週刊READING LIFE vol.138

最後に、人に殴られたのはいつですか《週刊READING LIFE vol.138「このネタだったら誰にも負けない!」》


2021/08/09/公開
記事:射手座右聴き (天狼院公認ライター)
 
 
人は人を殴る。
よりによって嫌な殴り方をする。
みぞおちの深い深いところにずしりと響く。
痛みは一瞬ではない。
ことあるごとに、その痛みを思いだす。
1週間後、1ヶ月後、いやひどい時は数年に渡ってじわじわと
痛みがくる。後遺症というやつだ。
体だけではない。脳に刻まれた痛み。
普段忘れているのに。ある日突然思い出す。
小さいころから、私は時々殴られていた。
目に見えない殴打を受けていた。
しかし、耳からはしっかりと聞こえてきた。
「子供なんか産まなきゃよかった」
そう。容赦ない言葉で殴られていたのだ。
最後にその言葉で殴られたのは、今から15年ほど前だった。
母は倒れて入院した。
硬膜外出血と言って、脳の外側に血が溜まってしまったのだ。
その血を抜き、止血することで、治るという。
「意識は混濁しているので、話しかけないでください」
病室に入った時、看護師さんに言われた。
必要なものを持参してそれを置き、ベッドの横に座った。
と、そのとき、殴られた。
母が突然こう叫んだのだ。
「子供なんか、産まなきゃよかった」と。
明らかに私のことだった。
ほかに兄弟もいない一人っ子だからだ。
数分して、母はまた叫んだ。
「子供なんか、産まなきゃよかった」と。
30代半ばだったが、この殴打はかなり効いた。
一発が効いたというのではない。
いろいろなことを思い出したのだ。
そういえば、幼稚園に入るか入らないかのときも言われた。
小学校のときも言われた。中学の頃も言われた。高校の時も。
そうだった。
ことあるごとに、母は言っていた。
「私は結婚したくなかったし、子供も産みたくなかった」と。
「もっとほかにやりたいことがあったのだ」と。
子供の頃の自分は、それを聞いて、「ふーん。そうなんだ」と思っていた。
客観的に話を聞いていた。なぜだか。
「それは悪いことをしたな。生まれてきてしまって」とも少し思った。
悲しいという感情は起こらず、ただ淡々と聞いていた。
だが、どうだ。30代になって、病院で聞いたその言葉は
強烈に殴られた、という気持ちにさせられるものだった。
気持ちが、内出血しているのがわかった。
なぜ、こんなところで言われるのだろう。
いや、実は自分が病院に来る前から、言っていたに違いない。
だから看護師さんが「意識が混濁している」と言ったのだと気づいた。
いたたまれなくなって、その日はホテルに泊まることにした。
ビジネスホテルの狭い部屋で、考えた。
なぜ、あんなこと言うんだろうと。
小さいころから、母は家ではきつかった。
きつかったかと思えば、他人の前では、「この子の成長が楽しみだ」と言っていた。
ずるい。と思った。
「優しいお母さんなのだから、大切にしなさい」
みんなから言われた。
しかし、家に帰れば違った。
「あなたはダメな子だ。勉強しないとダメになる」
としつこく言った。
「父親のように遊び人になる」
とも言った。
父と母が離婚したのは私が3歳のとき。
酒に溺れ、浮気も夜遊びも激しかった父との暮らしで
母は心を病んでいたのだ。
そして、その心の闇を私にぶつけてきた。
小、中、高、成績が下がれば、すぐに罵倒してきた。
何か悪いことをすれば、すぐに怒鳴ってきた。
「こんなことでは、将来酒に溺れてダメな人間になる」と。
そんな母から離れたい一心で、高校を卒業すると、東京の大学に進学した。
東京での生活は開放感しかなかった。
時々かかってくる母からの電話も、気にならないほどだった。
しかし、その開放感は束の間だった。
就職して2年目から地獄が始まった。
母は、実の父である祖父と喧嘩をして実家をでた。なんと、私と二人で暮らすことに
なったのだ。
二人の生活は恐ろしいものだった。母はほぼ寝たきりになった。
体調が悪い、肩こりがひどい。と言っては家で寝ていた。
寝ていただけならよかった。
母のメンタルは悪化の一途をたどっていたのだ。
体調の悪さを、私に訴えてきた。家にいるときだけではなかった。
会社にも1日20回以上、電話がかかってきた。
1990年代といえば、まだケータイ電話がなかった。
会社の電話は、重要なビジネスツールだった。それなのに、1日20回だ。
上司や先輩は、最初、心配してくれた。でも、そのうち、異常さに気づいた。
あからさまに、私の居心地は悪くなっていった。
いつ、母からおかしな電話がかかってくるかもしれない。
電話が鳴るたび恐怖だった。入社2年目といえば、仕事を覚えなければならない時期だ。
それなのに、私は出社しながら恐怖と闘い、
休日には買い物をしたり、家のことを少しずつしていた。
やがて祖父が亡くなり、母はまた実家に戻って、祖母と二人暮らしを始めたが
電話攻撃は止まらなかった。
「お母さんからよく電話のかかってくる人」
数百人の会社では知られた話になっていたのだろう。
辛かった。母と離れたい、とも言えなかった。
なぜなら、やはり母はずるかったのだ。
会社の人が電話にでると、いかに息子を大切にしているか、
語ってみせたのだ。私と二人の時とは全然違うのだ。
会社の人は言った。
「ちょっと変わってるけれど、いいお母さんじゃないか。大事にしな」と。
しかし、私には罵声を浴びせた。
「あんたは勉強しなかったら、仕事ができないんだ」
全然関係ないのに、母はそう信じて疑わなかったのだ。
それから数年後、
私が1回目の結婚をしたときも、母の執拗な連絡に、前妻やその実家はどん引きだった。
「こんな家だと知っていたら、結婚しなかった」
前妻にもそのように言われたこともあった。
私にも、前妻にも、思い通りにならないと、容赦なくきつい言葉を投げつけた。
電話も治らなかった。電話にでなければ電報。電報を無視すれば、近所の警察署から
電話がかかってきた。
「お母さんに電話をするように」と。
やはり、おかしい。そう思い、私は、母のかかりつけの精神科医に会いに行った。
かかりつけの精神科医は、「投薬をして、話を聞いていますが、いつも通りですよ」
というだけだった。
どうにもならず、行き詰まっていたある日のこと。
深夜3時にインターホンが鳴った。
母だ。静岡県から横浜までタクシーできたという。どうしても会いたくなったと。
会いにくるのはおかしい、と思っても、自分を止められなかったと。
震えた。映画ではない。これは実際の出来事だった。
地元の福祉の方々に相談し、病院を変えた。
ここには書けないくらいの様々な説得を試みて、病院を変えた。
しばらくの間、入院を経て、母は少しずつ、少しずつだが、変わっていった。
私以外の人間関係もでき始め、だんだんと電話も減った。
毎日から1週間に1回ほどに。
私も電話に怯えることなく、仕事ができるようになった、と思い始めていた。
そんなときに、倒れたのだ。
倒れたときに、混濁した意識の中でまた、私を言葉で殴ってきたのだ。
正直堪えた。
と同時に、気づいた。
自分が自信がないのは、この言葉に殴られつづけたからだ、と。
「生まれてこなければよかった子供」
という刷り込みができていたのだ。
20代、仕事を覚えるべき時期に、怯えながら仕事が手につかず覚えられなかったこと。
電話と仕事の成長が遅いことで、会社に居づらかったこと。
自己肯定感がボロボロのまま、30代を迎えたこと。
「このまま殴られるのは無理だ」
私はそう思った。
「病状が落ち着いたら、もう母と会うのはやめよう」
そう決意した。
たとえ、親不孝と言われても構わない。
「いいお母さんだから、大事にしなさい」
周りの言葉に惑わされることなく、今度こそ、縁を切らなければ。
私は思った。
母と縁を切る、という罪悪感はとても強かった。
でも、母に否定され続ける、という暴力に耐えることは
自分を追い詰めることだ、とも思った。
この理不尽に耐え続けたら、自分の人生を生きられない、とも思った。
「子供さえ産まなければやりたいことができた」とことあるごとに言う母に
「母さえいなければ、もっと頑張れた」と私が思って生きていくなんて
否定の連鎖じゃないか。
そんな連鎖から逃げることは罪なのだろうか。これも、何かの業と思うべきなのか。
言葉で殴られた傷を抑えながら、罪悪感を負って生きることを、私は選んだ。
いや、罪悪感から目を背けて生きることを選んだ。
あの決断をしてから、15年ほど経つ。
自己肯定感を少しずつ、取り戻してきた気がする。
そんなにダメじゃない、と思えたり、時々、いい仕事をした、と思える時もある。
でも、まだ、人に否定されると傷つきやすいところはある。
一方で、母の気持ちも少しずつわかってきた。
「あんたはお父さんによく似ている」
父の人生最後のパートナーから言われたとき、理解したのだ。
母は、私を憎みながら、愛していたのだろう。
可愛いはずの息子に、酷いことをした父の面影がちらつく。
父が酔って、母を殴ったように、母は私を、言葉で殴ったのだろう。
わかる。でも、わかったところで、私の傷が消えていくわけではない。
人生は苦しい。爽快な解決ばかりではない。
もし、わたしのような、いや、わたしなんかより壮絶な親との葛藤を抱える人
がいたら、こんな考えもあることを伝えたい。
今、この瞬間も言葉や拳で殴られているかもしれないから、伝えたい。
殴られた記憶や肉親への罪悪感を背負いながらも
少しでも、道を明るく生きていくことを、私は選びました。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
射手座右聴き (天狼院公認ライター)

東京生まれ静岡育ち。広告会社を早期退職し、独立。再就職支援会社の担当に冷たくされたのをきっかけにキャリアコンサルタントの資格を取得。さらに、「おっさんレンタル」メンバーとして6年目。600人ほどの相談を受け、カウンセリングスキルとカウンセリングマインドを日々磨いている。「普通のおっさんが、世間から疎まれずに生きていくにはどうするか」 をメインテーマに楽しく元気の出るライティングを志す。クリエイティブディレクター。天狼院公認ライター。
メディア出演:声優と夜遊び(2020年) ハナタカ優越館(2020年)アベマモーニング(2020年)スマステーション(2015年), BBCラジオ(2016年)におっさんレンタルメンバーとして出演

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2021-08-09 | Posted in 週刊READING LIFE vol.138

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