週刊READING LIFE vol.208

家の中に線を引いて《週刊READING LIFE Vol.208 美しい朝の風景》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/3/13/公開
記事:赤羽かなえ(READING LIFE編集部公認ライター)
※このお話はフィクションです。
 
 
だから、悠子には会いたくなかったんだよ。
 
夜に来たメッセージの文字を追っていたけど、文字がゆがんで先が読めなくなった。ソファに沈み込みながら目元をぬぐう。
 
『里香、久しぶりにあったらなんだか別人みたいだったよ。20年もつきあっているのに、わたしが知っている里香じゃない。私、遠くにいてメールのやり取りだけだったけえ、ちっとも気づかなかったけど、どしたん? まだ、我慢して言えてないこと、あるんじゃないん? ねえ、里香、幸せになって、どうにかして幸せになって』
 
私だってどうにかしたいんだよ、悠子。
 
でも、離婚して実家に戻るなんて親に負担になるようなことはしたくないし、かといって今の収入で子ども達を2人、一人で育てていく自信もなかった。今のままがベストだとは思えない、でも、今以外の選択肢がどうしても出てこなかった。
 
カチャ、という静かな音がして、人の気配がした。チラリと目をやると、雅也が台所に入ってきた。水を汲んで飲み、コップを洗って拭いて、それを持って静かにリビングから出て行った。私達の間に言葉は、ない。目も合わない。扉がゆっくり閉じていく。
 
どうにかしなきゃ、私。閉まった扉をしばらく見つめていた。

 

 

 

「ママ、康太がパパの部屋に入ってたよ」
 
「こうちゃん、どうしたの? パパの部屋には入っちゃダメって言われているでしょ。何していたの?」
 
康太が焦った様子で、雄太に食ってかかる。
 
「にいちゃん、言わないでよ」
 
「こうちゃん、パパの部屋で何をしたかったの?」
 
「……」
 
扉を開けて廊下に張ったテープを指さす。
 
「こうちゃん、廊下にテープで線がひいてあるでしょう? パパは、あの線の左側のパパの部屋とトイレとお風呂とキッチンだけ使う。雄太と康太とママは右側の2つのお部屋とリビングそれにトイレ、お風呂とキッチンって決めたの。だからね、入らないのよ」
 
「知ってるよ。でも、陽介君や木谷君の家は、うちみたいに線とか引いてないし。誰かの部屋に入ったら、ちょっとは怒られるけど、うち変じゃん。あんな風に壁に穴あいていることもないし……」
 
康太が指したリビングの壁には穴が開いていた。
 
まっすぐ、康太の目線を避けるように、私は、目を伏せた。しばらく、どのように伝えようか考えたけど、結局、嘘をついたところが収まるわけではない。
 
「そうだよね。うちみたいに家の廊下に線を引いたり、壁に穴が空いたりすることは、お友達のおうちにはないかもしれないね」
 
康太の純粋な質問に胸の奥をぎゅっとつかまれたような息苦しさを覚えた。本当だったら、康太は悪くない。他の家では父親の部屋に子どもが入ることなんてそんなに大きな事件ではない。でも、我が家ではそうはいかない。
 
「康太ごめんね。うちは、みんなのおうちとはちょっと違うの。パパは、自分の部屋に誰にも入ってほしくないんだ。線を引いているのもね、パパとママが一緒に暮らすために作ったうちだけの決まり事なんだよね。それが守れないと一緒に暮らせなくなっちゃうから……」
 
康太は俯いた。しばらくすると、静かな嗚咽と共に床に水滴が落ちてきた。康太の涙だった。彼はポケットから折りたたんだ紙を出した。
 
「パパの部屋に置こうと思ったの。お手紙、読んでほしくて」
たたまれた紙には『パパへ』と書かれているのが見えた。
 
「そうなんだ、きつい言い方しちゃって、ごめんね」
 
康太はうなずき、雄太が気まずそうに、口をもごもごとさせた。そんな雄太を見つめて声をかけた。
 
「雄太は、心配してくれたんだよね。前に部屋に入った時に、パパ怖かったもんね」
 
雄太はうなずいてから目を潤ませた。
 
「うん、あの時、すげえ怖かったから……」
 
「康太はお兄ちゃんのことも怒らないでね。お手紙はパパの部屋の扉に、テープで貼っておいたら気づいてくれるかもしれない」
 
康太の顔がパッと明るくなった。
 
「うん、そうする。テープでドアに貼っておくね」
 
康太が貼った手紙は、それから3日ほどそのままになっていた。金曜日の夜、ほろ酔いの上機嫌で雅也がキッチンに入ってきた。手紙を左手に持って、
 
「康太、手紙、ありがとな。あとで読むから」
 
と笑いかけた。康太は、息を潜めてその言葉を聞いてからはにかんだように笑った。横にいる雄太に歓声をあげながら絡んでいる。雄太は面倒そうに康太を押しやるけど雄太もいつもよりもソワソワしていた。二人とも段々興奮してじゃれあい、ちょっとしたことで馬鹿笑いしている。
 
「里香」
 
雅也が珍しく、優しい声で話しかけてきた。はしゃいだ2人の空気が移ったのか、私も久しぶりに普通に、
 
「何?」
 
と返していた。
 
「あのさ、最近、面白い人と友達になって。200万投資したら、半年後には、250万になるっていう案件があるって言うんだけど、俺、今手持ちがないからさ、実家から100万借りて、あと、お前の金……出せない?」
 
「え? 何を言ってるの……?」
 
雅也は心から無邪気な笑顔を浮かべているように見えた、だからなおさら信じられなかった。私の目は泳いで、彼から目をそらした。子ども達から流れてきた浮き立った気持ちが一瞬で冷えた。
 
「ちょっと待って。雅也、もう既に200万、実家に肩代わりしてもらっていたよね。お義父さんとお義母さんだって大事に貯めてきた老後の資金を、あなたのギャンブルで作った借金に充ててくれたんだよね? まださらに100万円借りようって、しかも私にまでお金出せって……それは、自分ではおかしいとは思わ……」
 
最後まで言う前に、雅也が壁を叩いた。子ども達の笑い声が一瞬で止まる。雅也の顔からさっきまでの無邪気な笑顔が消え、みるみるうちに険悪な表情になった。
 
「うるせえな、やっぱりお前、話になんねえわ」
 
「子どもたちがいるから、壁を叩いたりとか、そういう乱暴なのはやめて」
 
「お前が、余計なこと言うからだろ、半年で50万儲かるんだから、1年置いといたらお前の出した分は戻るじゃねえか。親の200万なんてすぐに返せるだろ。頭のわりぃ奴はこんな得なことがわかんねえのかよ」
 
雅也はもう一度、壁を拳で叩くと、乱暴に扉を開けリビングから出た。
 
カウンターの上には、康太が書いた手紙が置きっぱなしになっていた。康太と雄太は部屋の隅に避難して壁際に肩を寄せ合って遊んでいるフリをしている。2人に見えないように手紙を回収し自分のポケットに隠す。心臓がせり出しそうなくらいの苦しさを深呼吸で吐き出してから、静かに2人に声をかけた。
 
「雄太、康太、ごめんね、おそくなっちゃった。もう、寝ようか」
 
2人は、寄ってきて私に抱きついた。特に雄太は身を縮めて震えていた。
 
「ママ、僕、パパが怖い」
 
雄太はつぶやいた。
 
「あんな風に怒鳴られると胸がぎゅっと苦しくなる。前に、パパが怒った時のことを思い出して……」
 
私は、身をかがめて2人を抱きしめた。
 
「雄太、昔のことを思い出しちゃうんだね」
 
雄太は何度か頷く。康太が「昔のことって何?」と聞く。
 
「昔、パパとママがケンカした時にね、パパが壁を蹴って、壁に穴が空いた、その時の飛んだ破片が僕の足に当たったの、それはちょっと傷になっただけだったけど、痛くて泣いたら、パパが迫ってきて『お前がそんなところにいるからいけないんだ』って。壁みたいに蹴られるんじゃないかと思って怖くて……その後はよく覚えてないんだけど」
 
その後、雄太は恐怖のあまり失神した。その時に赤ちゃんだった康太を抱えていてすぐに助けてあげられなかった自分が情けなくて、翌日に廊下にテープを貼った。さすがに子どもを恐怖のどん底に陥れてしまったことに負い目があったんだろう。彼はそれ以降テープのこちら側にでてくることはなかった。それから既に5年が経っている。
 
「明日、パパのおばあちゃんのおうちに行こうか」
 
2人は静かに頷いた。
 
その夜は、私の布団を挟んで両隣で寝る2人が寝付くまでずっと離れなかった。
2人の寝息が聞こえても、私の眠気はやってこなかった。
 
『どうにかして幸せになって』
 
という悠子からのメッセージが脳の裏にこびりついていた。

 

 

 

翌朝は曇天で今にも雨が降り出しそうだった。雅也の実家について玄関に上がったくらいから雨が降り始めた。客間に入ると、義父がこちらに向かって手をついた。
 
「里香さん、本当に雅也が迷惑をかけて申し訳ない」
 
「お義父さん、そんなやめてください」
 
義父は、畳に頭を擦り付けそうになるくらいに土下座をした。
 
「確かに雅也はこの間うちに来て、あと100万どうなるかって聞きに来たんだよ。また、ギャンブルのことかと思って里香さんが前に壁に穴が開くぐらいのケンカになったというのを思い出して、今回も……渡してしまった」
 
「お義父さん! 本気ですか……!」
 
既に渡していたとは思わなかった。鳥肌が立った両腕を手のひらでさすった。ただ頭を下げ続ける義父の薄くなった頭頂をじっと見つめるしかなかった。
 
「わしらが、雅也に良かれと思ってなんでも与えてきたのがいけなかったんだろうか、あの家も世話をしてやったし、進学先も就職先も全部決めてやった。あいつの意思や希望は何一つなかった。あいつが幸せになれるように道筋をつけてやりたいという一心だったが……」
 
『俺は、あいつらの人形だったんだよ。学校も働き先も勝手に決めてきて。だから、付き合うオンナくらいは俺が決めたかった。あいつらが一番嫌がりそうな女を連れて行こうってお前を連れて行ったのに、大喜びで勝手にお前の親と話しつけて結婚まで持っていって、最後は家まで探してきて……。親に認められたお前なんか、俺にとっては無価値なんだよ』
 
休みの日にパチンコ屋に出かけようとする雅也を責めた時に、逆ギレされて投げつけられた言葉に完全に心のシャッターが降りてしまった。まだ抱っこをせがむ雄太を抱えながら、妊娠中の重い身体を引きずって公園に行き、ベンチに座って泣いたのを思い出す。そのときだって、親が悲しむ姿を見たくなくて実家には帰れなかった。
 
「お義父さん、私、もう……」
 
その時にずっと黙って話を聞いていた義母が口を開いた。
 
「お願い、里香さん。私達も努力しているの。お金も出した、きっと雅也はいつか気づいてくれる。私達が大事に育ててきた子だからきっとわかってくれる。だから、お願い。出て行くのはやめて。もちろん、離婚なんて、しないわよね? そんなことしたら、私達、世間様にどう見られるのか……」
 
彼の金グセの悪さが縁の糸になって義両親とはお互いに同情のような関係でつながっているような気がしていたのに、その糸があっさりとちぎれた。あんたたちの世間体のために、私達がなぜ我慢しないといけないの? 今、私と子供達の生活が脅かされているのに、気づいてくれるかくれないかもわからない雅也の「いつか」なんて到底待てない。
 
「スミマセン、気分が悪いので帰ります」
 
「里香さん、具合が悪いのなら、少し休んでいっても……」
 
義母が気遣うように私を伺うのが見えたけれど、目をそらした。黙って立ち上がると、隣の部屋で遊んでいた子ども達に帰ろうと声をかける。
 
「え、ママ、もう? もう少し遊びたいな……」
 
康太は少しぐずるようなそぶりをみせた。でも、雄太はじっと私のことを見て、「康太、片付けよう」と静かに言った。2人はおもちゃを片付けると、義両親に「バイバイ」と手を振った。
 
「雄太も康太も、またおいで」
 
義父の声に黙って会釈して家を出た。背中に視線を感じたけど、一切振り返らなかった。その時に携帯電話が鳴った。母だった。
 
『里香、お母さん、あなたの家の前にいるんだけど、出かけているの?』
 
生温かい風が頬に吹き付け、髪を乱暴に撫でていった。

 

 

 

「なんで、こんなになっているって言わんかったん?」
 
母は線が引かれた廊下を見て絞り出すように言った。
 
「だって、お母さん達心配すると思ったから」
 
「それにしたって、もう何年も来ないでって言っていたのはこういうことだったん……こんな風に廊下に線を引いて、家の中でお互いに行き来しないなんてそんな状態になっていたなんて思わなかったけえ。悠子ちゃんが電話くれたんよ。あんたの様子がおかしいって、里香はなんか我慢しとると思うって、おばちゃん行ってあげて言われたから……」
 
「お母さん、ごめん、ちゃんとできんかった……」
 
絞り出したのは地元の言葉だった。自分の口からこぼれた故郷の言葉が懐かしくて、急に涙が出た。声にならないままうずくまった。
 
「里香、家に帰ろう。みんな驚くだろうけど、大丈夫じゃけえ」
 
「でも、お父さんとお母さんに迷惑かける……」
 
「いいんよ、子どもは迷惑をかけるのが仕事なんよ。あんたは、いつも自分で決めて手がかからんいい子だったんじゃけ、こんな時くらい家を頼りんさい」
 
それから、数日かけて荷物をまとめた。車に詰め込むだけ詰め込んで、余った箱は宅配に出す。荷物がなくなる度に、身体が軽くなるような気持ちがした。
 
家を出る前日の夜は、あまり眠れなくて早く起きて丁寧に掃除をした。廊下に貼ったテープの線もキレイにはがし、後がないように拭き上げる。掃除で身体を動かしてからリビングに入ると、カーテンを外しているせいか、いつもよりも寒かった。掃除道具の片づけをして、リビングでコーヒーを入れる。沸いたお湯が蒸気になって空中に消えた。
 
起きた時には夜だったのに、コーヒーを入れた頃には、遠くの山の稜線がくっきりと朝と夜を分けていた。
 
湯気の立つコーヒーを少しずつ飲みながら、ぼんやりと朝日が上がっていくのを眺める。
 
悠子……ありがとう。私、地元に帰るよ。そして、雄太と康太と一緒にどうにかして幸せになるから。
 
山の線が消えるほどの太陽の光がふくれあがってあたりが赤く染まる。
 
これから、つらいこともあるかもしれないけれど、その度に、私はこの美しい朝を思い出すのだろう。
 
コーヒーの中に涙が一滴、落ちて溶けた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
赤羽かなえ(READING LIFE編集部公認ライター)

人とモノと場所をつなぐストーリーテラーとして、愛が循環する経済の在り方を追究している。2020年8月より天狼院で文章修行を開始。腹の底から湧き上がる黒い想いと泣き方と美味しいご飯の描写にこだわっている。人生のガーターにハマった時にふっと緩むようなエッセイと小説を目指しています。月1で『マンションの1室で簡単にできる! 1時間で仕込む保存食作り』を連載中。天狼院メディアグランプリ47th season 、50th seasonおよび51st season総合優勝。

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院書店「東京天狼院」

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168


■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」

〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325


■天狼院書店「シアターカフェ天狼院」

〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目8-1 WACCA池袋 4F
営業時間:
平日 11:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
電話:03−6812−1984


2023-03-08 | Posted in 週刊READING LIFE vol.208

関連記事