週刊READING LIFE vol.211

3つの名言ですぐわかる、天才・ピカソの鑑賞方法《週刊READING LIFE Vol.211 お気に入り〇〇ベスト3》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/4/4/公開
記事:杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
30億円が手元にあったとしたら、あなたは何に使いますか?
 
世界一周旅行?
タワーマンション?
一部屋買っても、まだ数部屋買えるくらいおつりがきてしまいますね。
 
実は先日、ロンドンのオークションでおよそ30億円でピカソの絵が落札されました。そう、たった一枚の絵画に大金を投じる人たちがこの世には存在しています。
 
ピカソ。皆さんはこの画家にどういうイメージをお持ちですか?
おそらく多くの人が、人や物を幾何学的図形に置き換えた独特の作風を思い浮かべるかもしれません。これは、キュビズムと呼ばれる表現のスタイルでピカソはこの方法の創始者なのです。
 
代表作『アルジェの女たち』というシリーズのなかの一枚は、2015年にニューヨークのオークションでおよそ215億円(当時の換算金額)で落札されました。これは当初の予想168億円を大きく超えるものでした。
 
ですから、ロンドンのオークションの話を聞いて「30億円でピカソを手に入れることができたなんて、とてもお買い得だったのではないか」と感じました。
 
その絵のタイトルは、『Girl in a Boat”(ボートのなかの少女)』といいます。1938年の作品で、舟のおもちゃで遊んでいるピカソの娘マヤが描かれています。
 
1999年に、一度この絵がロンドンのオークションに出品されたことがありました。そのときは、約6億円で落札されました。24年の時を経て、5倍の価値になったのです。ピカソの絵の価値は今後も上がり続けると業界では予測されていますから、持っていれば数年後、数十年後とさらに高値を更新し続けることでしょう。
 
「いや、自分には縁がないな」と思っていませんか。ピカソは、92年の生涯でおよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作しています。最も多作な美術家として『ギネスブック』に記録されているほどです。
 
「ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる」とピカソは実際に言ったことがあるそうです。まさに、旺盛な創作意欲の持ち主でした。
 
さらに支払いを小切手でしていたピカソですが、銀行からお金が引き落とされることはなかったといいます。その小切手に記されたピカソのサインが、金額よりも価値があったからだというエピソードが残っているのです。
 
つまり、他の画家より多作であることに加え、そういった価値のある署名まで含めると換金可能な品がふんだんに存在しているわけです。あなたが人生のどこかですれ違う確率も高いのです。
 
とは言え、世界中に熱狂的なピカソのコレクターが存在しているため、もしお金が準備できたとしても入手するには激しい争奪戦を勝ち抜かねばなりません。
 
その証拠に国内外に存在する「ピカソ美術館」を検索すると、ゆうに10館を超えます。これは、一人の画家の名前を冠した専門美術館としては異常な数です。
 
日本でもピカソの作品を所蔵している美術館はたくさんあります。有名なのは、アーティゾン美術館、ポーラ美術館、箱根彫刻の森美術館、ヨックモックミュージアムですが、北海道の荒井記念美術館、愛知県美術館、ひろしま美術館でも見ることができます。
 
私個人は、ピカソを買う立場にまわることはとてもできそうもありません。ですから、美術館で見る立場からピカソを愛するつもりです。
 
さらに今回ご紹介したいのは、作品同様に鑑賞に値するピカソが発した言葉の数々です。
 
画家というと、経済的困難のなかで制作に打ち込むイメージがあります。実際に画家のゴッホがそうでした。生前に売れた絵は1枚と言われています。そのため生活が苦しく、絵具を買うお金もままならないほどでしたので、弟がゴッホに仕送りをして経済的支援をしていました。
 
一方、その逆をいくのがピカソです。自分を売り込む術に長けていて、作品制作のためならデキるビジネスマンのように冷徹な戦略家になることができました。彼は意図的に作風を何度もガラリと変えた、まれに見る画家ですが、その理由は画商のニーズに合わせるためだったと言われています。
 
有名なエピソードを一つ紹介しましょう。彼がまだ無名だった頃、今で言うサクラを使って、ギャラリーで「ピカソの絵はある?」と尋ねてまわらせたそうです。画商にピカソという画家が最近人気が出ていると思わせるためです。後日、ピカソ本人が絵を持ち込んで作品が買い上げられたそうです。
 
彼の遺産は、現在の日本の円換算で7,500億円にのぼったと言われています。成功した画家なのです。彼にとって作品づくりとは、自分の価値を高める手段でした。そのためにどうすればいいのかという現実問題に対して、天才的に対処していったのがピカソなのです。
 
創作活動に一生を捧げるなかで、ときに自分の限界を超えるために、ときに鼓舞するために生まれたエネルギッシュな名言はアートにふだん関心がない人たちの心をも吸引する魅力に満ちています。
 
今回は、ピカソの3つの言葉を、彼の人生とともにご紹介しましょう。
 
私が個人的に最も気に入っているものはこちらです。
 
『すべての子供のなかにアーティストが潜んでいる。問題は、大人になっても、どのようにしてアーティストであり続けるかだ』
 
ピカソが最後まで追い求め、尊んだのは、子供のような自由な精神でした。
 
1881年にスペインのアンダルシア地方で生まれたピカソ。お父さんは、画家だったそうです。そのような環境で、幼いころからピカソも絵を描く才能を発揮していました。
 
バルセロナのピカソ美術館には、彼が子供時代に描き残したスケッチなどがたくさん収められていますが、見た人は全員その上手さに舌を巻くのではないでしょうか。
 
10代のピカソは、写実的で伝統的な油絵を描いていました。精緻な画風は、画家として突出した才能を持ち合わせていたことがうかがえます。
 
そのような高い技量がありながら、実際に描いたのは一見すると落書きのような絵。それに対して「なぜ、あえて上手く描くことをしなかったのだろう」と不思議に感じる方もおられることでしょう。
 
大人として成長するに従って、私たちはいろいろなものに囚われていきます。一般常識や過去の経験からくる既成概念、しがらみ、偏見、思い込み……枚挙に暇がなく、それは画家であっても例外ではありません。
 
ピカソはそのことを受け入れたうえで超越し、子供のように何かにとらわれることなく自由に描くことを理想としました。
 
実際にピカソにとって、このことが大変重要なテーマであったことは間違いありません。同じ意味合いの言葉をいくつか残しています。
 
『ラファエロのように描くには4年かかったが、子どものように描くのには一生涯かかったよ』
 
『若くなるには時間がかかるんだ』
 
テクニックではなく、子供の精神をもって描くという、非常に難しく高度なことをやってのけたこと。それが、ピカソが高く評価される理由の一つでもあるでしょう。
 
二番目の名言は、女性についてです。
 
『愛は人生において、最も優れた栄養源である』という言葉を取り上げます。というのは、ピカソは、女性関係が大変華やかであったことでも有名なのです。
 
先ほども言いましたが、ピカソほど画風が大胆に変わっていった画家は、いないといわれます。青の時代、バラ色の時代、アフリカ彫刻の時代、キュビズムの時代、新古典主義の時代、シュルレアリスムの時代と変化していきます。
 
このめまぐるしい画風の変容は、つきあっていた女性からインスピテーションを得たためだと言われます。
 
彼は、生涯で7人の女性を愛し、2度結婚し、3人の女性との間に4人の子供を持ちました。しかし、安らぎを感じるのは短い期間で、すぐに激しい嵐のような愛憎劇の数々が繰り広げられました。
 
最初の恋人は、絵画モデルのフェルナンド・オリヴィエです。スペインからパリへ拠点を移した10代のピカソは、絵が売れず、貧しい生活をしていました。当時は盲人や娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々をモデルに、絶望や孤独、貧困などの苦悩をテーマとした作品群を制作しました。この時代に描かれた絵を「青の時代」と呼びます。
 
そんなときにフェルナンドと出会ったのです。彼女と過ごす幸福感が作品にも影響し、画風が明るく優しくなりました。この時期を「バラ色の時代」と呼びます。開いた個展が成功し、世間に才能が認められるようになります。
 
しかし、2人の仲は7年で終わりを告げました。理由は、ピカソがオリヴィエの友人だったエヴァ・グールとつきあい始めたからです。オリヴィエは、経済的に困窮し、のちに二人の関係について本を書いています。日本でも1964年に『ピカソとその周辺』というタイトルで出版されました。現在は絶版ですが、国会図書館で読むことができるようです。
 
エヴァとつきあっていた頃に生まれた作品を「アフリカ彫刻の時代」と呼び、これが「キュビスム」が誕生するきっかけとなりました。しかし、病弱だったエヴァは、結核で亡くなってしまいます。
 
次に最初の妻となる、オルガ・コクローヴァとの出会いがやってきます。彼女は、ロシア貴族の血を引くバレエダンサーでした。彼女から「私を描くときは、私とわかるように描くこと」と言われます。
 
その言葉を受けて「新古典主義」といわれる写実的な表現に立ち返りました。しかし、妻オルガと次第にうまくいかなくなったピカソは、46歳のとき、17歳のマリー・テレーズを愛人にします。
 
ピカソはマリーを「完璧な顔と身体」とたたえ、再び画風が変わります。非現実的な形態のイメージで人物を描き、独自の世界観を深めた「シュルレアリスムの時代」の到来です。8年後マリーは妊娠し、ピカソは妻オルガのもとを離れ、彼女と暮らし始めますが、子どもを産んだ翌年には母となったマリーへの興味は失せてしまい、写真家で画家のドラ・マールとつきあうようになります。
 
マリーとドラは、ピカソの前で格闘して激しく争い、ピカソはその様子を楽しんでいたといわれています。ピカソは、そのとき、傑作といわれるスペイン内戦をテーマにした『ゲルニカ』を制作中でした。去ったマリーはそのあと、自殺してしまいます。
 
才気あふれるドラに刺激を受け、モデルとして描き、代表作『泣く女』が生まれました。実際に彼女は、よく泣き、ピカソはその泣きっぷりに感心していたそうです。ピカソとの破局のあとは、彼女は精神病院に入院しました。
 
62歳のピカソが次に愛人にしたのは、22歳の画学生フランソワーズ・ジローでした。
フランソワーズは、ピカソとの間に一男一女を生みますが、ピカソの女性関係(性的虐待癖ともいわれる)に嫌気がさし、子供を連れて出て行ってしまいます。
 
フランソワーズの別れのセリフ「あなたのような歴史的記念碑とは、これ以上生活を続けたくない」は、当時名台詞として話題になりました。当時ピカソは72歳。女性に振られたことがなかったので、大きなショックを受け、家に引きこもります。
 
フランソワーズが、ピカソとの10年にわたる関係を綴った回想録『ピカソとの日々』は、1964年に発刊されました。当人からの差し止め請求があったにもかかわらず、アメリカではベストセラーとなり、日本でも読むことができます。
 
つきあった最後の女性は、ジャクリーヌ・ロックで79歳のピカソの2番目の妻となりました。これは、ピカソのフランソワーズに対するある種の復讐のような意味もあったと言われています。
 
1973年4月8日、フランスでピカソは亡くなります。ジャクリーヌは、あとを追うようにピストル自殺しました。
 
このほかにもピカソには何人ものガールフレンドがいて、その数は数十人と言われています。
 
ピカソについて高名な画家というイメージだけを持っていた方は、名声の陰にあった女性関係の闇に驚いたかもしれませんが、彼が希代のアーティストだったことは間違いなく、現代アートに与えた影響はとてつもないものです。
 
死後50年たった今もそうです。2023年2月にマドリードで開催されたアートフェアでは、スペインのアーティストによってピカソの「遺体」が等身大の彫刻作品として出展され、世界中のニュースとなりました。もちろん、実際の遺体ではなく、白地にブルーのボーダーシャツと白い麻のパンツにエスパドリーユ(地中海地方のスリッポンシューズ)を履いた多くの人が思い浮かべるピカソのイメージをかたちにしたものです。
 
今もなお、ピカソはあがめられ、注目され続ける存在なのです。
 
それほどの画家であるがゆえに、一般の人よりも重い「業」を背負ったのではないかと考えるのは私だけでしょうか。ですから、スキャンダラスな女性関係について知ったあともピカソへの思いは変わることはなく、唯一無二のアーティストとして彼を位置づけています。
 
彼が懸命に生きたことを証明するかのような言葉を最後に紹介します。
 
『覚えておくんだ。生涯あなたに付き添ってくれる唯一の人はあなた自身なんだ』
ピカソは、孤独のなかを最後まで強く生き切った、そんな気がしてきます。
 
画家の言葉を知ることで作品の根底にあるものが、初めて浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 
なぜ、ピカソの絵は高いのか?
それは、作品の価値には、作品そのものに加え、その背後にある画家の生きたストーリーもカウントされているからです。ピカソはこのことを最初からわかっていて、ドラマチックな生きざまを付加価値として加え、最後の仕上げとしたのではないでしょうか。これは推測にすぎませんが、ピカソならそこまで考えたのではないかと思うのです。
 
彼の作品は、その生き方が伝説化するにつれ、年月がたつほどに価値が高まっていく「特別なアート」と呼んでもよいかもしれません。
 
今はピカソが亡くなって数十年しかたっていないため、戦禍や災害で失われてしまったものが他の画家に比べて少なく、美しい状態でふんだんに作品が残されています。
 
天才・ピカソの作品を気軽に鑑賞できる幸せを享受しない手はありません。今週末にでも美術館を訪れてはいかがでしょうか。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

VOICE OF ART代表。30年近く一般企業の社員として勤務。アートディーラー加藤昌孝氏との出会いをきっかけに40代でアートビジネスの道へ進む。加藤氏の富裕層を顧客としたレンブラントやモネの絵画取引、真贋問題についての講演会をシリーズで主催し、Kindleを出版。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなどアート作品の価値とシビアに向き合うプロたちによる講演の主催、自身も幼少期より芸術に親しむなかで身に着けた知識を生かし、「対話型芸術鑑賞」という新しいかたちで絵画とクラシック音楽の講師を務める。アートがもたらす知的好奇心と創造性の喚起、人生とビジネスへ与える好影響について日々探究している。

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2023-03-29 | Posted in 週刊READING LIFE vol.211

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