夫が転職すると言い出した《週刊READING LIFE vol.110「転職」》
2021/01/11/公開
記事:秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
転職が「悪」だとか「逃げ」だとかいう時代はもう終わったと思っている。珍しい事でもなんでもない。30も過ぎれば会社を辞めて行った後輩も転職を決めた同僚もたくさん見てきた。以前から相談してくれる場合もあるし、突然の告白に驚くこともある。いずれにせよ、基本的には本人が決めることで、他人の私はただ、「あぁ、そうなんだね」と言うことしかできない。見送る側としては寂しいが、皆、それぞれの事情と決意を持って旅立ってゆく。だから、「あなたが決断したことなので尊重します。応援しているよ」そう言って、笑顔で送り出すことに決めている。
他人の場合は、これでいい。
けれど、夫が「転職したい」と言い出した時、そう簡単にはいかなかった。
夫は日頃から家で会社の話をよくするタイプだ。
遅く帰った夕食にコーヒー片手に付き合って話を聞くのが日課。
私も会社で働く身だから、共感しすぎて「なんて酷い上司だ!」と一緒になって怒ることもあるし、
逆に、「それは、こうすれば良かったんじゃない?」と、つい余計な一言を言ったこともある。数十分の会話だけれど、彼が日々どんな仕事をどんな上司としていて、今何に悩んでいるのだとかいう事情は私もよく承知していた。
だから、そろそろ言うだろうなというのは予想がついていた。
ここのところは、肩こりのせいか、首こりのせいか、頭が斜め45度で固定されている。床には、ため息から生まれた瘴気が立ち込めていて、迂闊に近寄ればこちらが具合が悪くなりそうである。家の中に負のオーラをまとう人間がいると、それはどんどん侵食してくる。極力吸い込まないよう明るく振る舞うようにしていたが、徐々に私にもため息が増え、頭が斜め25度くらいになった頃、ついに夫は言った。
「転職しようと思うんだけど……」
ほらきた。
最初にこの言葉を聞いた時、全く不安がなかったかと言ったら嘘になる。共働きとはいえ、一家の大黒柱の転職である。まだ子どもも3歳と小さかった。生活に対する漠然とした不安。もし転職したら起こるであろう負担を憂う。自然と腕組みして話を聞く私。でもこの時は、とにかくこの家の空気を浄化したい気持ちが勝った。夫はなにも今日、明日にでも辞めると言っているわけではない。私も職場復帰して2年が経ち、大変大変とは言いながらも生活は少し落ち着いてきていた。机の向こう側で腕組みして数分、一言だけ伝えた。
「まぁ、いいんじゃない?」
私の軽い返事を受け取ってからの夫は、憑き物が落ちたように嬉々として転職活動を始めた。もともと真面目な性格である。早々に狙いの業界を絞り、暇があれば転職サイトを漁っていた。ひとつの境界線ともいえる30歳を過ぎてしまっていたから、そう簡単には見つからないようだったけれど、本人は楽しそうにしている。いくつか履歴書も送ったらしい。目星をつけた会社を逐一教えてくれたりもした。ただ、どう思うと聞かれるのだけは困った。私も転職はしたことがない。妙に胡散臭いだとか、よほど気になることがあれば意見はしたが、基本的には「好きにしたら?」と、夫の思う通りに進めてもらった。任せても変な選択はしないという絶対的な信頼もあった。お気楽な私は、転職先が決まったわけでもないのに安堵していた。よかった、よかった。家の中がまた明るくなりそうだ。どこに転職するかより、家の中の空気の方が私にとっては重要だった。
物事が動き始めた時に限って、何か起こるものである。
ここ一ヶ月くらい、もしかしたらと思っていたのだ。この一週間でそれはほとんど確信に変わった。夫には黙って薬局に寄る。帰宅してこっそりそれをトイレに隠した。その日は子供と寝落ちして、早朝ひとりコソコソと確認する。結果は、やはりだった。くっきりと入ったライン。嬉しいような、困ったような。複雑な気持ちで、まだ布団の中にいる夫を起こす。
「あの……妊娠しました……」
半覚醒だった夫も流石に飛び起きた。
「え?! あ、よかった! おめでとうじゃん!」
確かに嬉しい。2人くらいは子供が欲しいと思っていた。しばしの沈黙。
「あー……俺、転職やめた方がいい?」
二言目にはこのセリフが飛び出し、なんとも言えない顔で夫が笑う。いいともダメとも言えず、私も曖昧に笑った。
もっと計画的に考えなさいよと言われるかもしれない。それはおっしゃる通り。でも、子どもが計画的に生まれるのなら誰も苦労しない。少子化なんて叫ばれることもないだろう。医学が進んでも女の体にだってリミットはある。こっちもあまり悠長にはしていられない話だった。
とはいえ、この事実の発覚は転職活動に大いに影響した。
そもそも転職を「する」か「しない」か振り出しに戻ってしまった。1人目の経験もあるから、妊娠期・新生児期がいかに大変か想像できた。これまでは夫が自身の環境の変化に対応していけばよく、妻の私はあくまでサポートするに過ぎないと考えていた。悪く言えば完全に他人事だった。ところが、自分が妊娠したとなると、まるで状況が変わってくる。自身が不安定な中で、夫の転職という環境の変化に対応できるのか途端に心配になった。だめだ、全然応援できない……。
転職した方がいいとは思っている。
環境を変えれば全てがうまくいくとは思わないが、今の状況を見る限り、このまま会社に残ってもゆるやかに腐っていくだけだろうなと思う。会社の風潮が変わる前に、夫の中でポジティブな意識改革が起こる前に、順応して腐っていく方が早そうだと思った。それは、妻として見たくはない。それよりも、挑戦して欲しいと思う。今より活き活きとしてくれるなら、例え忙しくても、帰りが遅くなっても構わないと思う。それは嘘ではない。でも、言葉にできなかった。
夫とはそれからハッキリとした話をしないまま過ごした。
とりあえず、選考が進んでいるものについては良しと言うことにしたが、中途半端な状態というのは上手くいかないものだった。結局、夫の転職活動は一時休止することになる。ホッとした。このまま今の会社で頑張ると心変わりしないかしらと期待した。先のことはわからないが、たぶんこのまま続けた方が安定しているのだ。わざわざリスクを取る意味があるのだろうか。少なくとも1年待ってくれないだろうかと思う。それでも夫にはちゃんと良い転職先が見つかるだろう。彼は大丈夫。妻ゆえの絶対的な信頼があった。心配なのは私自身だった。
なぜ応援してあげられないんだろう。
火が消えたように大人しくなってしまった彼の姿を見て、次第に罪悪感が芽生えていた。口では仕方ないよねと言いながら、悶々としているのが端から見ても伝わってくる。まっすぐに戻っていた首もまた斜めに傾き始めている。わかりやす過ぎて、腹さえ立つ。全く納得してないじゃない……。でも、私は無視をした。このままでいい。わざわざジェットコースターになんか乗りたくない。メリーゴーランドで十分だ。無言のまま、頑なに突っぱねた。
一月くらいは冷戦状態だったかもしれない。そんなモヤモヤとしたある日、仕事中の私の携帯にラインの通知が届いた。夫からだった。なんとなく予感がして、トイレの個室でこっそりと読んだ。
「迷惑かけると思うけど、負担が増えると思うけど、絶対に後悔はさせない。やっぱり、チャレンジさせてください!」
揺るがぬ決意をした文面だった。
たぶん、これだけの文字を打つのにも勇気が必要だったはずだ。私と長男と、次に生まれる新しい命。文章は短いけれど、まるっと3人分守るという覚悟がそこには込められていた。別に1人で抱えなくったっていいのに。なんだか泣けてきた。そういう人だから、私も惚れたんだけど。これだけの覚悟を見せられたら、今度は私が腹をくくる番だ。一緒に荒波に飛び込んでやろうじゃないか。
「例え数年無職でも食わすだけの蓄えはあります! 行ってこい!」
悔しいから、やたら男前な返事をしてやった。
私も夫と長男、それから生まれてくるこの子を守らねばならない。誰が泣いていてもいけないんだよ。みんなの首が傾かないように。ため息より、笑い声で家中が満たされるようにしたい。守られるだけなんて、性に合わない。不安もスリルもエンターテインメントに変えてやろう。トイレの個室でぎゅっと拳を握った。
その後の夫の転職活動は、拍子抜けするくらい順調に進んだ。
本人が強い覚悟を決めたこと、そして、一番の味方から、思いっきり背中を押されたことが自信になったらしい。私も妻として、転職先として最低限クリアしてほしい項目、転職後の家事分担についてハッキリ条件をつけた。他人事ではなく、自分事としてきちんと話し合うことにした。
そして、次男が生まれるちょっと前に夫は転職することになった。
これは気合がいるぞと意気込んだのだけれど、結果的に転職は子どもが生まれたタイミングで正解だった。私は育児休業中で家にいて、子どもが熱を出そうとも、夫が転職したばかりで余裕がなかろうとも、なんだかんだ寛容に過ごすことができたのだった。案外タイミングよく物事は起きているものである。
ジェットコースターだと思った夫の転職も振り返れば楽しい航海だった。
スタートする前は不安ばかりが募った。どんな荒波が待ち受けるのかと際限なく妄想が膨らんだけれど、走り出してみたら「なんだ、こんなもんか」である。高い波は来る。でも、互いに力を合わせて乗り越えていくしかない。このままの島でゆるやかに腐っていくより、新しい島を目指して舵をとろう。覚悟を決めて進むこと。それさえできれば、怖くない。
あなたが、あなたの信頼する人が「決断したこと」なのだ。きっと、大丈夫だ。
□ライターズプロフィール
秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
愛知県出身。
おしゃべりな夫と2人の男児を相手に日々奮闘中。
2020年12月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
頑張る誰かの力をそっと抜いてあげられるような文章を書けるようになることが目標。
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