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週刊READING LIFE vol.132

チェコのパンツ《週刊READING LIFE vol.132「旅の恥はかき捨て」》


2021/06/29/公開
記事:大多喜 ぺこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
1989年11月10日にベルリンの壁が崩壊した。
1989年11月17日、チェコスロバキアではビロード革命と呼ばれる静かな革命が起こり、民主化した。
その1ヶ月後には、ルーマニアで流血の革命が起こり、東ヨーロッパの国々が次々と民主化をした。
 
その頃、我が家は、イギリスに住んでいて、夏休みにヨーロッパ大陸旅行をした。
そして壁崩壊直後のドイツを訪れた。
ヨーロッパの長距離電車は、コンパートメントと呼ばれる六人がけの個室になっている。
私たち親子三人が座っていた自由席のコンパートメントには、他に、イタリア人、旧西ドイツ人、イギリス人がいた。
 
ベルリンまでは長旅だ。
程なく親しくなった私たちは、たわいもない話に花を咲かせた。
 
そんな中で、居合わせた旧西ドイツ人に
「東西がひとつになってどう?」
とありきたりな質問をした。
彼は、
「経済格差がすごかったから、あちこちで、大変だよ」
といくつかの具体例を話してくれた。
能天気な私は、
「それでも、統一してよかったでしょ」
と聞くと、しばしの沈黙の後、
「うん、そうだね」
と彼は答えた。
その予期せぬしばしの沈黙に、彼の、無知な異国の人には伝えきれないと判断したのであろういろいろな思いが込められている気がして、私は、次の言葉を失った。
すると、彼はもう一度、私の目を見てにっこりしながら、
「うん、統一してよかったと思うよ」
と答えた。
 
和気藹々と話していたドイツ人、イタリア人、イギリス人、日本人が沈黙したのは、たまたま息子を膝に乗せていたために一つだけ空いているようにみえた席に着膨れした女性が入ってきたからだ。
 
その年は、例年より暑いと言われていた。
北ヨーロッパの電車は、暖房対策はできていても冷房対策はない。
窓を開けていても暑いそんな中に、彼女は、どう見ても10枚以上は重ね着をしたまんまるに着膨れした姿で入ってきた。
 
ニコニコと愛想のいい中年の女性で、
「空いていますよね。いいですよね」
と誰の返事も待たずに、その大きな体を空いていた私の隣のスペースに押し込んだ。
 
空いていたと言っても、息子の席だったので、断ることもできたのだが、そんな言葉をかけられないような強引な行動だった。
 
沈黙したのには、もう一つ大きな理由があった。
 
彼女から立ち込める異臭が、すさまじくて、誰もが息をひそめたのだ。
 
何日も体を洗っていないのではないかと思えるような腐ったチーズのような匂い。
それに、その厚着で、汗の匂いも混じっているのだろう。
 
全員が、無意識に鼻や口を手やハンカチで押さえた。
 
彼女の前に座っていたイギリス人女性が、駅に着いたわけでもないのに黙って席を立ってコンパートメントから出て行った。
 
それを見ると重ね着の彼女は、通路に出ていき、家族を一人連れてきた。
「空いたから座りなさい」
その少年も、苦しそうに着膨れしていた。
そして、同じように異臭を放っていた。
 
狭いコンパートメントは、たちまち異臭で満たされこれまでそこにいた全員がその家族にネガティブな気持ちを持った。
 
このままベルリンまでがまんできるだろうか。
匂いに敏感な私は、夫に
「ちょっと外に行ってくる」と言って息子を膝から下ろして外に出た。
 
他に空いているコンパートメントがあるかを探しに行ったのだ。
新鮮な空気が嬉しかった。
しかし、どのコンパートメントも満席だった。
それどころか、デッキまで行くとそこに、同じように着膨れた数人の人たちがたむろしていた。
座席がみつからなかったのだろう。
着膨れした人たちは、大きな紙袋や風呂敷のような包みをデッキに積み上げていた。
 
旅行というより夜逃げという風情だ。
 
コンパートメントに戻ると、あの着膨れした女性が、陽気に一人で話している。
話しかけられたイタリア人もドイツ人も顔を背けている。
口臭もすごかった。
 
聞くともなしに聞いていると、彼女はルーマニアからベルリンに行くところだという。
家族や親戚とベルリンで新たに生活を始めるのだそうだ。
それであの大量の荷物が理解できた。
持てるだけの荷物を持って、着られるだけの洋服を着て人生をかけてこの電車に乗ったのだろう。
 
ルーマニアの独裁的権力者チャウシェスクが処刑されたニュースは世界中に広がり、わたしも、詳しくはないがルーマニアの状況が厳しいものであることは知っていた。
 
彼女のことを迷惑な乗客だと思った自分を恥じた。

 

 

 

それから10年、今度は、スウェーデンに赴任することになった。
家族も一人増えて娘が生まれていた。
私たちがヨーロッパに来たので、日本で知り合ったヨーロッパ人四家族でルクセンブルグに集まって、ミレニアムのニューイヤーズデーを祝おうということになった。
 
せっかくの機会だから、あの後東欧がどうなったか見に行こうということになり、私たち家族は、フェリーでドイツに渡り、ベルリン、チェコとドライブした。
 
チェコスロバキア国境が近くなると、幹線道路脇にいかがわしい雰囲気の店が立ち並ぶ。チェコにはない遊びをするためにドイツに来る人たちを狙っているのだという。
逆にチェコに入るとガソリンスタンドに長蛇の列。
ドイツに行く人、帰る人が、ガソリンの安いチェコで給油をするために国境近くのガソリンスタンドはいつも混んでいるのだそうだ。
 
チェコをドライブしていると、あちこちに軍国主義だった時代の名残が見える。
戦車が、そのまま乗り捨てられていたり、軍人の大きな立派な像があちこちに建てられていたりする。
なのに市井の人々の住む建物は質素で小さい。
寒々しい季節と相まって、見えるものすべてが寂しく見える。
 
プラハに入ると、景色は一転。
美術館の中を走っているような気持ちになれる。美しい街だ。
私たちは、ツーリストインフォメーションでホテルを紹介してもらった。
「今日は混んでるからね」
紹介されたホテルに行って空き状況を聞いた。
「タブルベッドの部屋が一つだけしか空いていない」
ダブルベッドとはいえ四人では狭い。
 
他を探すことにした。
12月にそんなにたくさん観光客が来ることはないだろう。
首都プラハならきっと空いている宿もあるはず。
これが大きな間違いだった。
その後、どのホテルに行っても満室、満室。
12月のチェコは、すっかり真っ暗。土地勘もない中、ツーリストインフォメーションも既に閉まり、もう一度あのホテルに戻ったが、時すでに遅し。満室。
 
私たちは、郊外に向かった。
プラハを外せば、きっと宿はあるだろう。
 
ヨーロッパの幹線道路脇にはモーテルやB&Bなどの宿泊施設があり、外から見えるように「空きあり」の表示が出ている。
 
「空きあり」の表示を探してドライブするも見つからない。そもそも宿らしきものがない。
レストランもみつからないまま、時計を見たら既に夜中の2時。
 
ドライバーの夫はどんどん不機嫌になる。
凍結したチェコの道は、いくら冬タイヤでも、きつい坂道では滑る。ちらほら雪も降っている。
子供たちは後部座席で、重なるように寝ているが、このまま一晩中走り続けるわけにもいかない。
 
と、そんな時、暗い中に「空きあり」の表示が見えた。
宿は寝静まっている。家中の電気は消えている。
でも、背に腹は変えられない。
思い切りドアをノックし続けると、電気がつき、ぽっちゃりとした女将さんが眠い目を擦りながら出てきた。
 
「夜遅くすみません。宿がないんです。子供がいるんです。泊めてください」
と頼み込むと、英語はよくわからないようだったが、私の必死さに状況を理解したようで、招き入れてくれた。
 
値段交渉の余裕もない。
泊めてもらうしかないのだ。
 
心地よくベッドで寝た後、食堂に降りていくと、女将さんは朝食を用意してくれていた。
食堂の壁には、鉄製のコカコーラの看板や印刷の悪いポスターが飾られていて、昭和30年代に戻ったような気がした。
 
朝食も真っ赤な懐かしいソーセージが皿の上に乗っていた。
 
改めて、夜中に叩き起こしたことを詫びると、手を振りながらニコニコとチェコ語で何か言った。
「大丈夫、大丈夫。わかっているから」
と言っているように聞こえた。
 
私たちは、お礼を言うと、信じられないほど安い宿代を払って、また、プラハに戻った。
今度は、先に宿を決めておこう。
 
ツーリストインフォメーションで紹介された宿は、中心地にほど近いこざっぱりとしたモーテルのような宿だった。
管理人の小柄なおじさんに、
「コインランドリーはないか」
と尋ねた。
「コインランドリーはない」
「洗濯機は借りられないか」
「貸すことはできないが、洗濯物を渡してくれたら洗っておくよ」
と言う。
しかも、洗濯機いっぱい分なら、同じ料金。
 
スウェーデンの家を離れてからまだ、一度も洗濯をしていない。
これは助かった。
大きなビニール袋に、みんなの洗濯物が溜まっている。
下着もあるので気が引けたが、これまた背に腹は変えられない。
12月のチェコでは、手で洗ったのでは寒すぎるし、乾かない。
 
翌日、観光から帰ってくると、部屋の中に、畳まれた洗濯物が置いてあった。
家族ごとに分けていると、娘のパンツが1枚しかない。
小学1年生の娘に、
「パンツ替えてないの?」と聞くと
「毎日替えている」という。
とすれば、最低でも3〜4枚のパンツがなければおかしい。
 
管理人のおじさんのところに確認に行く。
「子供の下着が足りないのだけど、他の人の洗濯物と混じってはいないか」
「いや、あなたの家族の洗濯物だけで洗っているから他の人と混じることはない」
「一応、洗濯機を確認してください」
「やっぱりないよ」
「どこかに落としたとかそういうことはないですか」
「いや、預かったものは全部返したはず」
 
部屋に戻ってきて、夫と話す。
「私のパンツはあるのよね。娘のだけがないの。怪しくない?」
「そういえば、ちょっと、得体の知れないおじさんだよね」
「絶対毎日履き替えていたっていうから、最低でも3枚ぐらいは入っていたはずなのよね」
「そりゃ、怪しいな」
「気持ち悪いよね。でも、知らないっていうものどうしようもないしね」
 
おじさんへの不信感が募る。
 
翌朝、出発の時に、管理人のおじさんは紙袋にお菓子や飲み物を山ほど入れて持ってきた。
「車の中で、食べて」
「ありがとう」
と受け取りながらも、あ、やっぱりやましいからこんなものをくれるんだ、と疑いが募る。
だって、たかだか2泊しかしていない旅行者家族に、山ほどのお土産をくれるなんて不自然。
チェコはまだまだ貧しい国だ。
 
話しかけてくるたびの笑顔もなんだか嘘くさい。
そのおじさんのくれたお菓子もなんだか気味が悪い気がする。
パッケージも古めかしいし、大丈夫なんだろうか。
 
その夜は、ドイツに戻り、宿泊。
着替えを探している娘が目に入った。
 
なんと、なんと、娘は、汚れ物袋から下着を取り出している。
 
「それは、洗濯する用の袋だよ。洗ったのはこっち」
「え、いつもここから出してた」
 
あ、それで全ての謎が解けた。
娘は、汚れ物の入った袋から下着を取り出し、その日の汚れた下着をその袋に入れて、と、1日おきに同じパンツを履いていたのだった。
どうりで、1枚しか洗濯されてこなかったわけだ。
 
あのおじさんの袋いっぱいのお土産は、本当に善意だったのだ。
あのおじさんの笑顔は、初めて見る日本人家族への心からの歓迎の笑顔だったのだ。
 
ごめんなさい。おじさん。
2度と会うことはないだろうおじさんに本当に心から詫びたのだった。
 
チェコは、とても貧しかった。
走っている車も、日本ではとうにお目にかかれなくなっているような古いタイプの車ばかりだった。
お菓子も、料理も、素朴なもので、私たちは昭和30年代にタイムスリップした気がした。
 
夜中に叩き起こしたわたしたちを笑顔で暖かく迎えてくれた宿屋の女将さんも、難癖をつけたにもかかわらず、子供たちが車で食べられるようにと精一杯の好意を示してくれた管理人のおじさんも、その人情も、昭和30年代にスリップしたようだった。
 
フランクフルトもルクセンブルグも日本もピカピカの最新車が走り、高層ビルが立ち並び、おしゃれな看板で、溢れている。
 
でも、あの暗くて寒い12月のチェコで出会った人たちの素朴な暖かさを思い出すと、申し訳なさとともに、感謝の気持ちでいっぱいになる。誰かのために役に立ちたい、喜ばれたいという人の本来持っている豊かな情愛に満たされる。
 
あれから我が家では、自分が悪いのにネガティブな思い込みで人を判断するような時、「あ、チェコのパンツだ」と言うようになった。
 
そしてその言葉は、我が家のメンバーに、食べ物がいっぱい詰められたあの日の紙袋を思い出させる。あの袋に詰まっていたのは、食べ物ではなかった。おもいやりだったのだ。
 
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
赤羽かなえ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県在住。慶応義塾大学文学部卒。フリーライター力向上と小説を書くための修行をするべく天狼院のライティング・ゼミを受講。小説とイラストレーターとのコラボレーション作品展を開いたり、小説構想の段階で監修者と一緒にイベントを企画したりするなど、新しい小説創作の在り方も同時に模索中。

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2021-06-28 | Posted in 週刊READING LIFE vol.132

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