襲ってくる不安は〈しあわせの前兆〉かもしれない《週刊READING LIFE Vol.171 同じ穴のムジナ》
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2022/05/30/公開
記事:宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
大学院の学生が、不安を口にした。
海外の大学で一ヶ月間、実験をすることになったという。
予期していない出来事で、まだ心の準備ができていないようだった。
ひとり外国で生活し、実験ができるのだろうか。
そんな不安が彼を襲っていた。
出発は一ヶ月後。
その準備期間の短さも、不安を助長していた違いない。
聞けば、これまで何度か海外旅行にでかけた経験はあるのだとか。
〈外国〉がまったく未知の世界、というわけではなさそうだ。
だから、学生の不安を聞いてわたしは、大丈夫じゃんと思った。
むしろ、学生のうちに海外で実験ができるなんて、なんて素晴らしいチャンスなんだ、すごいじゃん、うらやましいな、と心の底から思った。
それに、ひと昔と比べていまは、外国で生活するときの〈情報と言葉の壁〉は小さい。
手元のスマホで検索すればさまざまな情報を手に入るし、意味のわからない言葉や聞き取れない言葉、あるいはなんと言えば良いかわからない言葉を、音声認識と翻訳アプリを使ってすぐに日本語や英語に変換できる。
デジタルネイティブであるいまの学生なら、外国生活もさほど苦にはならないと思える。
ただ、わたしがどんなに「大丈夫じゃん」と言ったとしても、学生の不安は消えないだろう。
学生にしてみれば、不安なものは不安なのだから。
きっと学生も知りたいのだと思う。
どうやったら、この不安を拭い去ることができるのだろうかと。
だが、わたしには彼の不安を消し去ることはできないだろう。
思えば、わたしも同じだった。
わたしは、博士号を取得した27歳の年から二年間、イギリスの田舎町にある大学で研究していたことがある。
不安を漏らした学生と比べると、当時のわたしはすでに多くの経験を積んでいた。
イギリスに行く前にも、旅行や学会発表で、アメリカ、ヨーロッパ、アジアとさまざまな国を訪れていた。
外国での研究の様子についても、周りの人からいろいろと話を聞いていた。
それに、あらかじめ準備をする時間も十分にあった。
それでもやはり、外国での生活することに不安はあった。
イギリスに行く前も、言ってからも、いつも不安がつきまとっていた。
やはり不安の一番は、〈言葉〉だった。
実際、大変なことが多かった。
英語が苦手ではあったものの、行けばなんとかなるかと安易に考えていたが、そう簡単ではなかった。
思っていた以上に〈情報と言葉の壁〉は高かった。
おかげで、思うようにはコミュニケーションがとれず、たくさん失敗した。
英語で寝言を言ってしまうほど、英語でのコミュニケーションにうなされていた。
不安を感じていることは、実際にも起きてしまうんだな、と思った。
「大丈夫じゃん」なんて言葉で吹き飛ばせるほど、不安は軽いものではない。
イギリスに行くとき、わたしはなぜ不安を感じたのだろうか?
振り返るとそれは、〈対処すべき行動の量〉に対して、〈行動に必要な時間〉が足りないと感じたからだと思う。
不安を感じるとき、自分ではこれまでの経験に基づいた自身の力を把握している。
そして、「うまくできそうにないこと」がどんなことか想定できている。
さらには対処法までわかっているものだ。
だが実際に、対処するために十分な行動がとれないと思っている。
そんなとき、不安に襲われる。
イギリスで生活しようとしたとき。
当然、英語でのコミュニケーションが必要だ。
そのためには、英語を習得すべきだとはわかっている。
だが、自分の英語の力は全然足りず、学習すべき量は多い。にもかかわらず、学習に時間がとれない、あるいは学習に身が入らない。
そうなると、不安は大きくなってしまう。
不安は、身体にたまる脂肪なのだ。
食事量を減らして摂取エネルギーを減らし、運動を増やしてエネルギーを消費することで、身体にたまった脂肪は減らせる。
けれども、つい食べ物を口にしてしまうし、運動する時間もとれない。
身体にたまる脂肪はどんどん増えてしまう。
身体にたまった脂肪を取り除く〈ダイエット〉では、「無理なく」「超簡単」「「一日5分でできる」といった言葉が売り文句の商品やエクササイズがたくさんある。
外国にいく不安を取り除くにもまた、短い時間で無理なく、簡単に、一日5分でできるようなことはある。
ひとつは、行き先の国に歴史や文化について、英語で話せるようにしておくことだろう。
自分が向き合う相手のことを知っておくことが、人との交流で一番大切なことだと思う。
たとえば手頃な話題としてスポーツや料理はどうだろうか。
できれば、滞在国の歴史、そして名所のいくつかについても英語で話せるといいように思う。
あらかじめ日本語で考え、google翻訳などの翻訳アプリを使って英語に変換して覚えておけば、手軽にできることだ。
もうひとつは、発想の転換だ。
〈話したいこと〉を話すのではなく、〈話せること〉を話すようにするのだ。
生まれてからいままでずっと日本に住み、日本語を話すわたしたちにとって、話したいことを話せるのは当たり前になっている。
だが、小さな子どもたちを見てみよう。
知っている言葉は限られているが、その言葉の範囲で話をしている。
たしかにおかしげなときもあるが、コミュニケーションをとることはできる。
そんな小さな子どもたちと同じように、英語という言葉について知っている範囲が限られている。
〈話せること〉を最大限駆使してコミュニケーションをとることを考えてみればよいのだ。
そのための簡単エクササイズは、自分の知っている英語で伝えられることを、一日5つ書き出すことだ。文法がおかしくてもいいし、同じようなことばかりでも良い。
大事なことは、背伸びせず、いまの自分が言葉で表現できる範囲を知り、広げていくことだ。
あとは現地に行けばなんとかなる。
身体についた脂肪は、食事する暇もなくハードに動きまわらざるを得ない環境におかれれば、自然と減っていく。
不安もまた同じだ。
英語が雨のように降り注ぐなかで生活するうち、なんとかなるように自分の考え方や行動を絞り込んでいくようになる。
知らず知らずジェスチャーは大きくなるし、知らず知らず英語の発音も変わる。
どんどん成長し、新しいことを吸収していく。
時間などあっという間に過ぎてしまう。
こうなればいつのまにか、不安がっていたことなど忘れてしまう。
〈できないこと〉ばかりを気になっていたとしても、しだいに〈できること〉が増えていけば、不安は自ずと消えていくのだ。
不安はいつでも突然、襲ってくる。
だがそれは、〈しあわせの前触れ〉になるかもしれない。
そもそも〈しあわせ〉とは何か?
その問いへの答えは、人それぞれに違いない。
わたしにとっての〈しあわせ〉は、〈できること〉が増えることだと思う。
子どもたちをみているとしあわせそうだ。それは、子どもたちが成長途上で、恐ろしいスピードで〈できること〉が増えているからではないだろうかと感じている。
子どもたちのように、〈できること〉が増えている。
それをいま、わたしも感じている。
一年前、わたしは下半身不随になり、車椅子生活を覚悟するように医師から言われた上で、手術を受けた。
手術後、リハビリテーションを続け、いま、わたしは歩けるようになった。
日常の生活は問題なく過ごせるし、仕事にも無事に復帰できている。
この状況を、わたしはとてもしあわせに感じている。
一旦は身体の機能を取り戻し、〈できないこと〉が一度に押し寄せた。
とんでもなく不安だった。
あまりに不安で、人生で初めて、自分の心を閉ざした。
しかし、リハビリテーションによって機能を少しずつ取り戻した。
だがそれは、一度失ったことで生じた〈できないこと〉が減ったにすぎない。
それだけでは〈できないこと〉がまだ優性で、不安は大きいままだった。
大事だったのは、回復の過程で、さまざまな人との出会い、初めて見聞きする体験があり、あらたな知識が得られたことだった。
いままでにはない〈できること〉があらたに増えた。
そのおかげで、わたしは不安を忘れられるようになったように思う。
わたしがひととき身体の機能を失ったように、生きていればかならず何かを失っていく。
そして、失うと同時に〈できないこと〉が増える。それは不安を感じるときでもある。
祖父母や親のような親族を失えば、甘えることができなくなる。
親しかった友人、仲間を失えば、気軽に軽口をきくことができなくなる。
お世話になった知人、恩師を失えば、励ましや助言をもらうことができなくなる。
人だけではなく、モノもまた失われる。
お気に入りの服も着古して着られなくなったり、想い出の場所は老朽化で取り壊されると、その服を着ていたときや、その場所での出来事ができなくなるように感じる。
記憶も時が経つにつれてしだいに薄れ、失われていく。
以前はできていたはずなのに、忘れてしまうとできなくなってしまう。
歳を重ね、いろいろと失っていくことで、〈できないこと〉はどんどん増えていき、不安は尽きない。
けれども、失ったものと同じだけ、得るものがあって、できることが増えれば、たとえ不安はあっても、しあわせを感じて生きられるように思う。
海外でのくらしでも、たくさんの失敗があり、大変な思いをしたし不安であった。
けれども、それと同じかそれ以上に得られたものが大きかった。
振り返れば、あの時間はわたしにとってしあわせなひとときだった。
結婚もそうだ。
妻がいて、子どもがいて、その分だけ自分が好きに使える時間は失われる。
けれどもそれ以上に、妻がいて、子どもたちがいることで得られる素晴らしい時間がある。
だから、しあわせだと感じる。
生きていればかならず、何かを失い、〈できないこと〉が増えていく。
でも、それと同じ数かそれ以上に〈できること〉が増えると、わたしは〈しあわせな人生〉だと感じられる。
そしていまでは、〈できないこと〉が増えることで不安に襲われたときは、あらたに〈できること〉が増えるタイミングなのではないかと、期待するようになった。
それは嵐に襲われたとき、この嵐がされば爽やかな晴れ空にめぐりあえると楽しみにするようなものだ。
ちょっと能天気な考えかもしれない。
いくらなんでも前向きすぎるかもしれない。
実際、嵐が来ても曇りの日が続くこともある。
何かを失ったからといってかならずしも何か得られるものがあるとは限らないだろう。
ただ、不安が〈しあわせの前兆〉だと思うことで、少しは気持ちが軽くなる。
そして、しあわせな気分で人生を前に進める。
ならば、お手軽な考え方ではないだろうか。
□ライターズプロフィール
宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
千葉県生まれ東京育ち。現役理工系大学教員。博士(工学)。生物物理化学と生物工学が専門で、酸化還元反応を分析・応用する研究者。省エネルギー・高収率な天然ガス利用バイオ技術や、人工光合成や健康長寿、安全性の高い化学物質の分子デザインなどを研究。人間と地球環境との間に生じる”ストレス“を低減する物質環境をつくりだすことをめざしている。
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