学ぶよろこびは黒糖アメのように《週刊READING LIFE Vol,86 大人の教養》
記事:緒方愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「これからどうしよう」
電気を貸した薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から差し込む光からも隠れるように、私は部屋の隅で膝を抱えていた。外は、冬。日中だと言うのに薄暗い。その鉛色の空よりも、私の心は真っ暗で、途方にくれていた。短期大学に通いながら自力で学費を貯め、専門学校に入学し、主席ではないが卒業時に特別賞をいただいて卒業した。学生課の先生のご尽力により、何とかつかんだ夢の職業。
だが、それは夢でしかなかったのだ。
現実は過酷で、苦い。
私が求めたことと持っている能力、そして現場が求めたことには大きな差があった。
医療系のその職場は、一分一秒の判断が重要。命の現場は、一つのミスも許されない。毎日緊張状態が続いた。
お客様である患者さんも色々な方がいる。やさしい方もいれば、そうでない方も。
目を覆いたくなるようなつらい現実を見ることもあった。
2年も満たず、私は退職をせざるおえなくなった。
身体は悲鳴を上げていたのに、私は無視し続けていた。主治医から何度も諭され、やっと私は仕事にしがみついていた手を離した。
私の中の大きな物が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
同級生と遊ぶことを我慢して、アルバイトで週末、夏休みなどの長期休暇をほぼ費やしたのに。
あんなに懸命に勉強したのに。
就職が決まった時、みんながあんなによろこんで、応援してくれたのに。
その数年を、みんなの期待を、私は白紙にしてしまった。自分の手で破り捨ててしまった。
夢も希望も失って、ただの空っぽの私だけが残った。
絶望の次にきたのは、虚無だった。
その時、私は24歳だった。
20代後半といえば、女性の人生設計で重要な分岐点にある時期のように思う。同級生の結婚ラッシュ、親戚だけでなく親しくない方からも色々な圧力を受け、がんじがらめになるお年頃。
女性は、世の中の決めた、何かしらのカテゴリーにハマっていなければならないのだ。私もそうでなければいけないと思いこんでいた。
だというのに、私は、無職、未婚、彼氏なし。ないないづくしだ。
主治医からは、しばらく身体を休めてゆっくりするようにと言われてしまったし。
一体、今の私に何ができるのだろうと、薄暗い部屋でうずくまっていた。
「しばらく家で、ゆっくり休むんでしょう? 何か本でも貸そうか?」
事情を知った従姉が、読書好きの私に本をたくさん貸してくれた。毎日少しずつ味わうように読み進める。少しずつ、活力が戻って来た気がした。
本の中には、こんなにたくさんの楽しいこと、興味深いことが溢れているのに。私は、ただぼんやりと一日を浪費するだけでいいのだろうか?
友人たちは、人生の新しいステージに進んでいるのに。どうにかして、このポッカリ空いてしまった、身体の空洞を埋めることはできないだろうか?
何か、実用があって、経験値になることをはじめたい。そう思えるようになって来た。
ふと、手に持った本に視線を落とす。それは、借りた本の中で、一番読み返した本だった。
『Axis Powers ヘタリア』。
未完の漫画のシリーズ。実在する国々の、国民の特性や風土、歴史を踏まえたキャラクターが登場する、国の擬人化漫画だった。私は、その中の「プロイセン」というキャラクターが一番気に入っていた。調べてみると、「プロイセン」は、今のドイツの前身にあたり、日本とも縁が深い国だという。
「ドイツかぁ。確かに、医術用語はドイツ語由来だよね」
学生の時、WEBサイトからドイツのフリーの専門書を大量にダウンロードして、夢中で読んでいたことも思い出す。
「私って、もしかしてドイツに昔から興味があったのかもしれないな。ドイツ語、勉強したらおもしろいかな?」
語学なら、年数を重ねれば重ねるほど上達するであろうし、長く、いや永遠に楽しめるコンテンツかもしれない。そう考えると、とても魅力的に思えてきた。
だが、ここで、冷静な私が余計なことを言う。
英語ならまだしも、ドイツ語って、勉強する意味あるの?
もっと他にすることがあるんじゃない?
医療の現場も離れて。ドイツに行く予定も、周りにドイツ人もいないのに。
無駄なんじゃないの?
そうかもしれない。
私は、仰向けに寝転がって、目をつむった。
また、私は無駄なことを繰り返してしまうのかも。そう思うと急に怖くなってきてしまった。いつの間にか、私はとんでもなく臆病になってしまっていた。
でも、そんな自分を変えたい。また、何か打ち込めることを見つけて、自信を取り戻したかった。
「どうしたらいいんだろう?」
寝転がった先、本棚に並ぶ本の背表紙を眺める。私は物持ちが良いので、学生時代の本も大方捨てずに残している。短期大学時代の本が目に入り、取り出す。ある女性の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。
「こんな時、Sさんなら、迷わず飛び込んだのかな?」
「Sといいます。みなさんのお母さん、もしかしたら私の方がもっと歳かもしれませんけど。どうぞ、よろしくお願いしますね」
短期大学の授業が始まり、自己紹介の時間、私や同級生たちは目を丸くした。自己紹介をした女性、Sさんは物腰のやわらかい年配の女性だった。10代、20代の女生徒ばかりの学校で、彼女は浮いて見えた。
私の学校は、社会人の方も積極的に受け入れていた。てっきり、夜間の単発の授業を受講するものとばかり思っていたが、彼女は私たちと一緒に朝から晩まで授業を受けていた。
「ごめんなさいね、先程先生がおっしゃつていたこと、板書できなかったの。教えてくれる?」
「あ、はい、ここはですね」
Sさんは、熱心な生徒だった。私と友人は、視力が弱く前列の方によく座っていた。彼女は、熱意があって前列、私たちの近くの席にいつも腰を掛けていた。なので、自然と声を掛けられる頻度も多かった。仲良し、とまではいかなかったけれど。
「ありがとう! とても助かったわ。これよかったら」
にこにこと笑いながら、彼女が私にそっと手渡す。それは、黒糖アメ。話をした後、彼女がくれるお決まりのおやつだった。
「あ、ありがとうございます」
私は、ぎこちない笑顔で笑い、カバンの中にしまう。そして、食べるのを忘れて溶かしてしまうのだった。その当時、私は黒糖アメを好んで食べることはなかったので、正直持て余していたのだ。濃厚で甘いそのアメの良さは、私にはわからなかった。
「Sさんって、何で今になって、学校に通ってるんだろうね?」
友人の言葉に私は首を傾げる。
「何でだろう。よほど時間とお金に余裕でもあるのかね?」
気にはなりつつも、本人に聞くことはなかった。
ある時、言語の授業の時間。自分のヒストリーをエッセイ調にまとめる課題が出た。できたものを次回、授業の時間にみんなの前で発表することになった。
みんな思い思いに発表をした。自分の名前の由来、A型気質の自分の話や家族のこと。私は、子ども時代のけがばかりしていた頃の話を面白おかしく話た。Sさんの順番になった。彼女が教壇の前に立つ。
「私の家は裕福な家庭ではありませんでした」
その一言に、教室内の空気が変わる。騒がしくしていたわけではなかったが、みんなSさんの言葉に、一気に集中していることがわかった。Sさんが静かに語る。
「父は、重い病気を患っていて、働きに出ることは叶わず、家でずっと療養をしていました。だからでしょう、やり切れない気持ちを、母に暴力という形でぶつけていました。母は、それに何も言わず、ずっと、添い続けました。幼い私には理解できないことでした」
Sさんが原稿用紙をめくる音だけが、静かな教室に響いた。
「なので、私は、そんな母や家族を支える為に、義務教育が終わってすぐ働きに出ていました」
私は、彼女の言葉にハッとした。そして、机の下で自分の両手をぎゅっと握り締めた。
「20代後半を過ぎた頃、女性として母になってみるのもいいかもしれないと思い、お見合いをしました。その相手が今の夫です。子どもにも恵まれ幸せな家庭を築くことができました。子どもたちが巣立ったころ、夫の提案で、再び学生に戻る決意をしたのです」
Sさんが、笑顔で私たちを見回す。
「学ぶことができるというのは、幸せなことです。きっと、学び始めることに、遅いはやいはありません。熱意さえあれば、いつだって私たちは多くのことを学ぶチャンスに出会えるのです。だから、みなさんも、たくさんのことに挑戦してくださいね」
発表が終わり、彼女がお辞儀すると、みんなが大きな拍手をした。
先生が続ける。
「みなさんも若い内から、どんどん興味のあることに挑戦してください。失敗したっていいんですよ。学校で学んだことが、今は無駄なことに思えるかもしれません。でも、学んだという経験は、みなさんに多くのことを残すでしょう」
「はい!」
私たちは笑顔で返事をした。
私は恥じた。心のどこかで、彼女と私たちを線引きしていたのだ。就職という未来の為に勉強をする若者と、学びを楽しむ余裕のある大人。もしかしたら、私は、それがうらやましかったのかもしれない。
私は、短期大学の勉強と並行し、アルバイト生活に明け暮れていた。今にもふつりと切れそうな、張り詰めた糸のようだった。
Sさんと私たちは同じだった。自分の目指すものを見つめながら、知識を吸収し己に磨きをかけていた同級生。年齢なんて関係ないのだ。ただ、そこに強い思いがあれば、それだけで進んでいける。
卒業式の日。私たちは袴姿で華やかに、Sさんはセレモニースーツでピシッと最後の写真を撮った。
同級生の多くは就職し、私は専門学校へ進学。そして、Sさんは、短期大学と併設の四年大学に編入した。本当に、学びに対する熱い姿勢に、頭が下がる。
暗い部屋、まぶたの裏に、最後に見たSさんの凛とした横顔を思い描く。
「学び始めることに、遅いはやいはない。熱意さえあれば、いつだって私たちは多くのことを学ぶチャンスに出会える」
静かに彼女の言葉を唱えてみる。まるで魔法の言葉だ。勇気と力が湧いてくるようだ。私は、のっそりと起き上がった。窓に近づき、締めていたカーテンを開ける。久しぶりに浴びた、わずかな光がとても眩しく感じた。
「まだ、ちょっと怖いけど、でも挑戦してみるかな! 失敗しまくっても、見えてくることもあるでしょう」
背伸びをすると、背中がバキバキと音を立てる。
「また、ABCDからはじめよう!」
「マナミはね、僕のたくさん居る生徒の中でも、一番熱心で、一番ドイツ語と文化を学ぶことにクレイジーな生徒だよ。日本のことでもドイツのことでも、困ったら尋ねるといいよ!」
ドイツ語の師である、ドイツ人のM先生が笑顔でこう言った。ドイツ語教室の花見の席、他のクラスの生徒さん、M先生の友人のドイツ人の友人たちが目を丸くする。満面の笑顔でM先生は、私の肩を叩きながらウィンクをする。
「マナミはクレイジーなレベルのドイツオタクだからね。僕も誇らしいよ!」
「へへっ、Danke schön!(どうもありがとうございます)」
私はてれ笑いを浮かべた。
あれから、もう8年が経った。今でも私は、ドイツ語学習を続けている。
はじめは、本当にABCD(ドイツ語では、アー、ベー、ツェー、デー)からはじめ、さまざまなコンテンツで学んだ。『Axis Powers ヘタリア』の観光語学ガイド本、本格的なドイツ語の教科書、NHKの語学学習番組にもとても助けられた。そして、今のM先生に巡り会い、月に数回、中級クラスのプライベートレッスンを受けている。
ドイツ語を活かせる職業に就くことはできなかったけれど、学ぶことで私はたくさんのものを得られた。
なんと言っても、忍耐力と継続力。体調が優れない時でも、5分から1時間書き取りや音読を毎日欠かさず約5年間続けた。今は、色々なことにも夢中で、少しおろそかになってしまっている。昔の自分に負けないために、またがんばりたいところだ。
そして、交友関係の広がり。ドイツ語を学ぶ老若男女と知り合った。みなさん、色々なルーツでドイツ語を学んでいる。ドイツ関係の大学教授・専門家の方、学生時代に学んでいた方、ワーキングホリデーや留学を目指している方、昔ドイツ語圏に滞在していた方。突然、学び始めた私はどうやらイレギュラーのようだと最近知った。年齢や職業の垣根を越えて、語り合うのは、とても刺激的だ。
次に、様々なサプライズとの出会い。オタク気質なものだから、興味のあることは隅々まで調べずにはいられない。その知識が評価を得て、日独交流のイベントに呼んでいただける機会に恵まれた。東京のドイツ連邦共和国大使館のパーティーに招待された時は、私も知人も本当に驚いたが、今では良い思い出だ。
最後に、自信を取り戻せたこと。学びを続けることで、私は自分を誇りに思うようになった。私にもできることがある。また、こんなにも夢中になれることがある。そして、自信を持って、語れる好きな事がある。それは、私の心を勇気づけた。
「まなさんさ、本当に元気になってよかったね。目がキラキラしてるよ?」
ふさぎ込んでいた時期を知っている友人が、しみじみと私に言った。そして苦笑いする。
「でも、あんまりやりすぎないようにね? ドイツ語とかで忙し過ぎでしょ! ちゃんと私たちとも遊んでよ」
「うん、わかった! ありがとう」
私は、眉を下げて笑ってうなずいた。
テレビである脳科学者の先生が言っていた。夢中になるものがある方は、脳や身体の老化が遅いと。むしろ、脳が衰えず、活性化し続けることもあるそうだ。
それは、恋をしている状態に似ていると言う。
好きは、人を変える強い力があるのだと私は思う。だって、私の年齢の違う同級生たちは、目がいつもキラキラして若々しい。
無駄なことなんて一つもない。
大人だから、もう遅いなんてそんなこと言わなくていいのだ。
大人だって夢中になっていい。
興味のあることにどんどん飛び込んでいい。
学び、挑戦し続けることは、生きる糧になる。
時には、新しい自分の可能性を見つけてくれることにもなるだろう。
学生の時にはわからなかった、黒糖アメのおいしさを、私は今しみじみと味わっている。
□ライターズプロフィール
緒方 愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
福岡県出身。アルバイト時代を含め様々な職業を経てフォトライターに至る。カメラ、ドイツ語、茶道、占い、銀細工インストラクターなどの多彩な特技・資格を修得。貪欲な好奇心で、「おもしろいこと」アンテナでキャッチしたものに飛びつかずにはいられない、全力乗っかりスト。
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