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週刊READING LIFE vol,120

祖母の死は、麻酔をともなう大手術のごとく《週刊READING LIFE vol.120「後悔と反省」》


2021/03/22/公開
記事:服部花保里(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
冬の寒さがひと段落し、春めいた日が増えてくると、ふと思い出される情景がある。
 
実家の庭に植わった梅の木。それもすっかり盛りを終え、早めのチューリップが咲き始める中、その前に広がるすっかり手が入らなくなった畑。
 
祖父母が健在だった頃には、春には菜の花やジャガイモやイチゴが彩りを添え、夏になるとトマト、きゅうり、なす、スイカがカラフルにならび、秋から冬には立派な大根や人参、サツマイモが土中を、そして食卓を賑やかにした。
 
そんな隆盛を誇った時代があったとは思えぬように、そこには一面ブルーシートが敷かれ、シートの端が風にパタパタと吹かれている。
 
その情景は春の暖かな日差しとは裏腹に、少し心を硬く、冷たくなるような気持ちにさせた。
そうだ、またこの季節が巡ってきた。最愛の祖母を亡くした季節。
 
私は、生粋のおばあちゃん子だった。当時は珍しかった共働きの家庭で、父親は毎日深夜まで仕事。土日出勤もざらな時代だった。一方母親は、小学校の教師で、年がら年中人の子のことでキリキリしている厳しい人だった。さらには年子の妹がいたので、ちょっとやそっとでは誰かに甘えるということはできない環境だった。
 
そんな中、自分の息子である父親に私がそっくりだというのが主な理由で、祖母はわたしのことをめっぽう甘やかしてくれた。物心つくまでは、母親の代わりにどこでもおぶって連れて行ってくれたし、今思えば、良いやら悪いやらだが、泣けばいくらでもお菓子や飲み物を与えられた。
 
いつも妹ばかりが構われるように思っていたが、祖母だけは、喧嘩をしても、誰かに怒られるようなことがあっても必ず私の味方だった。仕方のないことだと今なら思えるが、つねに自分には思いあたることのない事情で、母親から怒られているように感じていた私は、それをとても申し訳なく思っていたし、どうにかして母親に褒められたい、喜ばせたいと思っていた。
 
そして、父親は優しくはあったが、何しろ家にいないので、すっかり頼りにはできない存在になっていた。まもなくして、祖父はなくなり、おそらく祖母も大きな喪失感を抱える中で、そんな寂しい思いを抱えていた私を、より可愛がってくれたのだと思う。
 
私が育った小さな村では、まだ土地や家といった不動産を持っていることが成功の証といった価値観が根強く残っている土地柄で、いわゆる家督相続問題も日常茶飯事だった。それゆえ、私を溺愛していた祖母の口癖は、「お姉ちゃん、この土地がどこよりも一番いいところだから、絶対に家を出て行ってはいかんよ」だった。そして、「こんなに今幸せに暮らせるのはご先祖さまのおかげだよ」と仏壇に何度も手を合わせるのも習慣のごとく身についた。つまり、土地を代々守りぬいてくれたご先祖さまたちがあってこその私たちなのだから、ゆめゆめそのことを忘れないように、ということだった。
 
私は、三姉妹の長女だったので、順当にいけば、この家や土地を一番に継ぐ立場にあった。それは、大好きな祖母に頼られているようで誇らしくもあり、小さな子供にはやや荷が思い話でもあった。しかし、刷り込みというのは恐ろしいもので、いつしか私は、この家を守っていくのだ、そのために自分ができることをしていくのだという一心で人生を邁進していくことになる。
 
何しろ短い人生経験の中で、唯一私を守ってくれる人の言葉である。それはそれは大切なお告げともいえる言葉だったし、当時の私にとって大げさな意味でなく、祖母が私の全てであった。祖母と私は相思相愛。大事なお家を守っていくための共同戦線を密かに張っていた。
 
しかし、いってみればそんな不安定でいびつな関係性に変化が訪れたのは必然だともいえるだろう。何しろ、私はどんどん家の外の情報を吸収して、社会との関わりも増えていく一方で、祖母は転倒事故をきっかけに、体の自由がなくなり、行動範囲も交友関係も狭まっていく道程にあった。
 
私が中学生になる頃には、家の人がいないのを見計らって私の部屋にきては他愛もないおしゃべりをしたり、お菓子やお小遣いをこっそりくれたりする祖母と、少し距離を置きたい気分になることが増えた。そんな時、私はあんなに大好きでかけがえのない存在だった祖母にどこか疎ましい気持ちを感じてしまう自分を認められない気分に陥った。すぐさま謝っては、何かを埋め合わせるように祖母の手を握った。
 
今でも思い出されるその手は、畑仕事でシワシワなのにしっかりした表皮にはツヤがあった。そして、小さい時によくしたように頬にぎゅっと自分の顔を祖母に寄せて深呼吸した。そのたびに祖母はそっと微笑みながらも、次第に私の部屋に訪れることはなくなっていった。
 
いよいよ私の方も、高校、大学へと進学すると、祖母どころか家族のことを省みることすらなくなっていった。家族の些細な天気模様にもどこ吹く風で、友人との時間や、部活動で過ごす時間にすっかり心を奪われて、父親のことを責められないほど家を空けることが多くなった。そんな中で、祖母の体はどんどん弱っていき、いよいよ自宅で過ごすには、家族の負担が重くなってきた。
 
誰かに面倒を看てもらうなんて、まっぴらごめんであるといった風情だった祖母も、いつの間にかすっかりそんな勝気な光は目から失われていた。それに気づいていながら、私は、やっぱり祖母の相手をすることはほとんどといっていいほどなくなっていた。変わらず大切な存在ではあったが、そんな穏やかな気持ちにもまして、刺激的な家の外での時間が心を満たすようになっていた。
 
私は、もう誰も味方がいなかった小さな子供ではなかった。いくらでも、私を認めてくれる存在は外にあり、そこでの自分のほうが、より自由でいられるような気持ちになっていた。
 
祖母は結局、当時ようやく認知され始めていた介護施設での生活を受け入れ、人生の大半を過ごした、そして祖母こそは決して離れたくなかったであろう家を後に、家族とは週に数回の面会をする暮らしに移行していった。そして、我が家からはすっかり祖母の気配は消えていった。それは、祖母にとっては少しずつ家族から離れていくための準備期間のようでもあり、私たち家族にとっても、これから迎える痛みに備えるための、心の麻酔のような日々だった。
 
そして、思いの外別れの日はあっという間にやってきた。
 
私がいつものように大学の部活動を終えて、帰宅しようとしていた際に、祖母がいよいよだと母親から連絡があった。急いで、当時お世話になっていた介護施設にかけつけたが、もう祖母は私たちのことは認識できなかった。最後は、息子である父と父の弟に見送られて、静かに旅立った。
 
後ろめたさを感じ続けながら、行動を先送りにしていた自分を変えられないまま、私は最愛の祖母と別れることになった。その後のお葬式のことも、どう過ごしたのかも覚えていない。唯一しこりのように心に刻まれ続けたのは、「この家を守ってくれ」という、あの大切な約束だった。
 
こうして祖母の死を咀嚼しきれないまま、この約束を果たすことに固執し続けることになった。それは、就職の際も、結婚の際もついて回った。就職は、なるべく土地のことや相続のことに少しでも明るくありたいという思いから、法律事務所を選んだ。結婚の際も、私の家に一緒に住んでくれることが譲れない条件になった。そこに窮屈な思いを感じなくもなかったが、確固たる信念のように根付いた呪文が半ば私を盲目にした。
 
しかし、あれだけこだわっていたにも関わらず、巡り巡って、今はすっかり生まれ故郷を離れ、苗字も手放し生きることになった。そこには、様々な葛藤があったものの、どこか肩の荷が下りたような解放されたような気持ちであるのも正直な気持ちだ。そして同時に、祖母に最後まで向き合いきれずに別れなければならなかった自分を受け止め、後生大事にしていた家を継がねばならないという気持ちに対しても、ようやく折り合いがついてきた。
 
もちろん、二度と会えない祖母の本心はもはや知るよしもないが、別れのときの私の後ろめたさも、家を出る選択をした私の決断も、何も言わずに受け止めてくれるのではないかと思えるようになった。それには、自分も子をもつ親の立場に立てたことが大きいが、年を重ねるごとに、誰しも想像もできなかった道を選ばざるをえないことが、一度や二度は必ずあると実感をもっていえるからだと思う。
 
こうしてみると、私がひっかかっていたのは、祖母が死に際の時に何を思っていたのかではなく、私が祖母の死をどう解釈するかということだったのだと分かる。後悔の念が大きいほど、その解釈には時間がかかるし、大切な人を、死という場面に限らず失うことは、心が未成熟な場合は、それについて思考することすら意識が向かないということもある。
 
人はあまりにも悲しみが大きい出来事に対して、それが受け止めきれない場合には、受け止めないといという防御機能がきちんと備わっているのだと思う。それは、そこに確かにある痛みを一時的に感じないことで和らげる、麻酔のようなものなのかもしれない。そして、生きる上での特殊能力のごとく、その喪失感や人生への影響力が大きければ大きいほど、強めの麻酔を必要とするのかもしれない。
 
私の場合は、信じて疑わなかった家への、故郷への思いが祖母の死と相まって、手放しがたい自分の一部として、支えてくれていたのだと思う。けれども、形式的には、それらをすべて失った今でも、私は当然のことながら、失われることなく生きている。そうなったことを、正常に受け止められるようになった今、ようやく心の麻酔が解けていくような感覚を味わっている。
 
幼い頃、私の口癖は「おばあちゃん、元気で長生きしてね。もし、天国に行っても、たまには私に分かるように合図してね」だった。祖母の死から18年あまりが経とうとしている今、ようやく祖母を見送れるような気がしている。祖母は、もしかしたら、この数年間ずっと私に合図を送ってくれていたかもしれないと、ふと思う。
 
あの日感じた春風に、畑に遊ぶアマガエルに、祖母の合図は隠れていたのかもしれない。祖母のことだから、こっそり二人でいたときのように、そっと合図を送ってくれていたようにも思う。
 
長い間受け取ることができなくてごめんなさい。
今なら、きっと見逃さずに受け止められるような気がしている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
服部 花保里(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

愛知県生まれ、京都府在住の東北ラバー。
2011年に縁あって宮城県仙台市に人生初の引越し。4年間東北6県を営業車で駆け巡った元広告営業マン。おかげさまで雪道高速運転もマスター。以後、全国を転々とするも、東北の地がもつ温かで力強い人の力がエネルギーの源泉となり続け、すっかりこの土地の虜に。この経験を通じて地域の力になる仕事を広くしていきたいと思い、現職にて地域での起業支援にたずさわる。同時に、より地域の魅力を伝える情報発信を目指している。

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2021-03-22 | Posted in 週刊READING LIFE vol,120

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