週刊READING LIFE vol.162

助手とソムリエによって育まれたわたしの“恋” 《週刊READING LIFE Vol.162 誰にも言えない恋》


2022/03/21/公開
記事:宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「お酒が飲めないなんて人生半分損しているね」
 
そう言われたのは、もうまもなく大学四年生になるという時期に開かれた、とある懇親会だった。学科に所属する先生方と大学三年の学生とが親睦を深める目的で開かれた場だった。
 
寿司やピザなどの食事のほか、ビールやチューハイ、それにワインといったお酒も振る舞われていた。
 
それまで大学の先生方とは講義で顔を合わすのみで、ざっくばらんに話をする機会はなかった。はじまってしばらくは、どことなく緊張した空気が漂っていた。だが、お酒のたすけもあってか、時間が経つにしたがい、次第に和やかになっていった。
 
大学生の頃、わたしは、お酒がほとんど飲めなかった。
コップ一杯のビールで、体中が真っ赤になりふらふらになってしまう。
典型的な、アルデヒド脱水素酵素の働きが弱い体質だ。
わたしの両親もまたお酒は飲めない。
酒に弱い体質は、遺伝だった。
 
だから懇親会でわたしは、ビールを注いだコップを手にしてはいたものの、ほとんど口をつけずにいた。
そんなわたしを見て、隣にいたとある教授がわたしに言ったのが冒頭の言葉だった。
 
わたしはその教授に目をむけた。
手にしているグラスには、赤ワインが注がれていた。
目の前のワインボトルはほとんど空になっている。
ずいぶんお酒が進んでいるようで、ご機嫌な様子だった。
 
わたしはカチンときた。
いまなら立派にアルハラな言葉だが、当時はそんな言葉は存在しなかった。
ハラスメント以前に、科学者であるにもかかわらず、教授の言葉は論理的におかしい。
もし教授の口にした命題が〈真〉ならば、その対偶である「人生の半分を損していないならば、お酒が飲める」も〈真〉でなければならない。
だが実際は〈偽〉だ。酒が飲めるか飲めないかは、遺伝であることは科学的にはっきりしている。人生の損得とお酒が飲める飲めないに因果関係はない。
 
「人生の半分が酒だなんて、ずいぶんと貧相な人生ですね」
わたしはそう言い返した。
その途端、教授は不機嫌な表情になり、わたしとは一度も口をきいてくれなくなった。
 
わたしも若かったとは思う。
所詮は酒の場での戯れ言だ。
「そうですねえ」などといって笑い飛ばしておけばよかったかもしれない。
 
わたしの生意気な言葉によって、その教授はひどく気分を害したのかもしれない。
だがしかし、わたしもまたひどく気分を害したのだ。
 
こんな大人にはなりたくないものだ。
教授が手にしていた赤ワインは、わたしにとって〈なりたくない大人〉のアイコンになってしまった。

 

 

 

とはいえ、ワインへの悪い印象はささほど長続きはしなかった。
 
大学四年生になると、卒業研究のため研究室に所属した。
もちろん、あの“アルハラ教授”の研究室は選ばなかった。
 
研究室でもしばしば飲み会が開かれた。
居酒屋に行くこともあったが、研究室の隣のゼミ室で飲む機会のほうが多かったように思う。
お酒を飲む機会は増えた。研究室のメンバーは、わたしの酒の弱さを知っていたので、無理強いすることはなかった。もちろん「人生損している」だなんて言う人はいなかった。
みな楽しくお酒と酒宴の雰囲気を楽しんでいた。
 
ある日の宴会。
「最近、お気に入りのワインなんだ」
と、助手の先生がオススメのワインを持参し、振る舞ってくれた。
 
『ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ』
 
イタリアの赤ワインだった。
グラスに注いでもらうと、黒みを帯びた深い赤色が美しかった。
舐めるように一口いただいて驚いた。
それまで口にしたワインよりも香りが上品で味わいが深い。
ブドウの酸味と渋み、甘味がバランス良くいつまでも口の中で広がっていた。
お酒に弱いわたしでも、いつまでも飲んでいたくなるような気分になれる美味しさだった。
 
後から知ったことだが、イタリア赤ワイン三大銘柄のひとつでイタリアワインの女王と賞賛されるワインであった。
そんな素敵なワインを、酒の味もよく知らないわたしのような若造に振る舞ってもらえた気前良さも、嬉しかった。
 
赤ワインのボトルに貼られていた〈なりたくない大人〉ラベルは、〈憧れの大人〉ラベルにすっかり変わり、ワインを楽しめるようになった。
 
ワインの美味しさを知ると、もっと飲んでみたいと思うようになった。
でも、酒に弱い体質には変わりはなく、たくさんのワインを楽しむことはできなかった。

 

 

 

いろんな種類のワインを楽しむようになったのは30代も後半になってのことだ。
息子がサッカーをはじめ、練習や試合に同行するうちに増えたパパ友・ママ友が増えた。そのパパ友のひとりが、ワインバルで働きながらソムリエをめざして勉強していた。
 
仕事帰りに立ち寄りやすい場所に、彼の店はあった。
少しだけ遠回りにはなるのだが、そんなことは少しも気にならなかった。彼の人柄とサービス精神がわたしを惹きつけた。わたしはしばしば、彼が働く店を訪れ、美味しい料理とワインを楽しむようになった。
 
お店のカウンターに座ると、彼は、いろんなワインの味わいとその違いを楽しめるよう、いくつかグラスを並べて、それらにワインを注いでいった。お酒が弱いわたしでも楽しめるよう、それぞれ少しずつ。
 
はじめは白ワインを数種類。
チーズなどの前菜とともに楽しむ。
わたしは、人参のラペと一緒に白ワインをいただくのが好きだった。
 
次に、赤ワインを数種類。
肉や魚料理とともに楽しむ。
最後に一杯、甘いシェリーや貴腐ワインを食後酒としていただくこともあった。
 
ぶどうの種類や栽培地域、製造法や味わいの特徴などの説明つきで、さまざまなワインをいただくうちに、「味が違う」程度にしかわからなかったワインの味わい方が、少しずつ理解できるようになってきた。
 
1年ほど通ううち、彼は見事、ソムリエ試験に合格した。
わたしはというと、以前より酔いにくくなった。おかげで、いただくワインの量がずいぶんと増え、以前より多くの種類のワインを楽しめるようになった。
 
すると、自分の好みがどんなワインかがなんとなくわかるようになった。このブドウ種が好きなんだなとか、この地域のものは飲みやすいなとか。
特に好きだなと思ったら、ソムリエになった彼に「このワインはなに?」と聞いてみる。彼はいつも丁寧に教えてくれる。
 
繰り返すうちに、好きだと思うワインはたいがい〈サンジョベーゼ〉というブドウ品種で製造されていることがわかってきた。
 
サンジョベーゼはイタリアを代表する品種だ。
赤ワインは美味しさを初めて知った、あの『ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ』もまた、サンジョベーゼから作られている。わたしにとってワインの原点がサンジョベーゼだと知り、ドキリとした。
 
それ以来、サンジョベーゼを使ったワインをいろいろと飲んでみたりした。通常は赤ワインの原料に使われれるが、サンジョベーゼを原料にした白ワインを取り寄せて飲んでみたこともある。
 
こうして、いろんな形でワインを楽しんでいくうちに、わたしはふと気がついた。
 
ワインを楽しむ気分はなんだか恋のようだと。
 
もっと飲んでいたい。
また飲んでみたい。
いつまでも飲んでいたい。
 
〈飲む〉を〈会う〉に置き換えれな、立派な恋心だ。
 
知れば知るほど惹かれていくし、自分の好みもわかってくる。
酔いが回ると鼓動がたかまり、身体が熱くなる。
まるで恋ではないか。
 
溺れる人もいれば、身をほろぼす人もいる。
こんなネガティブなところまで、恋にそっくりだ。
 
なにもワインで楽しまなくても、恋を楽しめばいいじゃないか、とは思う。
だが、なかなか恋ではできない体験でも、ワインならできることもある。

 

 

 

それはある夜の食後に勧められたシェリーだった。
帰るにはちょっと物足りない。
そんなことを感じていた時、ソムリエの彼が勧めてくれたのだった。
 
シェリーとはスペインの酒精強化ワインのことだ。
細身のグラスに注がれたそのシェリーは、ほとんど黒色に見えるほど濃く、とろっとしている。
香りを嗅ぐと、干しぶどうをさらに濃くしたような甘い香り。
ペドロ・ヒメネスと呼ばれるブドウ品種をまさに干しブドウ状になるまで乾燥させてから発酵させて作ったお酒だ。
  
おそるおそる口に運ぶと、口の中にまとわりつくような強い甘み。
その甘味を香りが鼻腔と喉へと流し込んでくれる。
 
その味わいもさることながら、エチケットと呼ばれるワインボトルのラベルに惹かれた。
強めにアイラインをひいた、いくぶん垂れ気味の目で、わたしを挑戦的ににらむ。
その目つきが、なんとも魅惑的で痺れた。
 
ああ、またあのシェリーを飲みたい…。
 
極甘の味わいとともに、ラベルの女性の妖艶さにわたしはすっかり魅了され、忘れられなくなってしまっていた。
いまでも抱く、誰にも言えない恋のような、ひとり密やかな思いだ。
 
妻子持ちのわたしが、女性にこんな想いを抱いてしまったら、まずい。
だが、ワインになら問題はない、だろう。

 

 

 

かじった程度しかワインを知らないわたしなんぞが言うと、ワイン愛好家の方々に怒られてしまうかもしれない。
だがどうか、酒が弱くてあまり飲めない人間にとっての楽しみ方として言うことを、お許しいただきたい。
 
恋に奥手でも、ワインが苦手でも人生で損をすることはなにもない。
どちらも〈量〉など問題ではない。
 
恋でもワインでも、大切なのは過ごす時間に添えられた〈人の思い〉ではないだろうか。
そして長い人生をとおしてゆったりと時間をかけて楽しむのが、恋もワインも粋というものではないだろうか。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

千葉県生まれ東京育ち。現役理工系大学教員。博士(工学)。生物物理化学と生物工学が専門で、酸化還元反応を分析・応用する研究者。省エネルギー・高収率な天然ガス利用バイオ技術や、人工光合成や健康長寿、安全性の高い化学物質の分子デザインなどを研究。人間と地球環境との間に生じる”ストレス“を低減する物質環境をつくりだすことをめざしている。

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院書店「東京天狼院」

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168


■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」

〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325


■天狼院書店「シアターカフェ天狼院」

〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目8-1 WACCA池袋 4F
営業時間:
平日 11:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
電話:03−6812−1984


2022-03-16 | Posted in 週刊READING LIFE vol.162

関連記事