週刊READING LIFE vol.130

自由を選びタイタニック号から飛び降りる《週刊READING LIFE vol.130「これからの旅支度」》


2021/05/31/公開
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
金曜ロードショーで名作タイタニックを放映するというので、久々に見た。
20年も前の作品ではあるが、ネタバレが嫌いな方はご注意されたい。
 
レオナルド・ディカプリオ扮するジャック青年が声優の石田彰の吹替だということで、インターネットは俄に盛り上がっていた。石田彰は鬼滅の刃の猗窩座という悪役を務めたことで注目されているが、彼は1990代以前から数々のイケメン役をこなしてきた超実力派声優なのだ。映画館でも地上波でも何度も見たので、内容よりも石田ジャックを堪能しようくらいの気持ちで洗濯を畳みながら観たのだが、すっかりストーリーに引き込まれてしまった。
 
最初にタイタニックを観たのは高校生の時だった。部活の同僚と一緒に映画を観て、感激のあまり号泣して溺れそうになったのを今でも覚えている。当時厨二病だった私は「この私がこんなに泣くなんてこれはすごい映画だ!」と斜め上からの偉そうな論評をしたものだが、なんてことはない、没入して号泣するような作品に出会ったことがなかっただけなのだと今にすれば思う。
 
若い思い込みが消え去ったアラフォーが観ても、タイタニックは素晴らしい作品だった。主人公ジャックとヒロインのローズの運命の恋と悲劇だけでなく、処女航海で沈没したタイタニック号に乗り合わせた一人一人に可能な限りスポットを当て、その人柄と死を丁寧に取り上げている。操舵室で最期を迎える船長、最後まで演奏し続けた楽団、人々に黙示録を説く牧師、正装で沈没を待つ紳士、ベッドで抱き合う老夫婦、夫と離れたくないと救命ボート乗船を拒否した妻、泣いている子供と一緒に水に呑まれた父親、赤ちゃんを抱えたまま海中で凍死した母親、船室で子供に童話を語り聞かせる母親。今の私にはとりわけ家族が引き裂かれるシーンが、ジャックとローズの悲劇以上に胸を抉った。
 
史実でも映画でも、タイタニック号は効率重視のために防災設備を削り、乗客全員分の救命ボートを積んでいなかった。そのため乗客たちは事故後「ボートに乗れる人」「ボートに乗れない人」に選り分けられることになり、当時の価値観にのっとり、「女性・子供」が優先された。また、暗黙知のように一等客室の乗客から優雅に救命ボートへと案内され、二等・三等の乗客は長い事待たされることになった。一等の乗客を乗せる時、ボートの最大人数よりかなり少ない人数しか乗せなかったことも有名で、これも映画内で忠実に再現されていた。現代から見ると重篤なコンプライアンス違反であるし、こうした事故があったからこそ防災設備搭載義務が厳格化していったともいえる。とにかく映画内では一等の乗客、貴族やお金持ちと言えるような客層が、自分の命と特権階級としての扱いを求めたことに嫌悪感を抱くようなシナリオに仕立てられている。終盤、救助された人々がアメリカに辿り着き、自由の女神を仰ぎ見るシーンは、「身分のない自由な国アメリカに辿り着いた」ことを強調させているようで、実にハリウッドらしいな、と思ったものだ。
 
映画評は素人なのでこれくらいにしておくが、何度見てもこの選り分けられるシーンは鼻持ちならない心地にさせてくれる。ボートが人数分あればみんな助けることが出来た。一等の客がぎゅうぎゅうに乗船すればあの赤ん坊は乗せてあげられた。どうして罪もない人たちがこんな目に遭わなきゃいけなかったんだ。久しぶりにボロボロ泣いてカタルシスを得ながら、すっかり寝入った息子と娘をがっしと抱きしめに行き、二人のお地蔵さんのような無邪気な寝顔にまた涙した。もし私がタイタニック号に乗船していたら、この二人を守ることが出来るだろうか。それとも全てを諦めて、せめて怖い思いをしないようにと、あの母親のように楽しい話をするだろうか。
 
考え始めると止まらなかった。「女性・子供」はボートに乗せてもらいやすいから、私と子供二人なら救命ボートに乗れる可能性は高い。だがそうすると夫だけ取り残されることになる。ヒロインのローズは一度はボートに乗るも、恋人のジャックと永遠の別れになることを予感し、ボートから飛び降りた。沈み行く船の甲板からローズを見下ろすジャック、その背後で救難信号の花火が場違いに華やかに舞う。高校生の私の涙腺が崩壊した屈指の名シーンだ。もしそれが夫だったら、私はローズのようにボートを飛び降りるだろうか? 私の横に息子と娘がいたら、彼らを守らなければと、永遠の別れの方を選んでしまうかもしれない。子供がいなければどうだろう、私は泳ぎが得意だからなんて言って、二人して勇み足で海に飛び込んでいただろうか。四人ともボートに乗れず海に入る羽目になったら。救命胴衣は必須、厚着をして、子供達だけでも水に浸からないで済むように、椅子かテーブルと一緒に飛び込めばあるいは……。いや、やっぱり、極寒の海に入る時点で子供は死んでしまう。子供は絶対ボートに乗せなくちゃ。ああでもそれだと夫が乗れない、吉田家が全員助かる道はないのか。
 
何日考えても結論は出なかった。映画タイタニックに留まらず、史実のタイタニック号沈没事件、その他海難事故や航空機事故、遭難事故、天災などの事例を片っ端から検索して、生存者の体験談を読んでは自分自身に置き換えて検証してみた。運としか言いようがないケースもあったし、たまたま持っていた道具で九死に一生を得た人もいた。やはり水泳が出来た方がいいし、体力があるに越したことはない。 ホイッスルがあると見つけてもらいやすくなる。SOSのモールス信号はこう……。しょうもないもしもの話と言えばそれまでだが、子供を、家族を守りたいと思えば思うほど、自分の無力さに打ちひしがれ、より確実なノウハウを求めて検索と思索を繰り返した。
 
私が頭の中で何を考えていようと、子供たちは無邪気に日々を過ごしていた。小規模保育園を卒園してマンモス幼稚園に入園した息子は、マスクに自分で名前を書かせろと泣く。今日はこっちのピンクのマスクがいいと泣く。先生が立つ門ではなく下駄箱まで付き添ってくれと泣く、下駄箱に行ったら行ったで、靴を脱がせてくれ上履きを履かせてくれと泣く。家では自分で履いて勝手に外に出てヒヤリとするくらいだから、単に寂しくて甘えているのだ。娘は娘でまだ生まれて数ヶ月、むっちむちに体重こそ増えたが、出来ることといえば猫のようにみゃーみゃー泣くだけ。二人を連れて出かけようものなら、ありとあらゆることを想定して山のような荷物になってしまった。お漏らしをしたらどうしよう。服を汚したらどうしよう。息子は疲れて抱っこをせがんでくるかもしれない。具合が悪くなって、急に医者に行くようになるかもしれない。ちょっとしたお菓子も持っていた方がいいかもしれないな。もともと何かに備えるのが好きな性分なのか、あっという間にマザーズバッグはパンパンに膨れ上がった。
 
ある雨の日、娘を夫に預け、息子を幼稚園に迎えに行った。家と幼稚園の往復くらい手ぶらで行ってもよさそうなものだが、私は手提げにティッシュやらタオルやら着替えやら、思いつく限りあらゆるものを詰め込んでいた。困ったことが発生した時、きちんと準備された防災設備のように必要なものがさっと出てくる、そう思うと少しだけ安心することが出来た。息子は迎えに来た私の姿を見つけると上機嫌で駆け寄ってきた。こんなに可愛らしくて無邪気な息子。一人で出歩くことすら危なっかしくて不安になる小さな子供。この子をしっかり守って無事家まで帰らなくては。そんな使命感を胸に、朝履いてきた運動靴ではなく、持ってきた長靴を履かせてやると、息子は上機嫌で水たまりに飛び込んでバシャバシャやりはじめた。
 
長靴を持ってきてよかった。運動靴であれをやられたら大惨事だった。
やっぱり、備えあれば憂いなしなんだ。
 
「……タイタニックみたいにね」
 
ボートの数が足りないと分かっていながら出港したタイタニック号は、そのせいで多くの犠牲者を出した。出港する時にボートをしっかり積んでさえいれば良かったのだ。あらかじめ何が起こるのかを想定して、それに必要なものを持っておけば、大事故は防ぐことが出来る。そうすることが息子と娘を守ることにつながっていくんだ。運動靴を入れたレジ袋をぶらぶらさせながらそんなことを考えていると、見知らぬ女の子が私たちのところに駆け寄ってきた。
 
「ねえ、そのこ、おんなのこ?」
「男の子だよ」
 
私に話しかけてきた女の子は、訝し気な視線を息子に向けた。
 
「じゃあ、なんでピンクのマスクなの?」
「……どういうこと?」
 
彼女の意図することは一瞬で理解できたが、敢えて私は聞き返す。
 
「ピンクはおんなのこのいろだよ」
 
どこか怒ったような口調で女の子は答えた。男の子がピンクのマスクをするのは変だというのだ。確かに息子はピンクが好きで、上履きもピンクだし、ピンクの服も何着か持っている。特定の色と性を結びつけることに対する疑問視も一般的になりつつあり、私もそれに賛同していたので、息子がピンクを欲しがったらその意に沿うようにしていた。
 
「…………」
 
私はピンクは女の子の色と決まっているわけではない、誰がピンクを持ってもいいんだよ、と言ってみたが、当然女の子が納得するはずもなかった。決まってるよ、と断言する彼女に、誰が決めたのか知ってるか、と少し意地悪な質問をしてみると、しばらく考えてから「おみせのひと」と答えた。名前は知らないけれど、お店の人が言っていた。だから決まってるんだよ。怒ったような、押しつけがましいような物言いをしていた彼女は、母親に呼ばれた途端バツが悪そうな顔をし、何事もなかったかのように私たちのところから走り去ってしまった。
 
すぐ横では息子が我関せずで棒切れで砂地にお絵かきをしている。
 
彼は一体どんな心境で彼女の話を聞いていたのだろうか。特に深く考えずにピンクのマスクをつけて登園させたが、今のように誰かにやっかみを言われたりしていないだろうか。なかなか園での様子を話してくれないのでやきもきしているが、話してくれないのは悲しい出来事があったからではないのか。私を助けるものがたくさん詰まっているはずの手提げには、息子にかけるべき言葉も、あの女の子に伝えるべき言葉も入っていない。
 
「…………」
 
私は大きな思い違いをしていた。子供を守るという字面から、事故や天災を想定していろいろな準備をしていたが、それだけでは子供の心を守ることはできないのだ。身体が傷つくような事故はよほどのことがないかぎり起こらないが、心が傷つくことは意外と頻繁にある。大人の私でさえ、マスクの色を指摘されただけで気分を害し、悲しい気持ちになった。まだ三歳の息子が面と向かって言われていたら、どれほどのショックだっただろう。私自身が子供の頃の苦い体験を思い出すと、身の毛もよだつような思いがする。そんな思いを息子にさせるわけにはいかない。
 
「ゆーたん、帰ろうかあ」
「うん」
 
息子は分かっていたのかいないのか、ケロッとした様子で私と手を繋いで歩き始めた。これは下手に話題をほじくり返さない方がいいのだろうか。特にショックを受けていないなら、親が深刻な顔で説明すると、ショックを受けるべきことだったのか、とかえって学んでしまうのではないか。それならいっそ、やっかみを受けないようにピンクの持ち物を持たせないようにするべきだったか。悲しい思いをしないように、先回りをして、しっかり準備をして……。
 
別の水たまりで遊び始めた息子の笑顔が、タイタニックの情景と重なる。
船の舳先でジャックとローズが両腕を伸ばしているあのシーンだ。
 
若い二人は、自由でいることを何よりも重んじていた。ジャックは新天地で絵描きの仕事を探すためにタイタニック号のチケットを手に入れたし、ローズはしがらみだらけで愛のない婚約を断ち切り、ジャックと生きていく決意をした。だから彼女はボートから飛び降りたのだ。飛び降りた先にはもうボートはない事を知っていたにもかかわらず、それでも自由を選んだ。その上で最後まで生きることを諦めず、懸命にもがいている様が何よりも美しく胸を打たれた映画だった。だからこそ私もそこにいたら、と思い、有り得ない仮定の話をいつまでも考え続けていたのではないか。息子からピンクを奪うことは、彼の自由を奪うことになる。自由を奪われた先にある私が用意した安全は、息子が本当に望むこととは違うだろう。息子はこれから、どんどん自分の船で航海に出て冒険をするのだ。その冒険の困難そのものを取り除いてしまうのではなく、困難を乗り越えるために、あるいは回避するために、旅支度にボートやコンパスやらを添えてやるくらいがちょうどいい。それで船が転覆して戻ってきたら、美味しいご飯を食べさせてやればいい。
 
「ゆーたん、ピンク好き?」
「うん、すき!」
「そうかあ、ママも好きだよ!」
「おんなじだあ」
 
嬉しそうに水たまりで飛び跳ねた息子の水しぶきが、出発の合図ように思えたのだった。

 

 

 

考えに考えた末、もしも吉田家がタイタニック号に乗船していた場合の必勝方法を編み出すことができた。まずやはり何と言っても一等客室に乗船していることが望ましい。そして家族全員でボートに乗ることを目指す。四人揃っていると夫は拒否される可能性が高いので、息子と私、娘と夫のペアに分かれ、全く他人のふりをする。映画の中でも、登場人物の一人が見知らぬ子供を抱いてボートに乗り込む描写がされているので、この方法なら四人確実に助かることが出来るはずだ。しょうもない妄想ではあるが、納得できる答えを得たことでひとまず私の心は落ち着いた。
 
タイタニック号の事件当時ほどではないが、現代社会でもある程度の格差は存在する。息子の自由にとはいいつつ、その自由の範囲について、本人の努力だけではどうしようもない場合もある。
 
息子も娘もしっかり一等客室に乗れるよう、夫ともども尽力してやりたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)

1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」、取材小説「明日この時間に、湘南カフェで」を連載。
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2021-05-31 | Posted in 週刊READING LIFE vol.130

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