたからです。
 
電話を置いて、胸が熱くなりました。
本当に採用された。
本当にこれからI社の社員だ!
 
どんな世界が待ち受けているだろう。
どんな人たちと出逢うのだろう。
私はどんな風になって行くのだろう。
 
これほど希望に満たされた思いを、これまでにしたことがありませんでした。
 
そしてめでたく大学を卒業して、I社の社員となりました。
その後、今でも忘れられない、数々の経験をさせていただきました。
 
入社してからは、就職活動の時よりもさらに厳しい状況に何度も直面しました。就職活動であれほど精神的に追いつめられた理由が、入社してからよく分かりました。
逆境でも諦めずに最後まで戦い抜けるかどうか、長く厳しい就職活動で、そこを試されていたのではないかと今では思っています。
 
仕事は正直言って、願えば叶うなんていう甘いものではありませんでした。
常に自分の持てる実力の一歩も二歩も、いやかなり上の成果を求められ、立ち止まってはいられませんでした。今年のコミットメント(誓約、責任を伴う約束)を達成すれば、来年はさらに高いコミットメントを宣言し、その成果で評価が決まり、給料が決まり、職位が決まっていきました。毎年その繰り返しでした。
でもこの環境で15年鍛えられたからこそ、立ち止まることが許されなかったからこそ、今でも成長し続けたいと願う私がいるのです。
 
明らかに実力のさらに上の責務を任され、役不足、実力不足の事実を突きつけられながらも、お客様、先輩、後輩、協力会社の方々に助けられながら幾つものゴールを踏んで来ました。
周囲に会社にたくさん迷惑をかけて来てしまったけれど、最後まで走り抜きました。
そうしてチームワークで何かを成し遂げる達成感、お客様から感謝される喜び、本質を追求する思考など、かけがえのない財産をいただきました。
もちろん、中高生の頃からの念願だった、六本木の高層ビル(当時の本社でした)の中身も見ることができました! そうして、窓の数だけ部屋があったわけではなく、オフィスというひとつの大きな部屋に、窓がいくつもついていたのだと知りました(笑)。
 
人にも本当に恵まれました。尊敬できる人にたくさん出逢いました。
同じプロジェクトに参画し、身近でその仕事ぶりを見て多くのことを学びました。その経験、その時に得たものが、私の一生ものの財産となっていることは言うまでもありません。
 
同期入社の仲間も、快活で、一緒にいて本当に本当に楽しい人たちです。飲み会をしたのは当然で、旅行もしたし、互いの家を行き来もしたし、転勤になってしまった同期のところへ皆で遊びにも行きました。あんまり詳しいことは話せないけれど、ずいぶん羽目を外したこともありました(笑)。
 
私がI社を辞めて10年経ちますが、いまだに毎年の同期忘年会に参加させてもらっています。今でも仲が良いのです。
そして今なお刺激をもらっています。
引き続きI社で活躍している人もいれば、退職し新たな道で第一線を走っている同期も多数います。彼らの活躍を直接目にしたり、SNSを通じて知ったりするけれど、普段は普通に屈託の無い人なのに、本当に優秀なんだなとため息が出てしまいます。どの人も、自分の人生と真摯に向き合い、成長を続ける人ばかり。それを見て、私も負けていられないと新たな活力をもらっているのです。
 
私の人生の転機。それは塾長の思いがけない一言が最初でした。
そして私の最大の転機。それはI社に入社し、人生の飛躍の場を得たこと。
そして私の最大の幸福。それはI社で私の生き方を決定づけられ、この考え方生き方に心から納得してこの先生きていけること。
 
この先にも転機があるかもしれません。あって欲しいと願っています。いや、必ず転機にしなければ。
 
「天狼院書店で、書くことを始めた」と言う転機。
 
この転機に、私は理系から文系になろうと思っています。
いや、数学や物理が好きでは無かったし、得意でもなかったあたりからすると、塾長には大変申し訳ないけれど、もしかしたら根は文系人間だったかもしれません。
 
理系は私の人生を飛躍させてくれました。
けれど、この先は文系人間になって、私自身の感情や思考とゆっくりじっくり向き合い、悔いのない納得できる生き方を追求していきたいとおもっています。そして人の心についても思いを馳せ、寄り添える優しさ柔軟さを兼ね備えた女性になりたい。
 
天狼院書店に通うみなさんのように本に親しみ、そして自らの想いを文章で自在に綴れるくらいになりたい。どこに出してもおかしく無いくらいの圧倒的な文章で社会の役に立ちたい。
写真でだって想いを表現したいし、しばらく作れないでいるアクセサリーだって、まだまだこの世にただひとつのものを生み出し、届けたいと思っているのです。
残り半分の人生は、これらの文系のものたちに囲まれて過ごしたい。これらを追求することで私と私の周りの人たちの心を満たし、社会に貢献していきたい。そう願っています。

 
 

❏ライタープロフィール
小倉 秀子(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)
東京都生まれ。東京理科大学卒。外資系IT企業で15年間勤務した後、二人目の育児を機に退職。
2014年7月、自らデザイン・製作したアクセサリーのブランドを立ち上げる。2017年8月よりイベントカメラマンとしても活動中。
現在は天狼院書店で、撮って書けるライターを目指して修行中。
2018年11月、天狼院フォトグランプリ準優勝。

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2019-04-01 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.26

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