週刊READING LIFE vol,111

犯人よりも醜く見える写真《週刊READING LIFE vol.111「世界で一番嫌いな人」》


2021/01/19/公開
黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
身分証として免許証を提出するたびに思うことがある。
 
「何か自分の顔、犯罪者の顔写真っぽくない?」
 
みなさんはいかがだろうか。免許証を取り出してマジマジと見ていただきたい。
そこに貼ってあるあなたの顔写真、よく2時間ドラマに出てくる人相の悪い犯人の顔写真のような顔をしていないだろうか?
 
光の加減なのか、真正面からの写真だからなのか、とにかく私には自分の顔写真が、鋭意指名手配中の犯人の顔写真みたいに見えるのだ。
 
もっとも、そのように見えるのは、ある種の補正も入っているからかもしれない。
すなわち、私は自分の顔写真が大嫌いなのである。
 
もう一つ問おう。
みなさんのSNSに使われているプロフィール写真だ。
どうだろう、ご自身の顔写真を使われているであろうか?
 
あらかじめ断っておくが、その是非は一切問うていない。
 
その上で言うが、私はそれが、自分の顔写真をプロフィール写真やアイコンにすることが、とてもではないが恐ろしくてできないのである。
 
これは顔に自信があるとかどうとかの問題ではない。それよりもっと根深い感情によるものであると思われる。
つまり、「かっこいい・悪い」とか、「写真が上手・下手」とか、そういう理由によるものではないのである。
 
そりゃあもちろん、私の顔はお世辞にも「かっこいい」とは言えない。
よしんばどなたかに、「私、かっこいい?」と90年代に流行った口さけ女ばりの問いをしたところで、「ええ、とっても」と、これまた90年代に流行った某英会話教室のCMの決めゼリフが返ってくるとは思えない。
 
だが、そこではない。もっと“それ以上”の感情である。
 
私は、私の顔写真を、とても“醜悪”なものだと感じてしまうのだ。
 
これを言うと、ありがたいことに周りの方々は口々に慰めてくれる。
「いや、そこまでではないよ」とか、「いや、そんなに悪くないですよ」とか、「いや、あなたが自分で思っているほど悪くはないですよ」とか……
何かと気を遣わせてしまって申し訳ない限りである。
 
しかし、申し訳ないがしかし、だ。そうではないのである。
根底として、「私の顔写真」が大嫌いであり、その理由はイコール醜悪さというものに決定しているのである。
 
それがために、どんなに編集した写真においても、その気持ちが揺らぐことがないのである。
 
例えば以前、とある写真撮影会にお邪魔したことがある。モデルの方を皆で写真に収めるのはもちろんだったが、その後、参加者同士を撮影しあうことになった。
参加者の方々はプロではないが、それに勝るとも劣らない技術の持ち主である。
私も撮っていただき、後日レタッチした写真をいただいた。実に素晴らしいできばえだった。
偉そうなことを言わしてもらえば、この私をして、これこそプロフィール写真に使うべきか、と思わしめたほどである。
 
そう、一度は思ったのである。
だが、そうしなかった。プロフィール写真として皆に見てもらうことにはならなかった。
当然カメラマンの腕は申し分ない。原因は、やはりその顔写真を見る私の方にあった。
 
見ているうちに、とても恥ずかしく、惨めな気持ちになってくるのである。
そう、写真としては非の打ち所がない写真ではあるが、それを私は、よしとできなかったのである。
 
醜い、まったくもって醜い。
せっかくご厚意でいただいた写真に素直に喜べないことも、私に追い打ちをかける。
まったく恩知らず、恥知らず、薄情で人としての心がない。お前はそんな醜悪さの塊だ、と写真の自分が語りかけるようである。
 
何の劣等感によるものか、あるいは他の要因なのか、私は私の容姿に自信が持てないでいるのだ。
毎日洗面台で、トイレで、風呂場で、鏡に映る自分の顔を見るたびに、ほとほと憂鬱な気分になってくる。
若い時は内心、両親を責めたりもした、本当に心ない人間だ。
 
そんな心身ともに醜悪な顔を見て、憂鬱な気分になっていたある日のこと。
ふと気づいた、いや、考えたことがある。
 
鏡に映る自分の顔を見て、これは“写真より”マシではないか、と。
自分でそんなこと言っていれば世話ないという話だが、これは、(自分で言っていて恥ずかしいが)実は大きな発見であった
 
つまり、私は私の容姿自体を(到底好きにはなれないが)そこまで嫌悪していたわけではない。
「自分の顔写真」というものをひどく嫌悪していたのである。
 
これはなぜか。
思うに、写真とは文字通り、「真」を「写す」ものだからであると思う。
自分の、それこそ顔を背けている心の有り様を、自分が嫌いな部分を、そこに切りとって無慈悲にも提示されてしまうからではないだろうか。
そして、さらに不都合なことに、それが残ってしまうのである。
 
これが、鏡に映る姿ならまだいい。映って終わりである。醜いなぁ、と思って、それで終わりである。
写真は、その感情を提示し続ける。
一瞬か、永続か、この差はかなり大きい。
 
では、編集した写真はどうか。人にもよるかもしれないが、私には、これも同じである。どんなに編集をした写真でも、それが「私」である限りダメなのだ。
そこに映っているのが、もはや整形なみの編集をしてややイケメンになった私だったとしても、自分が映っている以上はダメのだ。
 
「これがお前である」と写真は如実に語る。
くだらないお前である。醜いお前である。何顔なんかさらしてるの? そんなに自信あるの? こんなにキモいのに!
 
私の心がそう語りかけ、私は自分の顔写真が見られなくなってしまう。
 
なんとも小心者な劣等感の塊。恥ずかしさの塊である。
 
ところが、だ。
これは、考えようによっては、恥ではあるが救いでもある。
 
大事なことなので何度も言うが、私は「私の顔写真」が大嫌いである。
実に醜い。驚くほど醜い。とはいえ人類最下位ではないだろうな、と考えるあたり輪をかけて醜い。
 
だが、それは「顔写真」が醜いのであって、「顔」そのもの、つまり容姿の醜さに直結しない。心の醜さに直結しない。
 
写真は対象物として、そこにある。すなわち、他人である。他人だからこそ、悪い点も見つけてしまう。そんな苦しいいいわけじみたことが言える。
言えるだけでよい。
私は、対象としての私=顔写真を嫌いでも、自分を嫌わずにいられる。少なくとも憎悪するほどではない。
 
もちろん、清くもなく美しくもないことは分かっている。好きになることもできそうにない。
だが、極度に嫌悪しているものが「私の顔写真」という対象物、すなわち、他者であることが、私を救うのだ。私は、私を憎悪しなくて済むのだ。
 
これは精神衛生上とても大事なことだ。
それがやや言い訳じみたことでも、対象が自分にならないことは大きな救いである。
 
そして同時に考える。では、世の顔写真は悪か?
もちろん、答えは否である。
 
顔写真は主に証明書に使われる。すなわち、自分の証明である。
なるほど、醜くい自分かもしれない。だが、自分であることの証明ができる。
これが自分であると言えることは、一つの幸いでもある。
 
少々大げさかもしれない。ならば逆に考えてみるとよい。自分が自分であることを証明できない悲劇を、私は私である、ということを証明できない悲劇を。
 
そしてもちろん、自分を写真から見つめることは、それはそれで意味あることである。
 
こんな自分が嫌、というそれを、具体的にあぶり出してくれるのだから。
自分にはこれが足りない。こんな嫌なものが付いている。
それでも、そこに改善の余地があるものは多数あるだろう。
 
理想の自分、いや、ちょっとはマシな自分になるための、指標になると言っても良い。
ちょっとはマシになった後、私は初めて、ネット上に顔を表示できるかもしれない。
 
SNSに顔写真を載せること、それもプロフィール写真に自分の顔写真を載せることは、実名を表記したり、住所をさらし出したりすることとも、少し感覚が違うように思う。字面だけの無表情な発言に、キャラクターを与える、とでもいうべきか。
 
「この人が言っている」
 
というように感じてしまうのだ。
「この人」という意味合いが強くなる。無表情な文面が受肉してくるような、そんなささやかな錯覚を起こす。
 
いい意味でも悪い意味でも、だ。
私は顔写真を載せたとき、いい意味で受肉した文面を掲載できるだろうか?
そんなことを考えると、私が顔写真を直視できるようになるのは、延々と遠ざかっていくように思えてならない。
 
顔写真は、自分が今ある意義を問う。
 
免許証の中の数年前の自分が、犯罪者風の面持ちで言う。
 
「お前は誰だ?」「なぜそうまで醜い?」
 
私は目をそらす。
醜いのは写真であるお前だ。私はお前よりなんぼかマシだ。一緒にするな。
 
本当にマシになったのだろうか? なるのだろうか?
試みに、半年前に買い換えた、前より性能のよいスマートフォンで自撮りをしてみる。
 
マジマジと確認し、私はその写真を消去した。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

山梨県在住。大学にて国文学を専攻する傍ら、情報科の教員免許を取得。現在は故郷山梨の高校に勤務している。また、大学在学中、夏目漱石の孫である夏目房之介教授の、現代マンガ学講義を受け、オタクコンテンツの教育的利用を考えるようになる。ただし未だに効果的な授業になった試しが無い。デジタルとアナログの融合を図るデジタル好きなアナログ人間。趣味は広く浅くで多岐にわたる。

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2021-01-19 | Posted in 週刊READING LIFE vol,111

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