愛の国が教えてくれた女の離婚物語《週刊READING LIFE vol.117「自分が脇役の話」》
2021/03/01/公開
記事:小石川らん(Reading life編集部ライターズ倶楽部)
離婚経験のある女性に対して「強い」という尊敬の念を抱いている。というのも私が幼少期の頃に、父にうんざりしていた母から「あんたたちがまだ小さいうちはまだ離婚しないからね」という脅し文句を聞かされていたからだ。「子はかすがい」どころか「足かせ」だったのだ。養育の面で父親はなくてはならない存在だったのだろう。
大きくなって、変わらず父への不満をこぼす母親に「もう離婚しちゃえば?」と言うと「今離婚するともらえる年金の額で損をするから離婚はしない」という言葉が返ってくる。夫婦関係も金次第なのだなと思う。そんな母のもとで育ったので(とはいえ感謝しているが)、見切りをつけた男と別れ、人生を仕切り直している女性は偉いと単純に思っていた。ましてや子どもを抱えながらの離婚となると、何度拝んでも足りないぐらい、「本当にすごい」という尊敬の気持ちでいっぱいである。
日本よりも、愛に正直に生きる国フランスで2ヶ月暮らした。ホームステイ先のパリっ子のマダムには離婚した夫がいた。【divorcer】離婚する という単語は、日本でフランス語を学んでいたときにはそうそう使うことはないと思っていたが、フランスで暮らしてみるとフランス人たちの家族遍歴を聞く上で必修単語だった。マダムの口から「divorcer」という言葉を聞いたときには「あまり使うこともないだろう」と思って、やる気なくメモされた単語帳の自分の筆跡を思い出した。まさか目の前で使われるときが来るとは。
マダムの元夫は子ども2人を残し「もうお前のことは愛していない」と言って家を出たのだという。「なんて自分勝手なんだろう。フランス映画かよ!」と思いながら相づちを打っていると「私だって、私のことを愛していない男と暮らすのなんてまっぴらごめんよ」と言っていた。格好良いと思った。離婚経験はおろか結婚経験さえない私は、「子はかすがい」(または足かせ)という諺を頼りに、そういうときはきっと日本だと子どものことで揉めるんだろうなと思った。子どもがどうのということは語られずに、夫婦の愛を軸を離婚の経緯を語るところがいかにもフランスらしいなと思った。
元夫へ対する憎さもひとしおあるのだろうと感じ、なるべく結婚とか離婚とかいう話題には触れないでいようと思っていた矢先だった。語学学校から返ってくると、マダムが台所でいそいそと料理の支度をしていた。
「今日はお客さんが来るの。ルイーズとクロエよ。ルイーズはジャンの今の奥さんでクロエはその娘なの」
耳を疑った。ジャンとはマダムの元夫の名前である。ジャンの女性遍歴の詳細は不明なので、マダムを捨てた直後に家庭を築いた相手がルイーズなのかは分からない。しかし、マダムとの家庭は捨てて、今はルイーズと一緒にいるということを考えたときに、決して清々しい関係ではないはずだ。そんな2人が今夜、この家でディナーを共にする。胃がキリキリとする思いだった。
真っ赤なコートを着たルイーズは素朴な大人しい印象の女性だった。ジャンの現在の妻である。なんとなく「パリのマダムといえば」のイメージに当てはまるような、大人の女性の自信と色気にあふれた人を想像していたが、実際はムーミンママを思わせるような風貌の人だった。その娘のクロエは大学生でスラッと背が高く、おしゃれもするし友達と遊びもするし、適度に勉強もするだろうというふうなパリ版「都会の大学生」という感じだった。
ルイーズとマダムは私が聞き取れない仕事の話をしたり、最近の休日の話をしたりして、和やかにディナーは進行していった。私は言葉を十分に理解できない気まずさと、また別の気まずさからルイーズとクロエと3人だけで食卓にいることのないよう、ディナーのメニューが変わるごとにマダムと一緒にテキパキと給仕を努めた。フランス風の食事というのはレストランだけでなく、他人を家におもてなしするときには前菜、スープ、メイン、チーズ、デザートと順に振る舞われる。テーブルのみんなの食事の進み具合や、マダムが次の料理の準備をするタイミングに合わせて私もすっと席を立った。
ハーブで蒸したカレイの身を、ていねいにナイフとフォークで骨から剥がしながら耳をそばだてる。話題はマダムの元夫でもあり、ルイーズの現夫でもあるジャンに及んだ。
「ジャンは最近ネットフリックスばかり見ていてね。そういえば日本の『全裸監督』も観ていたわよ。週末はケーキを焼いてくれたわ」
マダムが私の方を向き直り、ジャンについての説明を始めた。
「ジャンは昔、料理人をしていて、退職した今ではお菓子作り教室に通っているのよ。料理もお菓子もとても上手に作るのよ」
そのウキウキした口調や、こうしてルイーズをディナーに招待するところを見ると、マダムはジャンについてもうわだかまりはないのだろうと思った。元妻と現在の妻がこうして仲良く食卓をともにしているところをみると、こういうちょっと不思議な人付き合いは、ここ愛の国フランスでは普通のことなのかもしれないとホッとした。デザートのチョコレートプリンが、さっきまでキリキリと傷んでいた胃にそっと落ちていくのを感じた。
ところが、そんな関係はどうやら愛の国でも一般的ではないらしい。
それはクリスマス休暇に入る前の授業。語学学校の授業中に、私はクラスメイトから満場一致の「セ・ビザー!」を食らっていた。「セ・ビザー:C’est bizarre」とは「変なの!」という意味で、フランスでものすごくよく聞く言葉である。機械が壊れていたり、空いているべき窓口が空いてなかったり、なんとなく体調が悪かったり……。世の不条理に対して気軽に投げかけられる言葉である。
「クリスマスはどうやって過ごすの?」という教師の問いかけに、私は「一緒に住んでいるマダムと一緒に、マダムの元夫の別荘に行きます。そこで元夫の今の妻と娘と5人で過ごします」と答えた。
「元夫?」
教室中が顔をしかめた。「どういうことなの? 信じられない」とみんな首をかしげたり、顔を見合わせたりしていた。
そうは言っても、マダムは現妻とも、おそらく元夫とも関係は良好なのだと思いながら、教室のみんなの反応を見て楽しんでいた。みんなの知らない男女の機微の摩訶不思議さを知っているかのような気になっていた。
パリから西へ5時間。ブルターニュの空気はひんやりとしていた。ここで3日間のんびりと過ごす予定だ。人間関係の複雑さが気になることはないだろう。そう思っていたのに、マダムの行動がのっけからおかしかった。
別荘に着くなりジャンはマダムと私の2人に、庭にあるジャグジーに入るように勧めた。水着に着替えてちょっと湯加減の冷ための露天風呂を楽しんだ後、私はマダムに促されてシャワーを浴びた。その間にマダムはジャンとルイーズと一緒にリビングで談笑していた。シャワーは一つしかなかったので、マダムがすぐに浴びられるようにさっと済ませて、マダムにシャワーを勧めた。その後荷解きをしたり、ベランダに出て外の景色を眺めたりした後に、もう一度リビングに行くとそこにはバスタオルを一枚巻いただけのマダムの姿があった。
「シャワー浴びないの? 風邪ひいちゃうよ?」
と言うと「まだ暑いからこれでいいのよ」とマダムは裸の肩越しに私に言った。
リビングの少し離れたところで紅茶を飲みながら3人の様子を見ていると、なんだかマダムの様子がおかしいのが分かった。バスタオル一枚だというのに(下着を履いているかは謎である)、ジャンの目の前で足を組み替えたりしている。視線や様子もなんだ意味ありげというか、甘えたげというとか、浮足立ったものを感じた。ジャンやルイーズは特に何も気にしていない様子だが(あるいはそう振る舞っているのか)、それまで1ヶ月パリの家でマダムと一緒に過ごしていた私にとっては違和感しかなかった。
いたたまれなくなった私は、さっと紅茶を飲み干してあてがわれたゲストルームにじぃっとこもっていた。ベッドに寝転がりながら、窓の外をぼぉっと眺める。隣の家の煙突からほそぉく白い煙が登っていた。
「あれは、『女の顔』ってやつなんじゃないだろうか」
そんなことを思ったときに、ほそぉく登っていた煙は勢いを増し、曇天にはっきりと白い筋を描いた。煙突の下の暖炉にたくさんの薪がくべられたのだろうか。
「まだ好きなの?」という言葉は、未練がましく元カレの思い出を語ったり、次の恋愛に足踏みをしている若い女性に投げかける言葉な気がしている。いや、若いとかそういうことではなくて、「恋愛」というものに腹を括ったか括っていないかだ。離婚を乗り越え、子どもを2人育て、パリと田舎に家を購入できるほどに働いたマダムにとって、元夫のことを今でもうっすらと思い続けているなんてことは当てはまらない気がしていた。
しかし今現在愛しているとか、愛していないとかいう問題ではなくて、ブルターニュの別荘にいる間中、マダムのジャンに対する「ねぇ、私、あなたがかつて愛した女なのよ」というアピールのようなものを感じた。それにジャンがどう応えればマダムが満足したのか分からない。ただ、昔付き合っていたとか、ちょっと関係を持った男性に対して「私たちって、昔ちょっとあったよね……」みたいな雰囲気を誰に伝えたいでもなく醸したくなるのは、万国老いも若きも共通なのではないかと思った。その先にある感情は「私は確かにあのとき愛されていた」という確認を欲しているのだろう。しかしそういうアピールは男性にすでに気持ちがない場合、ただ空振りをして虚しい思いをするだけだ。一番効き目があるのは、第3者が「まだ好きなの? いい加減あんな男忘れなよ」と一笑に付すことだ。そうやって太古から女たちは男を棄てたり男に棄てたりを乗り越えてきたのだ。しかし、マダムは恋愛に腹を括っていない小娘ではない。そんなこと言えるはずもなく、パリに帰ってからマダムと楽しく過ごしつつも、一番気になることは聞けずにいた。
マダムと過ごす最後の土曜日。2人で散歩に出かけた。特に行き先を決めずに、とりあえずセーヌ川を目指してひたすら南下した。左岸から右岸へと渡り、サン・ミッシェル通り入り口の噴水の前に出た。通りは賑やかでお店やカフェが立ち並び、観光客や地元の人で賑わっていた。
「この辺はよく、パパやママと遊びに来たわ。娘や息子たちとも来たの」
家族連れの姿を見て、マダムもかつての自分たちの姿を重ね合わせるのだろうか。パリは私にとっては憧れの夢の街だが、マダムにとっては生まれてからずっと暮らしてきた場所だ。嬉しい思い出も悲しい思い出もあるはずだ。
オレンジ色の街灯が灯り、もう人出も少なくなった時間、私たちはパンテオンの前にいた。そろそろ帰ろうかというときに、マダムが「パンを買っていきたい」と言い出した。
パンテオンを通り過ぎてデカルト通りをどんどんと進むとムフタール通りに通じている。車が一台通れるぐらいの通りで、両脇にはバーやカフェ、飲食店や、肉屋、パン屋が並んでいる。井ノ頭通りをコンパクトにして庶民的にした雰囲気だ。カウンターの店で談笑している人々を眺めながら歩いているとマダムが言った。
「ここは久しぶりに来たわ」
マダムの家からここまではちょっと距離がある。家の周りに市場もスーパーもあるので、ここまで来る用事はないのだろう。そう思ってふんふんと聞いていると、マダムがぽつりぽつりと語りだした。
「ここは昔、よくジャンと来たのよ。だから悲しくて、もうひとりでは来れなくなってしまったの……」
離婚した女性は単純に「強い」のだと思っていた。子供を抱え、かつての夫のことに想いを馳せたりすることなく、ただ前を向いて歩いているのだと思っていた。
しかし今のマダムの言葉からは決してそんなわけでもないのだということを知った。コンパクトな街の中に、ジャンとの思い出の場所は他にもあるのだろう。子供を抱え、パリの空の下で時にマダムがどんな想いを抱えながら生きてきたのかを完全に知ることはできない。知ろうとすること自体がおこがましい。しかし離婚の経験は、マダムの心の中に、決して止むことのない雨が降っているような場所を作り出したのは事実である。
あくまで私が知っているだけの範囲だが、私が出会ったパリの大人たちは割と自分の離婚経験をオープンに話した。語学学校の先生のマノンもよく授業中に「一人目の夫」の話をしていたし、マダムの友人のカミーユもそうだった。それぐらい、「結婚した、別れた」ということは人生の中の1ページにしか過ぎないのだと思っていた。しかしきっと、彼女たちも自分の話題としてわざわざ離婚の話を持ち出すぐらいに、それは何度も広げられ、他のページをめくろうと思っても、風が吹いた弾みで開いてしまう、しっかりと跡のついたページなのだろう。
結婚も離婚も、社会的な契約にあるにも関わらず、そのきっかけや終わりはとても個人的な心の問題が絡んでいる。自分の母親や、マダム、他のフランス人を見て、「離婚して子どもを育てたから偉い!」なんて単純なことを思うのはやめようと思った。もちろん偉いし立派なのは変わらないのだが、私のような責任も貫禄もない人間がやすやすと「偉いだ」だの「偉くない」だの言えることではない。もっともっとセンシティブな問題なのだと学んだ。愛の国フランスは、私に愛の個人的さ、難しさ、根深さを教えてくれた。
□ライターズプロフィール
小石川らん(Reading life編集部ライターズ倶楽部)
華麗なるジョブホッパー。好きな食べ物はプリンと「博多通りもん」。
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