週刊READING LIFE vol.208

猫とモーツァルトとともに迎える、美しい朝《週刊READING LIFE Vol.208 美しい朝の風景》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/3/13/公開
記事:杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
朝、目が覚めると毛だらけの顔が隣で軽い寝息をたてている。
 
わずかな気配を察して薄目をあけたその子に「先に起きるよ」と言って、上半身を起こす。すると、ふとんの上の、私の足と足の間にあたるくぼみを利用して寝ていた二匹が「おはよう」という表情で私を見上げる。
 
なんて素敵な朝の風景だろう。私は三匹の愛猫とともに目覚めているのだ。
 
寒い時期だけ三匹は私の寝室で夜を過ごす。まるで冬季にしか販売されない限定チョコレートのように、これは冬の朝限定の自分へのごほうびだ。
 
とは言うものの、実は私は猫アレルギーである。薬を飲んで猫を飼っているのだ。
 
このかわいい生き物との出会いは、幼少期にさかのぼる。実家ではいつも猫を飼っていて、子供のころから生活の一部に猫がいた。
 
上京して働き始めてからは、会社に泊まり込むこともあるくらい忙しかったので猫を飼うどころではなかった。しかし、心ではいつも猫を求めていて、写真集をいつも眺めて渇きをいやしていた。
 
猫が飼えるように環境が整ってきたのは、30代の半ばだった。保護猫のボランティアをしている友人から、高齢の猫を譲り受けたのが最初だった。
 
彼女を家に受け入れたとたん、くしゃみと鼻水がとまらなくなり、病院で検査を受けることになった。
 
一週間後、結果を渡されて真っ青になった。すでに重度の花粉症だった私だが、スギ、ヒノキに次いで猫の毛と唾液が、そのほかのアレルゲンのランクインを阻んで第3位に上っていたからだ。
 
スギ花粉なら春だけ我慢すればよいが、猫を飼うとなると一年中、花粉症に苦しめられることになる。
 
「猫を飼うのをやめるしかないですね」と医師は無情に言った。
 
だが、そんな選択肢はよぎりもしなかった。花粉症の時期は薬を飲んで症状をおさえていたので、猫と暮らすために年中飲み続けようと決めたのだ。
 
そのおかげで、かくしてともに眠りにつき、幸せな朝を迎えているのだ。
 
幸せな朝といえば、私にとって猫と同様に大切なのが、「モーツァルト」である。
 
私の趣味の一つはクラシック音楽鑑賞で、一日の時間の経過にともなって聴く音楽を変えている。朝、日中、夜に向いている音楽はそれぞれ違うのだ。
 
それが自然な習慣として身についたきっかけは、一人の女性との出会いであった。
 
もう二十年以上前になる。仕事で取引先を訪ねた帰りに、都内で有数の高級住宅街に迷いこんでしまったことがあった。
 
全く知らない場所だったが、住宅のなかに遠目から黄色い軒先が何かの目印のように見えた。吸い寄せられるようにその店の前に立った。ヨーロッパの街角にあるような小さくて洒落たアンティークショップであった。
 
「こんにちは……」
 
入ると喫茶店のようなカウンターが奥にあるのが見えたが、主の姿はなく返事もない。
 
もともと骨董品に興味があるわけではなかったが、レースのカーテンやランプ、ちょっとした棚やカップの配置から、店主が細部まで目を行き届かせてすべてをレイアウトしていることがわかった。私は空間が放つオーラにとらわれてしまった。
 
「それはね、『オールドノリタケ』っていうのよ」
私がウインドウのコーヒーカップを見ていると、店主が現れた。これまたヨーロッパのカフェのテラス席が似合う優雅なマダムであった。60代くらいだろうか。オードリー・ヘプバーンを彷彿とさせるような細身で、グレーのニットのタートルネックにターコイズブルーのパンツをあわせていた。
 
私は、自分が恥ずかしくなった。おしゃれに全く関心がないことは、すぐにわかったに違いない。2組の紺のスーツを日替わりで着ていたし、なかに合わせていたのも無難な白いシャツ。それも外から見える襟のところだけに朝あわててアイロンをあてたような状態だったからだ。
 
なんとか言葉を出さなくては、と絞り出した。
「すてきなお店ですね。道に迷って偶然見つけたんです」、それが彼女と交わした初めての会話だったと思う。
 
彼女は店のなかの骨董を一品ずつ説明してくれた。自身が買い付けた、ほんとうに気に入ったものだけを置いていることがわかった。カウンターでコーヒーをごちそうになり、本業がファッションデザイナーであることを知った。話はどんどん深くなっていき、事情があって女手一つでお子さんを育て上げるためにファッションデザインを見よう見まねで始めたことへと及んだ。
 
異国の物語を聞くような気持ちで耳を傾けていると知らないうちに数時間がたっていた。
 
日が暮れてきたので帰り支度をしていると、店主が言った。
 
「うちで食事していきなさいよ」
 
「え?」
 
「見たところ、不規則な生活しているでしょう。何か作ってあげるわ」
 
「ありがとうございます」
 
「私、あなたが気に入ったの。うちの猫のタマちゃんに似ているのよ」
 
「そうなんですか。私も猫が大好きなんです」
 
「じゃあきっと、うちのタマと仲良くなるわね」
 
初対面の人の家で食事をごちそうになったのは人生で初めての経験だった。ご自宅は、歩いて5分のところにあるマンションであった。私はそこで彼女の名前が、佐藤であることを知った。
 
玄関のドアを開けた瞬間に、異空間に足を踏み入れたような感覚があった。そこは、さっきまでいたアンティークショップ以上に、マダムの世界観を表現した一室であった。
 
築年数がたった室内だったが、部屋の仕切りが取り払われ、二部屋がリビングとなっていた。店にあったのと同じ喫茶店のような木のカウンターが配置され、その奥はキッチン。使い込まれたオーダーメイドの食器棚には、アンティークの絵皿やカトラリー、ワイングラスが宝物のようにしまってあった。
 
天井から吊り下げられたガレのシャンデリアからオレンジ色の光が差し、部屋をあたたかく満たしていた。
 
「ちょっと待って。音楽かけるから」とマダムが身支度をしながらかけたのは、ビル・エヴァンスのピアノであった。
 
「音楽は大事なのよ。夕方はこのジャズを聴くことにしているの」
 
私がポカンとしていると
 
「朝には朝の音楽、雨の日には雨の日にあう音楽があるのよ」
 
と言った。彼女とはそのあと二十年近いつきあいとなったが、初めて教わったのが、そういった音楽に対する見解であった。
 
「アルコールは大丈夫? つくってる間、何か飲んでて。部屋も自由に見ていいから」そう言って白ワインの栓を抜き、食器棚からアンティークのグラスを取り出して惜しげもなく注いだ。
 
驚いた。アンティークは見るものであって、使うものだと思ってなかったからだ。
 
私は、グラスを片手に壁にかかっている絵や調度品を見てまわった。
 
知らないうちにカウンターには、日本で見かけることがない色合いの鮮やかでありながら品の良いオレンジのテーブルクロスが敷かれ、生ハムと菜の花のバルサミコサラダが置かれていた。まさにガラスに盛られた黄色とピンクの宝石のようであった。
 
それをアンティークのガラスの小皿に取り分けて頂いていると、刻んだイタリアンパセリがかかったアサリのパスタが、洒落たスープ皿に入って登場した。
 
どれもおいしくて、邸宅のレストランで食事をいただいている気分だった。さらに味をひきたてたのが、音楽であった。
 
昼夜を問わず働いてくたびれ切った私には、この空間に身を置くことが分不相応に思えた。服も会話のセンスもなく、私の身体だけがこの部屋では異物だった。しかし、どうしても彼女に伝えたくて笑われることを覚悟して言った。
 
「佐藤さんみたいにセンスよく暮らしてみたいです。私にできるでしょうか」
 
彼女は、真剣な表情で間髪入れずに力強く言った。
 
「誰にだってできるわよ。私が教えてあげるわ」
 
「ありがとうございます! ぜひ習いたいですが、私の給料では払えないかもしれません」
 
マダムはだんだん素になってきて「わかっているわよ、そんなこと」と言って、思いがけず想像以上に安い月額を提示してくれた。それには、条件があり、私が彼女の不得意なところや、できない力仕事をして補ったり、知らない世界を教えるというものだった。
 
毎週通うことに話がまとまった時、飼い猫のタマちゃんが出てきた。毛並みがよい三毛猫で、見るからに気位が高そうだった。私は、飼い主の手前もあり「かわいいねえ」と言って頭を撫でようとすると、ガブリと指を噛まれた。「痛っ」と思った瞬間にもう血がにじんでいた。
 
佐藤さんはビックリして、この子は誰にでもなつくし、誰かを噛むようなことは一度もなかったのよ、と言ってすぐに洗面所に案内して手当をしてくれた。
 
タマちゃんは、この時にわかったのかもしれない。佐藤さんと私がこのあとお互いの人生を変えるほどの子弟関係を結ぶことになることが。そして、自分の立場がおびやかされる不安を察知したのかもしれない。
 
私が、食事のお礼として佐藤さんに贈ったのは、「夕食どきに聴くモーツァルト」というテーマでモーツァルトの音楽を収めた自作のCDであった。私の両親は、クラシック音楽鑑賞が趣味であった。裕福ではなかったが、少しでも余裕があるなら、クラシックのコンサートへ行ったり、アルバムを買ったりするほうにお金をまわすような人たちだった。
 
だから、クラシック音楽を日常的に聴いていた。しかし、漠然とであった。佐藤さんから、音楽にはそれぞれ流すにふさわしいタイミングがあるということを学んだことを生かし、夕食の雰囲気を思いだしながら、自分なりに曲を選んでオリジナルCDをつくったのだ。
 
モーツァルトは、感情の浮き沈みが少なく、心に寄り添うような優しい作曲家だ。子供のころからそのことをよく知っていたので、ふだんジャズばかりでクラシック音楽を聴かない佐藤さんにも好まれるだろうと思ったのだ。夕暮れの風景を思い描きながら曲を選ぶのは楽しい作業であった。
 
彼女はとても喜んでくれ、私は自分が彼女のためにできることがあったことに心底ホッとした。
 
徐々に彼女と親しくなるにつれ、彼女がパニック障害に苦しんでいることがわかった。閉所で心臓が止まってしまうかと思うほど呼吸困難になる心の病だ。だから、電車に乗ることができず、遠出を避けているのだと言う。
 
若いときによく行ったパリへまた旅をしたいが、飛行機に乗ることができないのでもう一生外国旅行はできないということだった。彼女は、もう見ることができない外国の風景を再現するかのように、ヨーロッパスタイルの部屋やアンティークショップのインテリアを通して思いを成就しているのかと思うと、切なくなった。
 
その時に「モーツァルト療法」という言葉があるのを思い出した。幼児がモーツァルトを聴くとIQが高くなったり、モーツァルトの調べだけがもつ「ゆらぎ」のようなものが心を落ち着かせてくれる効果があるとどこかで読んだことがあった。
 
確かにモーツァルトの音楽を聴くと不思議と安らぐことが多い。バッハやベートーヴェン、ショパンなどほかの作曲家とは、異なる何かがモーツァルトの曲には存在しているという説には納得できた。
 
「佐藤さんのパニック障害が、緩和されるかもしれない」と私は、いろいろ調べ始めた。実際に欧米では、90年代から専門の研究チームが組まれ、モーツァルトの音楽を被験者に使って、効果の検証についての実験が何度も行われている。
 
しかし、残念ながら現在までどの研究結果からも確証が得られていない。
 
特に有名なのが、心理学者のスコット ・リリエンフェルドと3人の心理学の専門家たちによる共著、”50 Great Myths of Popular Psychology”(大衆心理学における、偉大な50の神話)で「モーツァルト効果」が誤解の一つとして取り上げられたことである。
 
この本では、裏付けがあいまいであるにもかかわらず、大衆心理の操作のために戦略的に使われる広範な誤解を取り上げて、一つ一つ検証しながら論破している。
 
例えば「ほとんどの人は脳力の10%しか使っていない」という説(脳は、体重の2〜3%でありながら、呼吸する酸素の20%以上を消費する。十分に活用されない臓器を維持するために進化したとは考えにくい)や「怒りは内に秘めるよりも表現するほうがよい」という説(実際は怒りを表現するほど攻撃性が増す)に続き、6番目の誤解として「モーツァルトの音楽効果」が登場する。
 
「モーツァルトの音楽は、メンタルに効果があるようですよ!」と伝えて希望をもってもらいたいと思っていたのだが、そのような結果を探し出すことはできなかった。
 
にもかかわらず、佐藤さんは私が作ったCDを昼夜を問わずかけていた。とても気に入って喜んでくれていたのだ。二人の間ではそのことだけで、モーツァルト効果は十分すぎるほどあった。
 
彼女からは「朝に聴くモーツァルト」というオリジナルのCDをつくってほしいという依頼があった。やりがいがあるリクエストだと直感した。というのは、私は無意識のうちにモーツァルトを朝聴くことが多いことに気づいたからだ。
 
モーツァルトの曲は、約600曲あると言われている。すべてを自分が持っているわけではなかったので東京中の図書館のCDの在庫を調べて借り、録音されているモーツァルトの曲はすべて制覇した。
 
直感した通り、このCDを作るなかでモーツァルトは夜よりも朝にふさわしい曲を多く作曲していることを私は痛感した。
 
最も朝に向いていると思って、一曲目に選んだのは、「交響曲 第29番 第一楽章」である。聴くと嵐のなかでも希望に満ちた朝の訪れを感じられるような、モーツァルトらしい明るさが炸裂した曲だ。
 
二曲目は「弦楽四重奏 第17番『狩』第一楽章」。刻々と移り変わる朝日のように繊細で優美な変化がある作品だ。
 
続いて「交響曲 第41番『ジュピター』 第一楽章」を持ってきた。大切なイベントがある日の朝に聴くと内側からエネルギーが湧いてくるような力強い調べが魅力だ。
 
さらに「ホルン協奏曲 第4番 第三楽章」、「フルート協奏曲 第2番 第一楽章」、そして有名な「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」は「小さな夜」という意味だが、この曲は朝にふさわしいと私は感じていたのでモーツァルトの意に反するかと思ったが、入れさせてもらい、全10曲をまとめた。
 
その後も彼女とのつきあいは続き、励まし続けて、結局二度ヨーロッパ旅行へ一緒に行くことができた。そのあとに東京から離れた高齢者ホームに住まいを移したが、荷物のなかに今でも私のオリジナルCDを持っていると息子さんから聞いた。
 
私は、今も毎朝モーツァルトを聴いている。最近ではオンラインで高品質の音楽を気軽に入手できるようになった。スマホの音楽アプリのなかに「朝に聴くモーツァルト」というプレイリストを作って、彼女にプレゼントしたのと同じ曲を入れてあり、ブルートゥースでつないだスピーカーから音を出している。
 
広くもなく豪華でもない我が家だが、カーテンを開けると、佐藤さんから譲り受けたフランス製の小さなテーブルに光が降り注ぐ。お気に入りのマグカップにブラックコーヒーを淹れ、口にする。そのときには猫たちも起きてきて、一緒にモーツァルトに耳を澄ますのだ。
 
世界はなんと美しいのだろうか。
ああ、今日も良い日になりそうだ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

VOICE OF ART代表。30年近く一般企業の社員として勤務。アートディーラー加藤昌孝氏との出会いをきっかけに40代でアートビジネスの道へ進む。加藤氏の富裕層を顧客としたレンブラントやモネの絵画取引、真贋問題についての講演会をシリーズで主催し、Kindleを出版。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなどアート作品の価値とシビアに向き合うプロたちによる講演の主催、自身も幼少期より芸術に親しむなかで身に着けた知識を生かし、「対話型芸術鑑賞」という新しいかたちで絵画とクラシック音楽の講師を務める。アートがもたらす知的好奇心と創造性の喚起、人生とビジネスへ与える好影響について日々探究している。

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2023-03-08 | Posted in 週刊READING LIFE vol.208

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