欲しいのは、シナリオじゃなかった《週刊READIG LIFE Vol.82 人生のシナリオ》
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
もうすぐ三歳になる息子を産んだ時、どこかほっとしている自分がいた。
五体満足に産むことができた安堵感ももちろんあると思うが、もっと概念的なものだ。子供が生まれることで、私には「母」というステータスが追加されることになった。今までも娘であり、妻であり、アルバイトだったり会社員だったりいろいろなステータスを持っていたが、「母」というのはその中でもとりわけ強い輝きを放っているような気がした。生まれたての、まだ母乳も上手く飲めないようなほにゃほにゃの息子。私はこの子の母。それだけで、どこで何をするべきなのか、生活のほぼすべてが決定される。そのことが私をとても安心させていたのだ。
私は母だから、息子の安全と健康を保証する。
そのために、仕事をセーブして、生活様式を変えて、苦手な家事も頑張る。現代的な感覚で言えば、すべて母親が担うというわけでもないのかもしれないが、とにかく私は、私を必要とするステータスを手に入れたことに、とても安堵していた。
ステータス。あるいは職業、肩書とでも言えばいいだろうか。就職してから、いや、もっと前の大学を選ぶ時から、いつもどこかで自分のステータスについて疑問を抱いていた。大学の学部を選ぶ時、学びたいものが特になくて学部を選ぶことができなかった。いや、かといって何にも関心がないわけではない。学部案内を見ればどれもとても興味深く、やってみたいなと思う。だが琴線に響く数が多すぎて、どれが自分に一番合っているのか、決め手に欠けてしまうのだ。同級生がどこそこ大学の何とか学部、と明確に志望校を口にしているのを聞いて、どうしてはっきりそこだと決められるのかが不思議でならなかった。結局、受験の時点ではなく、入学後の二年次に専攻を決める学部を選んで進学したが、二年次も同じようなことで悩む羽目になった。
就職活動の時も同じだったが、この時だけは割とうまく行った。大学の先輩が、私にはブライダル系が合っているのではないかとコメントをくださり、運よくブライダル系某社に内定することができたのだ。私にはきっと合ってる、とても楽しそう。期待に胸を膨らませて入社したが、そんなふわふわした気持ちでは、結婚式という高額商品を取り扱う現場ではとても使い物にはならなかった。成績は振るわず体調を崩しかけた頃、管理部に異動となりブライダルとは関係のない仕事をする日々が始まった。ブライダルがやりたくて入った会社だけれど、今の私は全然関係ない仕事をしている。インセンティブも残業手当もつかなくなり、手取り給与が目に見えて減った。
私、何のためにここで働いているんだろう。
現場のみんなの助けになればいいけれど。人手が足りないから、やめたら迷惑になるかな。管理の仕事、大切なことだと思うけど、私がやらないといけないことなのかな……。現状を打破したくて、いろいろなことをした。自己啓発本を読み漁ったり、転職サイトに登録しまくったり、占いにハマったり、社会人大学院に行ったり。そのうちの一つ、起業家セミナーに顔を出してみたら、今の夫に出会った。仕事が楽しくない話をすると、起業したばかりの会社を手伝ってくれ、と言われ、なし崩し的にダブルワークが始まった。本業と内緒の副業。同時期に通っていた社会人大学院の課題。寝る暇もない日々とはこのことかと、すべての締切を守ることに必死だった。
そうやって忙しくしていると、何かステータスを得たような気持になって、漠然とした不安が払拭されるような気がした。友人たちは皆、楽しそうに仕事をしているように見える。着実に実力をつけて、専門性も深めて、キャリアと言えるものを築いている。学生のころと同じように彼らと並んだとき、管理部の仕事内容を話すのが嫌だった。私は管理部がやりたくてこの会社に入社したわけではない、この現状に満足しているわけではない。その証拠に、本業以外にもこんなにいろいろなことをしているよ……。
私、どこかで間違えたんだろうか。
もっと先のことを見据えて、シナリオを組み立てなければいけなかったんだろうか。
そもそもやりたいことって何だったのだろう。ブライダルを選んだのが不正解だったのだろうか。大学の学部の選択を間違えたのだろうか。いや、もっと前、歌が好きだった頃、吹奏楽部じゃなくて合唱部に入るべきだったか。普通科の高校ではなく、音楽高校や音大を目指してもよかったのではないか。物書きをしたかったなら、ずっと書き続けられる環境のことを考えるべきだったんじゃないか。新聞記者や雑誌記者という選択肢もあった。こうして振り返ると、選ぶことを迷ってばかりいた結果が今なのだとよく分かる。何かを選ぶことは、選ばなかったものを切り捨てることに他ならない。すべて切り捨てるのを怖がった結果、何も選ぶことが出来ずに中途半端になってしまった。
でも、今、私は「母」になったのだ。
子供の安全と健康を守るために、たくさんの選択をしなければならない。子供の成長はとても早く、すべての可能性を吟味するまでなどとても待ってはくれない。一瞬の選択をして、何かを切り捨てることになっても、それは私が「母」を全うするためだ。だから、専門性がなくても、仕事にやりがいを見出してなくても、私は母だからそれでいいんだ……。
「…………」
そんなことを考えながら、小さなベビーボックスの中で眠る息子の寝顔を眺める。この子の為なら何でもできると思って、母というステータスを喜んでいる私。でもこの子はいずれ大きくなって、私の許から巣立っていくのだ。その時、私が母であることだけを誇りに思っていたら、彼が巣立った後はもぬけの殻になってしまう。いわゆる空の巣症候群というやつだ。でも、どんなシナリオを描けばいいんだろう? ワーキングマザーとして頑張るのか。何か趣味を見出すのか。また、何を選び、何を切り捨てればいいのか分からない選択肢に悩まされないといけないのか……。
「……シナリオじゃない」
何年後にどうなっているか、を考えるから苦しいんだ。あの時こうしていれば、と思っているのは、好きなことを選ばなかったから後悔しているんだ。プロの音楽家になれるか分からなくても、音楽をもっと続けて見たかった。小説が書くのが好きで、世界史の授業も楽しかったから、史学専攻でリアリティのある歴史小説に挑戦してもよかった。就職先を、アドバイスだけではなく、もっと業界研究してみればよかった。面白そうな求人を見つけた時、勇気を出して応募してみればよかった……。全部全部、好きなことを選びきれなかった後悔ばかりじゃないか。先を見据えるのではなく、その時自分が好きなものをもっと深めるためにも選んだって構わないのだ。必要だったのは、先を見据えたシナリオではなく、私は何が好きか、ということだ。
それは私という人間の仕様書のようなものだ。
私は、母になった。母であるステータスを保つための制限は多い。でも、母でありつつも、好きなことを続ける道はある筈だ。私が好きで、今この環境でもすぐに始められること。書くことが好きだから、ライターなんてどうだろう……。
こうして、私はライティング・ゼミの門戸を叩くことになったのだった。
□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター
1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」を連載。
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