週刊READING LIFE vol,111

毒親を乗り越えて《週刊READING LIFE vol.111「世界一嫌いな人」》

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2021/01/18/公開
記事:石川サチ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
一枚のスナップ写真がある。
 
この写真を見たり、思い出したりすると、激しい怒りと悲しみがこみ上げてくる。
 
幼稚園の運動会の写真だ。
ウサギの耳を頭に乗せた園児が、ふて腐れたような表情で歩いている。
 
その、歩いている園児は、私だ。
 
私は、上着は、運動着のTシャツ。
そして、下に身につけているのは、パンツのみ。
 
本来ならば、ショートパンツを着用しているはずなのに。
 
この姿で運動会に参加させたのは、紛れもない私の実の母だ。

 

 

 

幼稚園の運動会の数週間前だった。母が言った。
 
「運動会で履くショートパンツは、買わないから」
 
私は、最初、何を言っているのか分からなかった。
 
しかし、周りの子達が、運動会のために、ショートパンツを買ってもらっているのに、私だけ買ってもらわないのはおかしいと思った。
 
母に、ショートパンツを買ってくれるように頼んだ。
しかし、「買わない」の一点張りだった。
 
祖母にワケを話し、ショートパンツを買ってくれるように頼んだ。
 
しかし、母は祖母に言った。
「ショートパンツなんて、運動会の時だけしか履かないのに、わざわざ買うのはもったいない。どうせこの子は似合わないから。運動会のためだけに、勝手に買わないでください」
 
ショートパンツを買ってあげようとする祖母に、母はキツく言った。
 
祖母は、すまなそうに言った。
「お母ちゃんが、買うなって言うから、買ってあげられない」
祖母は嫁姑関係が悪くなるのを恐れていた。
 
私は、ワンワン泣いた。
 
パンツ姿で出るなんてイヤだ、絶対にイヤだ。
 
「運動会は行かない、出ない」
 
激しく泣きじゃくっていた。
 
しかし、母は、頑として受け付けなかった。
 
「かわいいパンツを買ってあげるから、パンツを二枚履くと、ショートパンツ履くより、サチコに似合っているわよ」と言った。
 
母は、新しいグンゼのパンツを買ってきた。
 
パンツの上にパンツを重ねて履いても、パンツ一枚でウロウロしているようにしか見えない。
 
凄くイヤだった。
 
運動会の当日。
 
母は、「行かない」と泣きじゃくる私をムリやり運動会に連れて行った。
会場に到着すると、ショートパンツを履かないでいる子など誰一人いなかった。
 
パンツ一枚で歩く私に、誰かのお母さんが声をかけた。
 
「パンツ一枚だよ、ショートパンツ、どこかに落としたの?」
 
あぁ、やっぱり。運動会の中で、一人パンツ姿で参加してる私は、他のお母さんたちから変な目で見られている、早く帰りたい、と思った。

 

 

 

当時、母は、幼稚園のPTAの会長をしていた。
他の友だちから「お母さん、若くて美人だね」と言われた。
 
しかし、私は母が嫌いだった。
 
自分の価値観や勝手に決めたことを、私にむりやり押しつける母が世界一嫌いだった。
 
母は、私が着る洋服を全部選び、毎日私が着る物を決めた。
 
私が自分で洋服を選ぶと、ケチをつけた。
 
「かわいくない」
「お前には似合わない」
「太って見える」
「足が短いのが、益々短く見える」
 
お年玉で自分で洋服を選んで買うと、
「そんな洋服、見たくもない、返してこい」
と凄い剣幕で怒った。
 
私は、高校卒業するまで、母の顔色を見て、洋服を選んだ。
自分が気に入った洋服など買ってもらうことはなかった。
 
更に、母は、私を他人と比較した。
 
「●●ちゃんは、ハキハキしているのに、お前は、ボサッとしていて、イライラする」
「ノリミツ(弟)は、気が利くけど、お前は、さっぱり気が利かない」

 

 

 

母は、9人兄弟の末っ子だったので、人一倍負けず嫌いだった。
 
長女でのんびりしている私に対して、常にイライラいしていた。
 
毎日私の欠点をあげた。
 
「だから、お前はダメなんだ」と忌々しそうに言い放っていた。
 
小さい頃は、「みにくいアヒルの子」という本を何度も読んで、自分をみにくいアヒルの子に重ね合わせた。
 
それでも毎日、母に「お前はダメだ、ダメだ」と言われ続けて育った私は、私はダメな人間なんだと思うようになった。
 
「みにくいアヒルの子」の効果も無くなっていた。
 
劣等感を持つようになり、生きていることが罪のように感じていた。
 
中学時代、たまたま修道院の存在を知ったとき、私は修道女として生きていくべきではないかと思っていた。

 

 

 

「母が嫌いだ」と言うと、周りから白い目で見られた。
 
「お母さんの悪口を言うなんて、感謝が足りないんじゃないの?」
 
「育ててもらって、お世話になっているのに、親不孝なんじゃない?」
 
私の母を知らない人たちから無邪気に反論された。
 
「私の母に育てられたら、あなたは、そんなきれいごと、言えなくなると思うよ」
 
心の中で反論した。

 

 

 

親元から離れてからは、母とは距離を置くようにした。
 
どんなに母との距離が離れても、母の言葉が呪いのようにリピートした。
「だから、お前はダメなんだ」
 
20代は、自分で自分の人生を取り戻そうと必死だったと思う。
 
いつの頃からか、「毒親」という言葉が出てきた。
 
「毒親」とは、子どもを思い通りに支配して、傷つける親のことだ。
 
「毒親」のチェックリストのほとんどに、母が当てはまった。
 
母は、私を自分の思い通りに支配し、私が抵抗すると「素直では無い」と言って怒り、殴る蹴るの暴力をふるった。
 
私の人生が上手くいかないのは、毒親の母に育てられたせいだと確信するようになっていた。
 
私は母の犠牲になってしまった被害者。
もう、自分の人生をコントロールすることは不可能だと諦めるようになっていた。
 
上手くいかない原因を、母ののせいすると、何でも他人のせいにしてしまっていた。
 
子ども(まゆこ)がいるせいで、私は仕事ができない。主人がああいう人だから、私は好きなことができない。

 

 

 

今から4年ほど前。
 
中学校に入学する子どもの入学式を楽しみにして、田舎から両親がやって来た。
 
空港まで迎えに行くと、母は、右側のほっぺたが、こぶとりじいさんのように腫れていた。少し体調が悪いようだった。
 
病院の検査が、5月までいっぱいで、治療も何もできないようだった。
 
こちらに滞在中、母は、温泉に行く時だけ付いてくるくらいで、後は家の中でゴロゴロしていた。
 
入学式も、参加せずに、帰っていった。

 

 

 

それから二ヶ月くらい経った頃。
 
携帯の電話が鳴った。
 
着信を確認すると父からだった。
 
何だろう、こんな忙しいときに、とぶっきらぼうに出ると、父の声がした。
 
「サチコか」
 
「何?」
 
要件を聞いて早く切りたかった。
 
「まゆこは元気に学校に行っているか?」
 
「行っているよ」
 
しばらく沈黙があり、ため息を吐く父の声がした。
 
「あのさ」
 
「何?」
 
「お母ちゃん、悪性リンパ腫だど」
 
頭を「ゴツン」と殴られたように感じた。
 
「困った」
 
父は落胆していた。
 
「オレが先に死んで、その後からお母ちゃんだと思っていたけど、先に行かれてしまうかもしれない」
 
私は、声を絞り出して聞いた。
 
「余命宣告とか受けたの?」
 
父は何も答えなかった。
 
「ショーゴさんのご両親とか言うなよ、心配かけるから」
 
「うん」
 
「お母ちゃんに、お前にも、黙ってろと言われたから、知らないフリしてるんだぞ」
 
「分かった、お母ちゃんは、もう入院したの?」
 
「まだだ、来週から病院に入院して治療する」
 
「じゃあ、家で寝ているの?」
 
「畑に行ってる、しばらく入院して家の中を開けるから、忙しいみたいだ」
 
「ガンなのに、動けるの?」
 
「まゆこの中学校の入学式の時に見たように、リンパの辺りが腫れているだけで、生活は普通にできるみたいだ」
 
「私、そっちに帰って、手伝った方が良いかな」
 
「家の中のことは、オレとノリミツ、二人で何とかやるから。入院したら、お見舞いに行ってやれ」
 
電話の向こうで、母が父を呼ぶ声がした。
 
「お母ちゃん戻ってきた、切るからな」
 
父は、話しの途中で電話を切った。
 
父の電話を切った後、私は、呆然とした、
 
母がこの世からいなくなるかも知れない。
 
私の気持ちを痛めつけていた大嫌いな母が、この世からいなくなってしまうかも知れない。
 
嬉しいはずが、全然嬉しくなかった。
 
私は、これまでの私自身のことを反省していた。
 
母にいつも文句ばかり言って、母のためにやったことなど何一つない。
 
母は悪者で、憎らしいと思ってばかりいた。
 
母への気遣いなど一切したことなかった。
 
母に対する恨みばかり言っていた私と母の関係、このまま終わってしまうのだろうか。
 
このまま母に悪態をついたまま死に別れすると後悔するかも知れないと思っていた。

 

 

 

母が退院してから、私は帰省した。
 
母は、玄関の叩きにホウキを持って立っていた。
 
痩せて少し老け込んだようだが、母は、まだ生きていた。
 
頭には、ターバンを巻いた。
 
抗がん剤の副作用で、髪の毛がごっそり抜け落ちてしまったらしい。ツルツル頭になっていた。
 
「動いて、大丈夫なの?」
 
母と対面するなり私が言うと、母が答えた。
 
「誰もやる人がいないから、やらないと」
 
私が母を気遣って言った。
 
「お父ちゃんに、もっと家の中のこと、やらせないと、すぐに再発するよ」
 
母は言った。
 
「オレがこうなって、お父ちゃんも、ようやく、手伝ってくれるようになった」
 
ご飯を食べた茶わんの後片付けなど一切やらなかった父が、片付けを手伝うようになったことを喜んでいた。
 
「病み上がりなんだから、できるだけ何もしないで安静に寝ている方が良いと思うよ」
 
母は、「疲れたら横になるから大丈夫だ」と答えた。
 
母は、体力の許す限り、仕事をした。じっとしているのが嫌いな性格は変わっていなかった。
 
私が父に、母をあんまり働かさせないように言っても、父は困ったように答えた。
 
「じっとしてろ、寝てろ、と言っても、動き回るから」
 
「お父ちゃんが何もしないから、動くんだから、お母ちゃんの負担にならないように動かないと」
 
母は、重たい物を持ったり、長時間台所に立って料理することができなくなっていた。しかし、自分のできることは極力やらないと気が済まないようだった。
 
負けず嫌いの性格が、母の命を動かしていたようだった。
 
その性格でガンとも闘ったのだろうか。
 
こんな姿になってまで、自分のできることを気丈にやろうとする母の姿に圧倒されていた。

 

 

 

母は、20歳で、姑姑、小姑が暮らす家に嫁いだ。
 
21歳で私を生んだ。
 
私を生んでから産休もろくに取らずに復職した。
 
私が物心ついた頃には、母は常に働いていた。
 
朝起きると、家中をホウキで掃き、その後、100平米はある床全部をぞうきんがけした。
朝ご飯を作り、慌ただしく身支度して、仕事に出かけた。
仕事から帰ってくると、炊事をして掃除をして、一番最後にお風呂に入って、一番最後に眠りについた。
 
農閑期は、5時前に起きて田んぼに行ってから、仕事に出かけた。仕事から帰った後も、田んぼで農作業を暗くなるまでやった。
 
「だから、お前はダメなんだ」と、私に言い続けた言葉は、もしかしたら、母が自分自身に言っていた言葉なのかも知れない。
 
そうやって、母は、自分自身を追い立てて、無我夢中で働いてきたのだろう。
 
母の姿を見て、私は、農家には絶対に嫁がないと決めた。
 
早く田舎を出たいと思った。
 
この田舎を出るには、勉強するしかないと思って、必死に勉強した。
 
母のような人生を送らないということが私のモチベーションだった。

 

 

 

母の人生を振り返ってみると、私はここまでできない、と思った。
 
イヤなことがあったり、体調が悪かったりすれば、すぐにサボることばかり考えていた。
 
私は、どこも悪くないのに、頭が悪いからとか、自尊心が低いからとか、子育てが大変だからとか、自分が作り上げた、恵まれない私、犠牲者としての私に逃げて、常に負ける方を選んでいた。
 
母は、悪性リンパ腫になって、抗がん剤治療を受けて、痩せ細り、頭がツルツルになってまで、それでも家の中の仕事をやろうとする母の姿に、自分の弱さとズルさが映し出されてしまったようで、恥ずかしくなった。
 
母は、私の性格を誰よりも知っていた。欠点も見えすぎるくらい見えていたから、口うるさくなっていた。
 
それなのに、私は、私に辛く当たる母を「毒親」だと決めつけていた。自尊心が低いのも、能力が低いのも、母のせいにした。母のせいにして犠牲者になって、努力を放棄していた。
 
私は、クズだった。

 

 

 

母が、悪性リンパ腫と診断されてから3年が経過した。
 
ガンになる前と同じくらい、母は元気になった様子だ。
 
母への感謝を忘れてしまい、幼稚園の頃のあのスナップ写真を思い出すこともある。
 
その度に、母を恨む気持ちが蘇る。
 
あのとき、なぜ、私にショートパンツを買ってくれなかったのか、なぜ、パンツ姿で、運動会に参加させたのか、問い詰めたい衝動に駆られることがある。
 
やっぱり、母が世界一嫌いな人なのかも知れない。母のことを許していない私がいた。
 
今度会ったとき、問い詰めてやりたい。
何で、あんな格好させたの?
私、凄くイヤだった。今も思い出すと嫌な気持ちになる。私の気持ちを踏みつけたんだよ。
 
母は、今なら、なんて答えるだろうか。
 
なぜ、母は、あのとき、私にショートパンツを履かせることを激しく拒んだのだろうか。
 
私は、最近、当時の母の気持ちに寄り添って考えてみるようになった。
 
おそらく、幼稚園のPTAで、ショートパンツのことで母は何か一悶着あったのではないだろうか。
 
当時、25〜26歳の母は、あの負けず嫌いで、自分の価値観を押し付ける性格が災いして、母の気に入らないことがあったのかもしれない。
 
それを、ああいう形で私に当てつけたのだろう。
 
そのことについて、母が正確に語ることは今後もないだろう。
 
私は、母が世界一嫌いだった。今でも嫌いだと思うこともある。
 
しかし、母の人生に寄り添い、母を理解できるようになったことが、私の自信につながったように思う。
 
完璧な人などいない、たとえ母でも。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
石川サチ子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

宮城県生まれ、宝塚市在住。
日本の郷土料理と日本の神代文字の研究をしている。

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2021-01-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol,111

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