週刊READING LIFE vol.207

息子がいじめにあった結果、私が翻訳者になってしまった《週刊READING LIFE Vol.207 仕事って、楽しい!》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/3/6/公開
記事:前田光 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「ちょっとだけ待っててくれない? 今すぐは無理なんだけど、でも絶対どうにかするから。おしゃーしゃん頑張るから!」
 
ふくれっ面をして上目遣いに私をにらみつけている二人の娘に、私はこう言って聞かせた。
「にいにいとおんなじ学校に行きたい」と、もう何か月も前から娘たちは私に訴え続けている。
そのたびに「ごめんね~!」と言いながら、私はこの同じ言葉を繰り返していた。
 
長男が小学校を転校したのは、それより3年ほど前のことだった。
田舎の学校で子供の数が非常に少なくクラス替えがなかったこと、だから保育園時代にできたヒエラルキーみたいなものが小学校に上がってもリセットされずにずっと続いていたこと、気の合う友達に巡り合えなかったこと、早生まれで人よりちょっととろくさかったこと、内向的で自己主張が苦手だったこと、泣き虫でしょっちゅう友達から泣かされていたこと……探せばいろいろな理由があるが、そうしたマイナス要素が積み重なっていたところに、クラスでいじめ問題が発生したことがとどめとなって、息子は学校に行かなくなった。
結果的に、担任の先生がこのことを知って介入し、いじめた子供が謝って問題は一応終結した。だが息子のなかではやっぱり学校は進んで行きたい場所にはならず、不登校こそ続けなかったものの、最終的に別の学校に転校することになった。
 
転校した息子はありがたいことに、新しい学校が大好きになった。そして、今日はこんなことがあっただの、友達がこんなことをしただのと、学校であったことを生き生きと家族に話して聞かせるようになった。そればかりか、「あのときS君が僕をいじめてくれてよかった。だって、S君がいじめてくれなかったら、僕はこの学校に来ていないもんね。S君に感謝だね」なんてことまで言うようになった。そんな様子を見ていた下の娘たちが、「にいにいだけってことはないですよね? そんなに楽しい学校なら私たちも行きたいです。当然、えこひいきせずに私たちもその学校に入れてくれるんでしょうね?」というオーラを放ちながら「いつから行けるの?」と迫るようになるのも、時間の問題ではあったのだ。
 
だけど正直に言うと、私は頭を抱えていた。
息子の学校は私立で、つまり学費という名前の先立つものが必要になるからだ。
そして私はそのころ、末っ子を保育園に入れてはいたが、電話番に毛の生えた程度のパートの仕事しかしていなかった。
さあ大変だ。何とかお金を作らないといけない。だが私の手持ちのカードには何がある?
接客業にも自信がないし、お金や数字を扱う仕事にはもっと適性がないのも分かっていた。何しろ、学生時代にケーキ屋でバイトしていたとき、ケーキ5個をレジ打ちしてなぜかとんでもない合計額をたたき出だし、それをそのまま「9800円です」などとお客様に言ってしまうようなポンコツである。今の時代のレジはバーコードをピッで済むかもしれないが、そもそも数字やお金を扱うセンスに欠ける人間は、そうした場所に最初から近づかない方がお互いのためである。
また、残念ながら何の資格も特技もない四十過ぎの子あり既婚女性を好待遇で雇ってくれるような会社は、都会でも少ないのだろうが田舎にはもっとない。
そう考えたとき、私には「中国語の勉強をし直して翻訳者になる」以外に、切れるカードがなかったのだ。
 
だが、今となってはすごい布石だったと思わずにはいられないが、その1年ほど前に、私の大恩人とも言える方から「中国の農業について知りたいことがあるのだが、日本語に訳された文献がない。ついては原書の翻訳をお願いできないか」と頼まれて、本を一冊訳していた。大してページ数もない薄い本だったが、長い間中国語から離れていた私にとっては簡単なことではなかった。だがその分だけ、それを訳したことが小さな自信になっていた。その経験がなければ、ボロボロに錆び付いていた中国語をやり直そうなんて発想は浮かばなかったかもしれない。
 
それで、中国語翻訳の通信講座を受講しながら未経験者OKの仕事を探した。最初にもらったのは本当に小さな仕事だった。1か月たって通帳に振り込まれたのは3万円にも満たない額だったが、これで一歩が踏み出せと思うと、言葉にできないくらい嬉しかった。
 
最初の取引先から初めて報酬をもらって一年後くらいに、取引先が三社に増えた。
新たな一社はニュース配信会社で、もう一社は技術翻訳の会社だった。どちらも「トライアル」と呼ばれる採用試験のようなものを受けなければならなかったが、幸い合格がもらえた。ニュース配信会社は長期的に仕事がもらえそうだが、金額的に大きかったのは技術翻訳の方だった。「私は繁忙期の一時しのぎ的な立ち位置なんだろうか。それとも今後継続的に仕事をもらえるんだろうか」と思っていたら、技術翻訳の会社から「翻訳支援ツールを導入しませんか。お金はかかりますがそれを使ってもらえたらもっと仕事を回せるのですが」と打診があった。
 
翻訳支援ツールとは、それを使って外国語を翻訳すると、翻訳会社のサーバーに蓄積されている過去の膨大な数の原文―訳文ペアの中から、今訳している原文と比較的よく似た原文とそれに対応する訳文を探して画面に表示してくれるソフトのことだ。今訳している原文と7割~9割くらいがマッチしている訳文が表示されるので、翻訳者は違っているところを修正すればよい。もちろん、過去のデータとまったくマッチしていない原文は自力で訳さなければならないし、案件によっては過去の訳文がほとんどマッチしない場合も多々ある。だが機械翻訳ではないので表示される訳文には明らかな文脈があるし、過去訳を活用できる分、作業時間は短縮できる。決して安くはないこのソフトを自腹を切って導入してほしいと言うくらいだから、ある程度の受注を見込んでもいいのだな、長くお付き合いできる翻訳者だと思ってもらえたのだなと理解した。そこで、まだ学費は貯まっていなかったが娘二人に「にいにいと一緒の学校に行けるよ!」と伝えた。それまでに貯めた学資保険を解約して、当面の学費にあてることにして。今から考えると割と大胆な選択だったと思わなくもないが、そのときの私には、絶対に大丈夫としか思えなかった。
 
入学式の当日、胸に花をつけてもらって嬉しそうに会場に座っている二人を見て、先立つものなどやっぱりないのに、それでも不安など感じていなかった。
このころには、技術翻訳なんていう一見すると無味乾燥でつまらなそうなものが、意外なくらい面白いものだということが分かっていたからだ。
それが7年前のことだ。
 
翻訳者と一口に言っても、出版翻訳と実務翻訳ではやっていることがかなり違うし、実務翻訳もさまざまな分野に分かれている。翻訳者が翻訳という仕事を選ぶ理由はもしかしたら翻訳者の数だけあるかもしれないが、辞めない理由を一つ挙げるとしたら、原文の表現に一番ピッタリくる日本語を探すためにああでもないこうでもないと数時間、もしかしたら数日かけて頭をひねり、ああもう駄目だ、私には翻訳なんてやれる実力はないんだなんて落ち込みながらも、それにピッタリはまる訳語が見つかったときのあの爽快感が、何物にも代えがたいからじゃないだろうか。
 
私の場合、原文に目を通して意味を理解したつもりでも、いざ日本語にする段になるとうまく文章にならないことがある。そういうときは間違いなく、分かったつもりになっているだけで本当は全然分かっていない。モヤっとしたものが頭の中にあるだけで、ちゃんと理解していないのだ。その「モヤっと」の輪郭をつけて形にするために、原文を音読する。何度か読んでいるうちに、パッと霧が晴れるように意味が通ることがある。それでもよく分からないときは、時間を置いてみる。他のことをしたり一晩寝たりすると、「何で分からなかったんだろう」と不思議に思えるくらい、すんなりと理解できたりする。
 
「産業翻訳って、製品の取扱説明書とか専門技術の話なんかでしょ。そんなつまらなそうな文章を訳していて面白いの?」と聞かれることもあるが、ええ、面白いです。
取説を読んで「ああ面白い文章だった」と感想を漏らす人はいないかもしれないが、分からなかったことが分かった瞬間や、探していた言葉が見つかって、ヤッター! と飛び上がりたくなるような瞬間を、人間の脳みそは大好きなんじゃないだろうか。
AIの飛躍的な進歩によって、翻訳という仕事には未来がないという人もいる。
下訳に機械翻訳を使っている翻訳者が増えているという話も耳にした。
一方で、いったんは機械翻訳に流れた仕事が、あまりの訳文のまずさに人間翻訳者のもとに戻っているという話も聞く。
おそらく、機械翻訳の力がうまく発揮できる分野と、人間翻訳でなければならない分野がはっきりと別れつつあるのだろう。
 
もともとは、子どもの学費を工面することを第一目的として始めた仕事だった。
だが今の私にとって、翻訳は日々喜びと楽しさを与えてくれるものになってしまった。
機械翻訳がいくら進歩しても、人間が人間である限り、人の手でしか生み出せないものは必ずあるはずだ。
進む道は険しいかもしれないが、あの人に訳してほしいとクライアントに名指しされるような翻訳者になることが、今の私の夢である。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。

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2023-03-01 | Posted in 週刊READING LIFE vol.207

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