週刊READING LIFE vol.135

「愛の国」の人たちに学んだこと《週刊READING LIFE vol.135「愛したい? 愛されたい?」》


2021/07/19/公開
記事:清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「愛したい? 愛されたい?」
こういう、人間の根本的な問いのようなものを突き詰められたとき、たとえそれが気軽な会話の中であっても、いつもことばに詰まってしまう。
 
人と比べることができないからわからないけれど、この理由はきっと、私が浅はかで、これまでものごとをあまり深く考えないで生きてきたからかもしれない。
もしくはどんな関係であれ、他人と深くかかわることを避けてきた代償かもしれない。
 
いずれにしても「愛」を考えるとき、苦みを感じる思い出がある。
 
これは遡ること8年前、20代も後半に差しかかったころの話だ。
周りの友人たちが結婚・出産したり、昇進したりするなか、私は恋愛や仕事なんてそっちのけでフランス語の勉強に励んでいた。
 
「そっちのけ」なんていうと、まるで自分の意志で恋愛や仕事を選ばなかったみたいに聞こえるけれど、今思えば、全然そんなものではない。
 
恋愛したくても、相手に振り向いてもらえない。
たとえ誰かをいいなぁと思っても、自分なんて彼の横にいる価値がないと本気で思った。
思いが大きくなるよりもだいぶ前に自ら心の蓋をしてしまえば、傷つかなくてすむのだから。
 
仕事だっていまいち成果がでない。
頑張れば頑張るほど自分の不甲斐なさに直面して、それが辛かった。乗り越えられなかった。
与えられた役割さえ果たしていれば、褒めてもらえることはなくとも、少なくとも非難されることはない。
 
語学はもともと好きだったけれど、今思うと、あの頃はそんな自分が本当は嫌で、その悔しさを語学という「第三の道」にぶつけていたところもあるかもしれない。
 
語学学習だったら、他人とかかわらなくてもひとりでできる。
便利なことに、フランス語にも英検と同じような検定試験があって、それは私にとって格好の機会だった。
なぜなら検定は5級から1級までのステップがあって、恋愛や仕事とは異なり、自分が頑張れば頑張ったぶんだけ結果が確実にあらわれるから。
私はしばらくの間、検定試験の勉強にのめりこんでいった。
2級まではとんとん拍子で合格したけれど、それ以降がなかなか厄介で、思うように結果が出ない。
 
そんな時だ。
縁あってひとりの男性に出会った。
出会った、といっても直接会ったわけではなく、メールのやりとりから関係が始まった。
はじめのうちは、自分の語学のブラッシュアップに良い機会だと気軽な気持ちでいた。
身近な人たちにかかわるときと同じように、自分の感情や人格は自分で殺して付き合っていた。
 
しかしだ。
だんだん相手の素性が知れるうちに、相手との関係性が変わっていくことになる。
 
年齢は私よりもひと周り分年上の、40歳そこそこのフランス人。
結婚しているかどうかはわからないけれど、パリの一等地にひとりで住んでいる。
仕事は大学教員で、中世フランス語の研究をしている。
語学に深く傾倒しており、最近は日本語に興味がある。
 
ここまで彼のことを知るようになるまで、いったい何回、メッセージのやり取りをしてきたことだろう。
少なくとも1年はほぼ毎晩、夜更かししてメッセージを送っていた。
そして明朝には返事が届いていた。
私が書いたフランス語の文章に、丁寧な添削とコメントをつけて。
私も1回のメールにA4用紙1枚分くらいの分量のフランス語を書いていた。
無音のコミュニケーションの量は、結構なボリュームだったと思う。
 
実際、そのコミュニケーションはとても心地よかった。
彼がフランス語のプロフェッショナルだったから、メールを読み、返すこと自体がフランス語の勉強になった。
私にとっては遠い憧れの街・パリの日常が写真付きで送られてくるものだから、それも新鮮だった。
また、彼は彼で、私の何気ない日常が珍しかったようで、私の話に関心を示してくれた。
周囲の人たちに報告しても大した反応をもらえないであろう些細なことさえ、彼に話すととても大きくてポジティブなリアクションをもらえたものだから、私もうれしかった。
私の中で彼の存在がどんどん大きくなっていった。
 
この文字のやりとりだけをずっと2人で続けていれば、今でも彼とは良好な関係を保てたかもしれない。
それに、彼のおかげで今よりうんと上品なフランス語を操ることもできていたかもしれないし、もしかしたらパリに住んでいたかもしれない。
 
彼とのやり取りについては親にも友人にも話したことはなかった。
だけどひとりだけ、打ち明けずにいられなかった人がいる。
 
その人は知人の紹介で知り合った日本人の女性で、初めて会った時から意気投合した。
彼女との共通点は、同性であることと、フランス語を学んでいることの2つだけだった。
彼女は私の母よりもうんと年上で、すでに定年退職をしているから、60歳はとっくに超えていただろう。
だけど年齢を感じさせない、美人できさくで、そして声が素敵なひとだった。
「芸術を愛する」ということばがぴったりで、時にはバイオリンを奏で、時には私の知らないフランスの小説を貸してくれた。
実際、彼女は「愛する」ということばを使いこなしていた。
私には恥ずかしくて口にすることができないことばだ。
 
ある日、その彼女が日本を離れ、パリの大学へ留学するという。
学生のころからフランス留学に憧れを抱いていたものの、これまでずっと仕事に専念してきたようだ。
そして退職して元気な今、夢をかなえる最後のチャンスだと思っているそうだ。
その話を聞いた時、メッセージをやり取りしているフランス人の彼のことがすぐに頭に浮かんだ。
 
留学先に知り合いが少しでもいれば、彼女も多少心強いだろう。
日本を愛する彼にとっても、日本人の知り合いが増えることは悪いことではないだろう。
この2人なら胸を張って紹介できると思い、2人にそれぞれの存在を紹介した。
返事は2人ともふたつ返事で、お互いの存在について大きな関心を示してくれた。
私は2人にそれぞれのメールアドレスを共有した。
その時すでに、彼女の渡仏は数週間後に迫っていた。
 
私にとって2人ともうんと年上で、心から尊敬していたから、自分がこの2人とつながっていること自体が誇らしかった。
そしてその2人もつながって、人間関係が一気に広がることが、純粋にうれしかった。
感情のもつれが生じるまでは。
 
「純粋な」感情が一気に変わってしまったのは、彼女が日本を発つ少し前、いつも通り彼女の家に遊びに行ったときのことだ。
彼女がパソコンを持ってきて、うれしそうに彼とのメッセージのやり取りを私に見せてくれた。
その文面には、お互いに非常に美しいフランス語でお互いに出会えたことの喜びがつづられていた。
彼女がパリに着いたら、2人で会おう、その日を楽しみにしていると書いてあった。
外国語であっても、想いのこもった文章というのは伝わるものだと感じた。
そのやりとりを読んで、私の気分が一気に急降下していったことを今でも覚えている。
今思えば、私を支配したこの感情は「嫉妬心」だったことが十分すぎるほど理解できるのだけれど、その時は自分の感情を処理しきれず、思いもしなかった「不安」のような、もやっとした気持ちを抱きながら彼女と向き合うのはつらかった。
 
その後彼女は3か月ほど、パリに滞在した。
フランスにはソルボンヌ大学という伝統ある古い大学があり、そこでは「文明講座」というコースが設けられている。
その講座では外国人でも受講することができ、フランス語はもちろん、ソルボンヌ大学の学生に交じって大学の授業を聴講することもできる。
当時、私と彼女の語学レベルは同程度だった。
彼女が本場のランスに身を置き、語学をブラッシュアップできる最高の環境にあること。
また、彼女のことだから、しっかり学んでくるだろうこと。
想像するのだけで悔しかった。
 
2人が初めて会った日、双方からメールが届いた。
お互いがお互いをほめたたえるような文章だった。
「40歳なのに白髪混じりで、まるで紳士のような方でした。こんなに素敵なフランス滞在ははじめてです。紹介してくれてありがとう。」
本当はうれしいはずなのに、そもそも私のものでもない彼を取られたような気がして、悲しくなった。
 
彼女からはパリから数回、メールが届いた。
彼女のメールによると、2人はどうやら意気投合したらしい。
パリ市内を回ったり、喫茶や食事をしたり、お互いの家を訪問し、近場へ旅行に行ったようだ。
彼からは、変わらず毎日のように丁寧なメールが届いたけど、彼のメールには決して書かれていない、2人の逢瀬の報告が彼女から届いた。
私は、この2人の間に恋愛感情があるものと勝手に理解した。
 
長い3か月を経て彼女の帰国後、彼女とは一度会ったきり、昔のように会うようなことはしなくなった。
一方、彼とのメールは変わらず続いたものの、以前ほど頻繁なものではなくなった。
2人の間には、何か特別なものがあるという思いが拭えずにいた。
私の嫉妬の感情は彼に届いてしまったのか、彼から彼女との話は一切ない。
 
さらに月日が巡り、新しい夏が近づいた頃、彼から「しばらくの間はメールが不定期になる」という連絡がきた。
夏のヴァカンスで、彼は彼の弟家族が住んでいるイタリアの山奥に行くらしい。
多くのフランス人は、夏の間、都会を離れてヴァカンスを楽しむという話を聞いたことがある。
しかしこれまで、彼が長期で旅行に出かける話は聞いたことがなかった。
 
その夏、実際にメールは質量ともに簡素なものになった。
 
彼女とも会わなくなってしばらくたったとある猛暑日、彼女から突然、私の職場あてに電話があった。
普段はゆっくり、上品な話し方をしていたのに、いつになく相当慌てた様子だ。
今、彼が私のところに来ていないか? というというもので、私からすれば突飛な内容だった。
彼は今、イタリアではなく、日本に来ているというのだから。
 
彼女の話はこんな感じだ。
彼の来日中は、彼女と、旅行業を経営している彼女の友人家族で彼を接待している。
帰国前の数日は彼女と彼の2人行動を予定していたのだが、彼が突然、行方不明になったという。
よくよく話を聞くと、彼の来日期間は、彼が私にはイタリアにいると言っていた期間とぴったり当てはまる。
どうして嘘をついたのか、そして彼は日本にいるのにどうして私には教えてくれなかったのか、状況が分からず混乱した。
 
彼の「帰国」後、彼女から私に連絡があり、私は久しぶりに彼女の自宅を訪問した。
彼女は憔悴しきっていた。
彼女は、彼から彼女に届いたメールを見てほしかったようだ。
メールの文体は、私でもわかるほど、冷たくてそっけないものだった。
 
はじめての日本で、こんなに嫌な思いをしたのは不名誉だということ。
もう私にメールを送らないでほしいこと。
 
彼女の話によると、彼女が彼を招待した「彼女の友人」とやらは、品川の一等地に居を構え、だいぶ羽振りのよい生活を送る一家で、彼の心はそちら、つまり富める方へと気が移ってしまったという。
察するに、彼にとっては彼女の待遇があまりにも重すぎて、途中で嫌気がさしたとも考えられる。
 
表現が悪いかもしれないけれど、彼女は私がしたように、好きな人を他者に紹介したばかりに、その他者に取られてしまったのかもしれない。
きっと誰も悪くはないけれど、たとえ恋愛感情ではなくとも、誰かの「想い」があまりにも重くなると、物事はスムーズにいかなくなるのかもしれない。
 
いずれにしても私は彼に嘘をつかれたのは事実のようで、私は彼と昔のように純粋な文通を続けることはできなくなった。
 
彼と彼女の間に何があったかは分からないけれど、この事件のおかげで、ひとつ人生の指標のようなものができた。
それは、彼のような人よりうんとフランス語がうまくなって、いつか彼を見返してやることだ。
 
この一連の件で分かったことは、人はいくつになっても、どんな立場にいようとも、人を愛したいし、人に愛されたいということだ。
そしてその感情は、プラスに動くこともあるけれど、時にはマイナスに動くこともあるということだ。
 
最後に、愛の国ともたとえられるフランスの女性作家、ジョルジュ・サンドはこんなことばを残している。
Il n’y a qu’un bonheur dans la vie, c’est d’aimer et d’être aimé.
人生の幸福はただひとつ。愛し、愛されることだ。
 
ひとりでできるはずの語学学習にはじまり、出会った人々との悲しい思い出をきれいなものに浄化してくれる名言だ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

勤め人の傍ら、フランス語の通訳ガイドや翻訳を手掛ける。大きな夢は、フランスで出版すること。

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2021-07-15 | Posted in 週刊READING LIFE vol.135

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