週刊READING LIFE vol.123

裏切りと偏見《週刊READING LIFE vol.123「怒り・嫉妬・承認欲求」》


2021/04/12/公開
記事:猪熊チアキ(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
 
 
「ふんだ、みんなひどい。みんな私の話を聞いてくれない」
子供のころ、ずっとそう思っていた。
 
私の育った家庭では会話が少なく、子供を褒めることも極めて稀だった。食事中に今日の出来事を話せば、「黙ってはやく喰え」と怒られた。幼い私は、友達の賑やかな家庭が羨ましくて仕方がなかった。子供の頑張りを褒め、楽しくおしゃべりをしてくれる、そんな大人のいる環境が羨ましかった。
 
誰か私の話を聞いてほしい。楽しげに相槌をうって欲しいし、素敵なアドバイスをしてほしい。親とリラックスして話ができる子はずるい。私の心には、沸々と負の感情が湧いていた。小さな水の粒がじわじわと積乱雲を作り、ついには台風になるように、不満と嫉妬は時間をかけて怒りに変わっていった。それが、ちょうど思春期の頃である。
 
「あんた、なんでそんなに言うこと聞かないの!?」
その頃、家庭ではそう叱責されることが増えた。
私は、気難しくて一度怒ると止まらない性格になっていた。じめじめした感情から生まれた気性は、台風さながら周囲をかき乱すほど激しくなっていった。
 
当時の私は、自分でも持て余すくらいに怒りっぽかった。ただ、当時は無自覚だったが、怒りが噴火するきっかけがあった。それは、「みんな」とか「普通」という言葉だ。
「そんなこと考えてるのお前だけだよ。みんなそんなことにこだわってないよ」
「普通の子供はそんなこと言わないよ」
家族も同級生も、友達も、悪気なくそう言う。
「みんなって何? 普通って、具体的にどんな条件? 自分の感覚が一番正しいって思わないでよ」
無性に腹が立ち、怒りのまま言葉をぶつけ、人をイライラさせることがよくあった。
 
大人になった今、当時を振り返ると、怒り狂っていた私は惨めな気分だった気がする。まるで、美味しくないお弁当を無理に食べさせられているような気持ちだった。
「みんな」とか「普通」という言葉を使うのは楽ちんだ。自分の考えを、そのまま常識と改名すればよい。そうすれば、”私”が”みんな”になり、”私”が”普通”となる。わざわざ自分の考えを顧みなくとも、自分と異なるものを”異常”と判断することができる。
 
何の考えもなく常識やきれいごとを持ち出すのは、中身の確認もせず、最初からパッケージ化されたお弁当をそのまま他人に渡すようなものだ。「賞味期限が切れてるかもしれないけど、お弁当なのは確かだろ。お弁当の形をしてるんだから。これでも喰っとけ」。当時の私の状況に翻訳すると、「お前の考えなんてしらないけど、これが常識だろ。理解しろよ」。そう言われている気分だった。
 
「そんなの裏切りじゃないか。ちゃんと私の話を聞いてよ」
私は、常識の押し付けに怒って震えていた。
誰だって、人間として大切に扱われる権利がある。私にだって、人間として真剣に対話してもらう権利があるのに。私の考えを理解すらせず、普通とかみんなとか、お粗末な考え方を押し付けるなんて失礼じゃないか。私の権利を馬鹿にして裏切っているじゃないか。家族も先生も同級生も、私の気持ちを裏切っているだけだ。
 
なぜ昔から、私は話を聞いてもらえないのだろう。
私は誰からも望まれていないのだろうか。それなら、なぜ私はここにいるのだろうか。
段々とそう思いつめるようになり、自分の存在に不安を感じるようになった。自分は生きていても良いのだろうか、と思うようになっていった。
 
最初は「ただ話を聞いてほしい」という願いだったにもかかわらず、寂しさが増大して、私はどんどんと深い人間関係を求めるようになっていった。
誰かに存在を認められたい。対等に扱ってもらいたい。そう深く願うようになった。

 

 

 

20歳頃になっても、誰かと精神的に深い関係になりたいという欲求は変わらなかった。私は恋愛関係によってそれを実現しようとしていた。
 
幸い、気の合う恋人と出会うことはできた。付き合い当初から、私は彼に相当な期待をしていた。この人なら私の話を聞いてくれるはず。この人なら私のことを分かろうとしてくれるはず。実際、話も合えば趣味も合って、しばらくは何の問題もなく交際が進んだ。彼は私の話を辛抱強く聞いて丁寧に返答もしてくれており、私はその度に満足していた。
 
私は有頂天だった。思春期の頃の辛い思い出が解きほぐされたかのような感覚になった。こんなにしっかり話を聞いてくれる人に出会えるなんて。思春期のときの経験は今のためにあるのかも……。彼とは出会うべくして出会ったのかもしれない。そんな風に思っていた。
 
しかし、出会いがあれば別れがあるものだ。彼との恋愛関係は解消することとなった。原因は多いが、その一つは私が彼に頼りすぎていたことだった。つまりは、私の話を聞いてくれることが嬉しすぎて、彼に遠慮が無かったのだ。自分の話ばかりしてしまっていたし、彼の話を聞くことは少なかった。
 
私は人生最大に落ち込み、3か月ほど寝込んだ。思春期に爆発した”話を聞いてほしい”という欲求が、こんなに歪んで出現するとは。彼は私と対等でありたいと願っていたのに、私はその思いを裏切ったのだ。
そのとき、聞き覚えのある言葉に胸が痛んだ。裏切り。思春期の私も、その言葉を使っていた。話を聞いてくれない家族や同級生に対して。では、私はどんな風に彼を裏切ったのだろう。
 
私は、フトンの上でハッとした。
彼への裏切りは、”期待”だった。
 
彼は特別なはずだ、彼なら私がどんな話をしても聞いてくれるはずだ……。私は彼にこんな期待をしていた。いくら浮かれていたとはいえ、彼だってただの人間なのに、ただの人間以上の期待をしていた。
それは、私が思春期の頃から嫌っていた偏見や決めつけと言うやつではなかったか。あのとき私は、「普通」とか「みんな」という言葉が大嫌いだった。大抵、同級生や先生にとっての普通と、私にとっての普通は一致しなかった。”普通”とは事実ではなく思い込みだからだ。
それと同じで、彼ならきっと無限に話を聞いてくれる……わけないじゃないか。人間だから飽き飽きもするし、限界だってある。「彼ならきっと」というのは、長年抱いてきた寂しさが作り上げた偏見だった。
 
ああ、私のバカバカバカバカ。なぜこんなことに気づかなかったんだろう。
私は自分の愚かさに目が回って、なぜ自分が生きているのか分からなくなった。

 

 

 

何日間フトンの上で転がったのか分からなくなったとき、あることに気づいた。
 
私は彼に偏見を持っていた。だが同時に、自分自身にも偏見を持っていたのだ。
私の話なんか誰も聞いてくれない。私は怒りっぽくて嫌われやすいから。だから、この世に存在して良いのか不安だ……。
思春期の頃の怒りや不安が強烈過ぎて、大人になってもこんな思い込みをしていた。だから彼に話を聴いてもらうことで、不安を解消してもらいたがっていた。誰かに話を聴いてもらえる存在ならば、生きている意味があるかもしれないと思っていた。
 
布団しか視界に無い真っ白な世界で、私は考えた。
本当に私は、生きる意味すら曖昧で、不安な存在なのだろうか?
仮に私が、怒りっぽくて嫌われ者で、誰からも話を聞いてもらえない人間だとする。そうだとしても、世の中に存在しなくてよい理由などあるのだろうか。
 
そもそも、思春期の私が怒ったのはどんなときか。
それは、私という存在が、偏見というつまらない想定に取り込まれそうになったときだ。私の本音が、多数派の意見にたやすく塗りつぶされそうになったときだ。
「私は貴方の思っている私とは違う。決めつけないで」
そう叫びたくなったときだ。
 
叫ぶことで、当時の私は伝えようとした。家族の望む無難な子供ではなく、私らしくありたいと。普通には当てはまらない意見を持っているからこそ、他の人にも私に興味を持ってもらいたいと。
家族が私の話を聞かなかったのはなぜか。それは単純に、家族の想定する私と、実際の私が異なっていたからだ。家族は私に理想の子供になって欲しがったが、私は怒りを以ってそれを拒否していた。
同級生や先生が私の話を聞かなかったのはなぜか。おそらく、大した理由はないだろう。強いて言うならば、怒る人間をまともに相手にするのが億劫だっただけではないか。
 
「なあんだ……」
不意に、胃袋のそこから声が出た。
私を縛り付けていた思い込みだって、真相はきっとこんなものだ。身体から一気に力が抜け、今まで身体を縛っていた鎖が解けたような気分になった。
 
思春期の私の怒りは、自分を救うための武器だった。自然な自分自身を抑え込むのではなく、そのままの姿で社会と関りを持ちたかったのだ。本来なら家族とも上手くやりたかったし、同級生や先生にもスムーズに意見を伝えたかった。しかし、子供で世渡りを知らなかったから、怒りという武器しか使うことができなかった。
 
私はかつての自分を、初めて誇りに思った。私はただ、他ならぬ私のために戦っていたのだ。「私はここにいる」、「みんなや普通とずれているところがあっても誇らしい存在なんだ」と一生懸命に主張していた。
 
私はもう、生きていてよいのか不安に思うことは無かった。こんな私がこの世の全員に嫌われているわけがない。そんな思いと共に、温かい気流が身体の中に流れてくのを感じ、力が湧いてきた。

 

 

 

「チアキさんて、話しやすいですよね。こちらの話をよく聞いてくれるから、私も自然に話せるんですよね。それに、チアキさんの話も聞きたいなって思います」
不思議なことに、思春期の私を誇りに思ったあの日以降、そう言われることが増えた。大変ありがたいことだ。
 
私は私に偏見を持つことをやめた。私自身を裏切ることをやめてみることにした。すると、不要に力まなくなったのか、力を抜いて人と関わることができるようになってきた。自然に人の話を聴き、自分の話もできるようになった。これは、思春期の私が守りたかった、自然体の私なのではないだろうか。人を尊重したうえで自分のことも表現できる、そんな姿に近づくことができているのかもしれない。
 
とはいえ、私はこれからも必要に応じて怒るだろう。私に”普通”や”みんな”を当てはめようとする行為に対して。それは、思春期の私の思いを受け継いで、私自身がやらなければならないことだ。素直な姿の私を守るために。

 

 

 

「ふんだ。何でみんな、私の話を聞いてくれないの」
 
怒ってばかりだった私に伝えたい。
私は今、とても過ごしやすいですよ。それは、ありのままの私を一生懸命守ろうとしてくれた、貴方のおかげなんです。
寂しさに飲み込まれるときがあるだろうけど、自信を失わないでください。たとえ生きる意味が分からなくなったとしても、あなたなら自分でまた見つけることができます。
 
私のために頑張る私でいてください。そうしたら、たくさんの人の話を聴くことができるし、たくさんの人があなたの話を聴いてくれます。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
猪熊チアキ(READING LIFE編集部 ライターズ俱楽部)

平成初期生まれ。友人がほとんどいない思春期を過ごし、文系大学へ進学。人体の解剖学の本を描き映すこと、川や滝を眺めることが趣味。現在は2Dや3DCGの映像制作を勉強中。

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2021-04-12 | Posted in 週刊READING LIFE vol.123

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