辞めないで自転車屋さん《週刊READING LIFE vol.113「やめてよ、バカ」》
2021/02/01/公開
記事:赤羽 叶(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
家から徒歩三十秒ほどのところに、まるで遺跡のようなたたずまいの、自転車屋さんがある。
古びた工場を使いまわしたのであろう。裏路地でシャッターを開けただけのところに、自転車が所狭しと並び、工具などが重なっていて雑然としているような店。値札も、パソコンなどで印刷したものではなく、手書きのポップアップで、無骨そのもの。夏暑そうで、冬は寒そうで、いつ通っても、ひとけがなかった。
今どきのサイクルショップのようなガラス張りのきれいな店構えとはかけ離れて、静かに終わりの時を待っているかのような、寂しい空気が漂っている。
私の母親歴は年が明けるとすぐにひとつ、重なる。
足元がチリチリと寒くなるような季節に息子はこの世にやってきた。
今年の誕生日プレゼントのリクエストは、自転車。
まさか自分の子どもがもうすぐ小学生になり、誕生日に自転車を欲しがるようになるとは思わなかったな。
お店は古びていてさびれているけど、故障したときにすぐに相談しやすそうだし、近所の方が何かと便利だろう。
早く自転車に乗りたくて催促してくる息子に負けるような格好で、ようやく歩けるようになった娘を連れ、寒々しくて古びた自転車屋さんをたずねた。
時々、作業をしているのを見かける、初老の男性が店主のようだ。
体格はがっちりとしていて、指は太く、四角い眼鏡をかけていて、一見とっつきにくい雰囲気を醸し出しているが、話しかけると案外なじみやすくて、丁寧な対応が印象的だった。
「息子さん、初めて自転車に乗られるんだったらね、フレームはしっかりしていた方がいいと思いますよ。今の自転車で安いものはね、海外製のものが多くて、フレームが弱い。身体が小さいとね、いざという時にヤワな車体は危険だ」
こんなことは、量販店の自転車屋では絶対に言わないからね。安い自転車をすすめてくれるかもしれないけど……。と店主は続けた。
路地裏で頑固実直に商売を続けてきたというプライドが心地良く心に届いて、他店も回ってもいいかなと思ったけど、自転車を即決した。
店主は、息子にこと細かに自転車の乗り方、注意の仕方について説明した。赤いボディに黒いラインの入った新しい自転車に夢中な息子は、果たして話をちゃんと聞いていたのだか。けれども、店主の、無事に乗ってほしいという思いがこちらにも伝わって、口元がゆるむのだった。
***
実はその自転車は、というと、息子にほとんど使われることなく6年ほど放置されることとなった。数えるほど……本当に数回しか使わないまま、家の前に置き去りにされ、クモの巣がかかったまま。タイヤはぺちゃんこで地面とホイールのサンドイッチになり苦しそうだ。使わなくても空気は抜けるのだ。あるいは同じ状態で置きすぎているから劣化してパンクしているのかも、しれない。
そんな間に、我が家はもう1人子供を迎えることになり、赤い自転車の周りにはベビーカーが置かれたり、資源ごみ待ちの段ボールでごちゃついたりした。他のものは忙しく出入りするのに、自転車だけは、ぽつねん、と鎮座していたのだった。
自転車を買ったときにようやく歩くようになったばかりの娘が小1になり、その自転車に乗りたい、と言い出したので、徒歩30秒ほどの店に、買ったとき以来に、訪れた。
「これ、ずっと乗ってなかったんですけど、タイヤとか替えなきゃ、ダメですかね?」
四角い眼鏡をずり上げながら、店主は苦笑いした。
「うーん……これは、本当に乗ってないだけなんだねえ。この機種だったら6年前かな? もったいないけど、乗ってないだけだから空気を入れるだけで乗れるはずだよ」
6年ぶりの里帰りに店主は懐かしそうに、車体を見やった。
車体を見るだけで、いつの自転車かわかるところとか、まだ、目が曇ってないなあ、おっちゃん。遺跡の主は、まだまだご健在のようだ。
「乗っていないというのはちょっと残念だけど、自転車が元気に戻ってきた、というのはうれしいことなんですわ。子供さんが、怪我せずに無事ってことだからね」
嬉しそうに目を細めながら、自転車を雑巾できれいに磨いてくれる姿を見るだけで、ふわっとあたたかい気持ちになった。自分が売った自転車で事故が起きていない、というのが、店主にとっての何よりの願いで、何よりの喜びなのだ、というのを垣間見た。
「昔もいったのだけど、お兄ちゃんは約束を守ってくれなかったから……お嬢ちゃん、2か月に1度はおじさんのところにこの自転車を見せに来てね」
娘は、ピカピカに磨かれて、乗れるようになった自転車に夢中で、聞いていたのだろうか。
***
「ねえ、母さん、自転車屋さんって新年いつからやっているのかなあ?」
「え? さあ? 今日くらいからかねえ?」
本が何より好きな息子は、この年末に図書館が閉館してしまい、仕方なく、娘用に改めてメンテナンスしてもらった自転車を借りて郊外の書店まで行っては、入り浸っている。それで、いよいよ自分のサイズに合った自転車が欲しくなったらしい。
来春から自転車通学になるし、自転車を買い足す時期になった。
私の母親歴は年が明けてついに一回りを迎えようとしている。
もちろん、また、あの遺跡のような場所で自転車を用立てるつもりだ。
いつもは、インドア派の息子が、待ちきれないと偵察に行って、空いてるから早く行こうとせきたてる。
仕方ないなあ……。息子に引っ張られるように、店に向かった。
「すいませーん、自転車下さい。紺色の! 今日すぐに乗りたいんです」
いつも、喧嘩ばかりしている兄妹は、今日に限って、二人で自転車に乗り、遠出しようと計画していたようだ。店主は、困ったように笑った。
私は、息子の適当なオーダーに、春から自転車で橋をいくつか超えたところにある中学校に自転車で通う予定であることを付け加えた。
「彼くらいの身長だと、26インチがいいサイズかなあと思うんですよ」
「これから大きくなっても乗れます?」
伸び盛りの息子だが、早々自転車など買い替えたくない。
「大丈夫、サドルを上げれば、ずっと使えますよ。でも、だからこそ、国産のしっかりしたフレームの自転車がいいですよ。アルミボディは軽いけど、毎日遠くまで通うのであれば、しっかりしたものにした方がいい。しかも、ブレーキなんかも性能が違う。このメーカーのこの車種は、坂道でブレーキをかけたときに乗り出しに差が出るんですよ」
勧めてくれた自転車は、思ったよりも高かったけど、6年来、この店主の安全に自転車に乗ってほしいという想いは伝わっているので納得した。
「じゃあ、勧めてもらった自転車の紺色でお願いします」
私は、店主の勧めに従うことにした。
店主は、カタログを開いて、型番を調べる。
四角いメガネをおでこにあげて、カタログを読み上げるが、どうにも難しいようだ。
「この番号はなんて書いてあるかねえ?」
「これですか? L6ST1、ですよ」
私は、何度か型番を復唱した。店主は、バツが悪そうな顔をしながら、メモに型番を書きつけた。
「ごめんねえ、カッコ悪い仕事しちゃって。今日は、特に目がよく見えなくて」
少し小さな声で申し訳なさそうに店主はつぶやいた。目元に目ヤニがついていたから、もしかすると、目を患っているのかも、しれない。
6年という期間の重さを、感じた。子供達のぐんぐんと大きくなる陰で、私でも少し体力が落ちたな、いや、まだまだ、という気持ちが行き来している。6年前に初めて訪れた時に、初老だった店主にとって、この時間は、できないことが増えてきて、あるいは、自信を無くした時間だったのかもしれない。
初対面の時には、感じられなかった、哀しさを少し、受け取ってしまったかのような、気分だった。
結局、メーカーの在庫を確認しに行って、予約しただけで終わった。すぐに自転車を手に入れられなかった息子が大いに嘆く姿を見て、店主が自転車を貸してくれることになった。
店主が、貸し出し用の自転車をきちんと点検しようとしてくれたところに、高校生くらいの制服を着た青年がやってきた。
「こんにちは。ごめんなさい、パンクしちゃいました」
「そうかい、1時間くらい預からせてくださいね。それと、今日は、15時に閉店だから、それまでに取りに来てもらえますか?」
その後も、学生がタイヤに空気を入れに来たり、別の客が自転車を見に来たり、さびれた遺跡だとばかり思っていた自転車店は、新年早々、店主一人で回すには忙しいくらいの人の行き来だった。しかし、その一人一人に、店主は丁寧に丁寧に対応していた。年齢に関わらず。きちんと丁寧に対応する姿をしみじみ感動して眺めていた。
ここで、何十年も、沢山の人に、丁寧に実直に対応してきたのだろう。自分の売る自転車は、誰の凶器にもならず、乗る人の便利なお守りでありますように、と祈りながら、沢山の人の自転車をメンテナンスし、磨いて渡してあげたのだろう。
ふと、壁面のホワイトボードに、新規の発注票が、ずらりと貼ってあることに気づいた。よく見ると、近所ではない結構遠方の不便そうなところからも発注が入っている。○○さん紹介、の文字が多い。
この店主の実直さが、祈りが、沢山の人の信頼を、得ているんだなあと、目頭が熱くなってしまった。
「あと、追加で頼むのは、ヘルメットでよかったですかね?」
「はい!」
ヘルメットの型番もまた、私が読み上げることになり、店主は恐縮しきりだったが、どうぞ気になさらずに、と返した。
「いやあ、年だからねえ……。本当に、こんな、情けない仕事しかできなくて。もう商売も引き際かねえ……?」
店主がポツリ、と呟いた時に、
「やめてよ、バカ!」
と冗談っぽく返すことができたら、どんなによかったことか。
ダメです。こんなにたくさんの人が、店主さんを信頼してやってくるのに。
でも、
「そんなこと……ないです……」
と、つぶやくことしか、できなかった。
「母さん、本屋さんまで、行ってきていい?」
借りた自転車のメンテナンスが終わったようだ。早くも外に出たくてうずうずとする息子に、店主が自転車に乗るための注意を丁寧にし始めた。
6年前、全く人の話を聞かずに自転車にばかり興味津々だった息子が、真面目に店主の話を聞いてうなずいている。でも、いつもおちゃらけてばかりの息子に、店主の、自転車に乗って、どうぞ無事に帰ってきてほしい、という想いまで、果たして、届いているのだろうか。
この場所で、店主以外の店員に出会ったことがない。残念ながら、この6年間の店主の衰えを見ていたら、このお店が閉じる日は、そう遠くは、ないかもしれない。
「やめてよ、バカ」って、あの時に、返したかったけれど、時間というのは待ってくれない、残酷なものだ。跡を継いでくれる人がいなければ、この遺跡は、数年後には、店の火は消えて、本当の遺跡になってしまうか、まっさらな駐車場になってしまうか、どちらか、だろう。
でも、カタログが読みづらくなったら、きっとお客さんが読んでくれるから。情けなくってもなんでもいいから、願わくば、どうか、ずっと変わらずに、元気で仕事を続けてほしい。
この路地裏の遺跡で。淡々と、街の自転車に乗る人たちが、今日も安全でありますように、と祈りながら、自転車を、持ち主を送り出す存在であってほしい。
どうか、どうか。
□ライターズプロフィール
赤羽 叶(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
広島県在住。慶応義塾大学文学部卒。フリーライター力向上と小説を書くための修行をするべく天狼院のライティング・ゼミを受講。小説とイラストレーターとのコラボレーション作品展を開いたり、小説構想の段階で監修者と一緒にイベントを企画したりするなど、新しい小説創作の在り方も同時に模索中。
この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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