オリーブオイルと情熱を添えて《週刊READING LIFE Vol.159 泥臭い生き方》
2022/02/28/公開
記事:石綿大夢(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「おう、にいちゃん! 持ってけ!」
八百屋のおっちゃんから威勢よく渡された大玉のキャベツを手に、僕は商店街の雑踏に駆け出した。人混みを掻き分けるように店に向けて走る走る。今、小脇に抱えているこの大きなキャベツが、今日は一体どんな料理に化けるのか。期待に自然と足が早まる。
シェフの手となり足となり、駆けずり廻る。それが僕の日常だった。
子供の頃、初めに抱いた夢はコックだった。
料理人、つまり厨房に立って料理を振る舞う人。幼い頃から料理漫画に夢中だった僕には、それはまるで夢の世界のように思えたし、当然のようにその真似をした。その漫画の決め台詞よりも、魔法のように生み出される、美味しそうな料理の数々がどういうふうにできていくのか。それに興味があった。料理が得意な祖母が面倒を見てくれていたこともあり、作ることも食べることも大好きな子供だった。そこは今でも変わっていないので、細マッチョという言葉とは無縁である。
だんだんと成長するにつれて、夢や目標は変化したりする。夢を語るのが段々と恥ずかしくなり、いつの間にか皆、現実的な将来を描き始める。だけど僕の中には、常にどこかしらに料理への情熱があった。違う夢を追いかけ始めても、どこかで料理に関わり続ける道はないかと、アルバイトは飲食店に絞り込んでいた。
なので偶然知り合いとの食事に行った、街のこじんまりとしたイタリアンでアルバイトを探してると言われた時、二つ返事で「働かせてください」と言ってしまった。石橋を叩いて渡るタイプの僕なのに、時給とかシフトとか、本来確認すべきものをだいぶすっ飛ばして働き始めて、半年ほどが経っていた。
店は個人経営の、街のイタリアン。席数30ほどのこじんまりとした店だ。
その店で働いていたのが、シェフのOさんである。
テレビにもよく出演していたイタリアンの巨匠を師匠に持ち、洋食を中心にさまざまな料理店を渡り歩いてきたらしい。氏曰く「俺に作れないものは、ない」のだそうだ。
少しキザでカッコつけたがり。僕とは20以上離れていたが、気さくな兄貴といったところだった。ソムリエ資格を持つオーナーが客席を。厨房はOさんが仕切って店を回していた。(と言ってもオーナーは遊び好きで、不在のことも多かったが)
Oさんの料理は、まさに魔法のようだった。
小さな子供ぐらいの大きさはあろうかという肉塊を、あっという間にバラしてしまう。見るだけでも惚れ惚れするような、艶やかな鯛が、あっという間に極薄のカルパッチョになってしまう。大量のニンニクが、同じく大量のトマトソースと一緒に煮込まれる。鷹の爪とオリーブオイルも添えられて、みるみるうちに刺激的だが酸味があって奥深い、アラビアータソースが出来上がる。
単純に作業スピードが速いというのもあるが、その動きには迷いがない。まるでそう動くことをあらかじめプログラムされているような、そんな自然さがあった。
決まって、業者から新しい入荷品や季節の食材が入ると、それを積極的にメニューに組み込んだ。「さてこの食材は、どう料理されたがってるかな」と、まるでその声を聞いているかのように、食材を見つめながらレシピを考える。その姿は、僕が幼い頃から憧れてきた料理漫画の主人公のようだった。
ダンスを踊っているかのように。本当に楽しそうに料理をする人だった。
ある時、お店に大量のモツが届いた。
シェフより少し早めに店に入っていた僕は、何かの間違いだと思った。
牛の小腸であるマルチョウは、ホルモン焼きやモツ鍋では一般的な部位だが、イタリアンで使われるのは、聞いたことがない。プルプルしていて、噛むと脂がジュワッと口全体に広がる。脂が多く、ホルモンの中でも人気の部位だが、それはあくまで焼肉屋やモツ鍋屋での話である。
伝統的にイタリアンでも“トリッパ”(牛の第二胃袋、通称・ハチノス)というホルモンを使ってトマトと一緒に煮込み料理にしたりするが、それとは全然別物だ。
絶対、間違いだ。肉の配送業者が、二軒隣の焼肉屋と間違えたのだろう。きっとそうだ。
幼稚園児くらいある肉塊を抱えて、店の外に出ようとした時である。
「おー、きたか! 立派立派!」
Oさんが少し遅れて店に入ってくるなり、僕の抱えるマルチョウを軽く叩きながら満面の笑みでこちらを見つめてきた。いや、違うんすよ、これ、間違いだと思うんで。え? Oさんが注文したんすか?
「さぁ忙しくなるぞ」
Oさんは慣れた手つきでコックコートに着替えながら、愛おしそうにモツを見つめていた。口の端から溢れる笑みを、抑えきれないようだった。
「このモツで、モツ鍋を作る」
いや、この人なに言ってんだろう。ここイタリアンでっせ?
ランチもひと段落し、夜の営業の向けての仕込みが始まっていた厨房で、突然Oさんが変なことを言い出している。つまみ食いしたキノコの中に、幻覚を見せるものが入っていたのではないか。
「まず、今から言うものを買ってきてくれ。醤油、液体だし、みりん。酒はあるから大丈夫」
告げられた調味料たちは、イタリアンとは関係なさそうなものだ。というか、モツ鍋の出汁を作るのに必要なものばかりだ。
町の中華料理屋が、メニューの端っこに“カレー”や“オムライス”を並べていたりするのと同じことだろうか。いやいや、うちのメニューはそこまで親しみやすいものばかりではない。規模が小さいのでそこまでメニュー数は多くないが、ワイン好きのオーナーの方針で、お酒に合うツマミになるイタリアンメニューが中心だ。生ハムやチーズ類を中心に、イタリア産にこだわっている食材も多い。
そういった店で、メニューの端っこに「モツ鍋、始めました」とあったら、違和感しかないだろう。トマトの爽やかさやチーズの濃厚な香りに混じって、醤油出汁ベースのモツ鍋が出てきたら、場合によってはクレーム・返金ものである。確かにここ最近、店の売上は芳しくないが、そこまで泥臭くお客さんを獲得しにいく必要があるのだろうか。元々店を出しているのも、繁華街に程近いおしゃれタウンとして認知されているエリアだ。客数はそこまで多くなくとも、お客さん一人一人の単価は、決して低くない。一体どういうものを作るつもりなんだろう。
しぶしぶ言われた調味料を買ってくると、Oさんは大きなボールで出汁を調合し始めた。
うわ、本当にやる気だ。
店がそんなに大きくないので、厨房で働いているのは、シェフのOさんと僕だけだった。
厨房に欠員が出たので探していたところに、入ってきたのが僕だった。もちろんこちらは経験半年、ただの料理好きの素人。あちらはこの道20年以上のベテランシェフだ。僕がメニューやレシピに意見したことなどないが、今回ばかりは言わねばなるまい。
「あのぅ、うちのメニューにモツ鍋は、合わないと思うんですけど……」
心中の意気込みとは反して、なんとも語気の弱い頼りない言葉が出てしまった。
目の前に居るのは、子供の頃から憧れた料理漫画の主人公だ。無理はない、と思ってご容赦いただきたい。
Oさんは一瞬、僕を見つめてポカンとした後、豪快に笑いながら言った。
「あ、ごめんごめん! これうちの名物メニューなんだ」
Oさんはおもむろに次のシーズン用のメニュー表を取り出すと、“冬のおすすめ”と大きく書かれたページを指差した。
“絶品! アラビアータ・モツ鍋”
モツ鍋屋さんでよく見る、銀色の浅い鍋の上に、山盛りのキャベツとニラ。頂上には輪切りのニンニクと糸唐辛子が、勝ち誇ったようにその山を制覇している。その山をまるで王様が腰掛ける台座のようにして、主役のモツが鍋の上に鎮座していらっしゃった。鍋全体に、店の名物でもある、真っ赤なアラビアータソースがかけられている。
「これ、うまいんだ。試食も兼ねて、今日の賄いで食べよう」
元々、イタリアンとかフレンチとか。そういった料理の“ジャンル”にはこだわりはないらしい。もちろんその地方特有の、伝統的な料理や食材はリスペクトしなければならないが、とにかく“うまいもの”を追い求める人だった。
とりわけ日本は和洋折衷どころか、イタリアン、エスニック、インドカレーと、本当にさまざまなジャンルの料理店が混在している。
「そのジャンル自体に意味なんてものはない。あるのは、うまい料理とそれを食う人だけ。俺は、どんなお偉いさんでも、うまい料理の前では平等だと思うよ」
Oさんは少し照れくさそうにして、食べ頃だとばかりに大ぶりのモツを口に入れながら語った。
見たこともない真っ赤なモツ鍋は、確かにその言葉を納得させる味だった。
それからというもの、僕はOさんの魔法のような料理を、それまで以上に体感することになった。
ある時は、お好み焼きを。
ある時は、グリーンカレーを。
ある時は、餃子を。
勇気を出して意見したからか、Oさんは心のどこかで僕を認めてくれたようだった。二人でいろいろなジャンルの料理を試し、意見を言い、そして食べた。もっとああした方がいい、もっとこうした方がいい。料理のキャリアはもちろん天と地ほど違ったが、Oさんも僕の意見を頷きながら聞いてくれた。
たぶんOさんは「キャリアが長い=偉い」という考えがないのだ。地位や経験なんか、関係ない。ただ目の前のことを、ここでは料理を愛する気持ちさえあればいい。そう言われている気がした。
僕にとっては、憧れの存在と肩を並べて厨房に立った、夢のような時間だった。
楽しい時間は、長くは続かない。これは世の常なのかもしれない。
店の閉店を告げられたのは、あまりに突然だった。
その日も、僕とOさんはランチに向けての仕込みに追われていた。今日のおすすめパスタは何にするか。ランチの看板商品であるハンバーグは仕込んでおくか。
僕が厨房に立って一年以上経っていた。かなりの仕事を任せてもらえるようになっていた。
オーナーが足早に店にやってきた。遊び好きで、ランチにはほとんど出勤してこないオーナーが。いつも能天気に、遊んだ可愛い女の子について話すオーナーが、いつになく険しい顔をしている。一瞬で、空気が張り詰める。
「えー、この店は、今日で閉店します」
開いた口が塞がらない、って、本当に、あるんだ。
頭が真っ白だった。それはOさんも同じだったようだ。口も目もまんまるにして、唖然としていた。オーナーが淡々と何か言っている。おそらく閉店の理由かなんかだろう。
正直、その後どのように苛烈なランチタイムを乗り切ったのか、覚えていない。
「これ、あげるよ」
片付いた店を後にする時、Oさんは僕に、小さな手鍋をくれた。
小さな小さな手鍋だが、愚直に道具を大切にするOさんの、愛用品の一つだった。ランチの定番になったハンバーグの赤ワインソースも、ドルチェに添えたフルーツソースも、その鍋で作った。二人で作った。泥臭く、ひとつひとつ試しながら。
何も言えなくなっていた僕に、Oさんは言った。
「料理が好きなら、また会えるさ」
最後も、やっぱり少しキザにカッコつけていた。Oさんは真夜中のおしゃれタウンに消えていった。
結果的に言えば、僕は料理の道には進んでいない。それ以上にやりたいことがあったからだ。
だが、仕事の根幹。情熱の掛け方。自分のやりたいことに、広い意味で“職人的”に取り組んでいくスタンス。僕は多くのことをOさんから、いやOさんと過ごした時間から教えてもらったと思っている。
子供の頃、夢見たのはコックだった。
それはきっと、何かに愚直に、泥臭く情熱と愛をかたむける“職人のような生き方”に憧れたのだと思う。
さて。今日も明日の明後日も。好きなことに情熱を持って、泥臭くいこう。
今でも、その手鍋はキッチンの端でピカピカと光を反射している。
□ライターズプロフィール
石綿大夢(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
1989年生まれ、横浜生まれ横浜育ち。明治大学文学部演劇学専攻、同大学院修士課程修了。
俳優として活動する傍ら、演出・ワークショップなどを行う。
人間同士のドラマ、心の葛藤などを“書く”ことで表現することに興味を持ち、ライティングを始める。2021年10月よりライターズ倶楽部へ参加。
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