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週刊READING LIFE vol.213

「生きている人すべてが、お産の当事者なんですよね」《週刊READING LIFE Vol.213 他人の人生》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/5/1/公開
記事:前田光 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
恥ずかしながら、「助産師さん」とは単に、出産前後に妊産婦に向けて、気を付けることやためになる話をしてくれ、いざ出産というときには「はい息を吸って、吐いて、あともう少しですよ頑張って」などと妊婦を励ましてお産をリードしてくれる人、くらいの認識しかなかった。自分が実際に妊娠、出産、子育てをしてみるまでは。
ああ本当にごめんなさい、私が無知でした。過去の私もここで謝れ。どれだけお世話になったか分からないじゃないか。
 
最初の子は正産期に入る一か月半前に早期破水を起こして緊急帝王切開になってしまった。二人目は陣痛が強くなるにつれて胎児の心拍が低下し、緊急帝王切開に切り替わる瀬戸際での経膣分娩だった。三番目は正産期に入る一週間前に自宅で昼寝をしていたらその間にお産が進んでしまって病院に行くのが間に合わず、自宅の玄関で生まれてしまった。それぞれの出産時に助産師さんが関わったのは言うまでもないが、そのときと同じ、いやそれ以上に産んだあとに助産師さんにはめちゃくちゃ助けられてきた。
 
たとえば私は、最初の子の出産後すぐから、乳腺炎に悩まされ始めた。乳腺が詰まらないよう脂っこいものも控え、赤ちゃんが好むような優しい味の母乳が出るようにカレーなどの刺激物も避けたりして、グルメな赤ちゃんのご要望に精一杯応えるべく(私たちも赤ちゃんだったころ、超高感度の舌センサーを持っていたらしい。今は何を食べたって平気なのに)最上級のおっぱいが出るように細心の注意を払っていたにもかかわらず、だ。一晩中、いや一日中、いや数か月は続く三時間おき授乳を繰り返しながら気が付くと、どちらかの乳房がパンパンに腫れて熱を持っていて、自分で絞っても何も出てこなくなっている。元気なときならこんなに乳が張っると、「お前っ、じょうろかよっ!」と突っ込みたくなるくらいピューピュー射乳するのに。出口がふさがれているのに内部では乳が生産され続けて内圧が高まっているうえ炎症も起きているので、乳房が痛くてたまらない。温めると血液循環がよくなって余計に乳が作られるというので(蛇足だが、おっぱいの原料は血液だ。胸のところまで運ばれてきた血液が乳腺を通ると、あの白い母乳になるそうだ。生き物の体スゴイ)冬の寒い夜でも布団は胸より下までしか掛けず、「このまま悪化して乳房切開になっちゃったらどうしよう……」とおびえながら、ひたすらに夜明けを待った。
 
朝一番におっぱいマッサージの助産師さんに電話を入れ、車を走らせて〇〇助産院の玄関をくぐる。大抵このころには高熱も出ているので、おむつその他の入った大きなバッグと赤ちゃんを抱えた私は、寝不足も相まってフラフラである。おおお、助産師さんの後ろから後光が射しているのが確かに見えるぞ、私には。
 
服を胸の上までたくし上げてベッドにあおむけに横になると、服が濡れないようにお腹の上と捲り上げた服にタオルがかけられ、お湯を張った洗面器と別のタオルが用意される。すると助産師さんがまずお湯に浸して絞ったタオルでおっぱいを包んで温める。血行が良くなったところで、助産師さんの両手がリズミカルにおっぱいをマッサージし乳首を絞り始めると、さっきまで石のように押し黙っていた乳房が、パアアッと息を吹き返す。白い噴水が30センチくらいの高さにまで吹き出して、私の顔にも助産師さんの顔にも乳のしぶきが飛んでくる。「絞る」と言ったが、この言葉はドンピシャではない。でもほかにピッタリくる言葉が見つからない。敢えて言うなら、赤ちゃんに吸われている状態を指先で再現しているという感じだろうか。こんな風にあやふやな説明しかできないのは、横になっている私の目からは、助産師さんの手がどんなふうに動いているのかが見えないからだ。だからその間はただ、行き場を失って中にたまった古い乳が勢いよく出て行く感覚を、安堵と爽快感とともに味わっていた。
 
「これ、詰まっていたおっぱいなんだけど、ちょっと舐めてみて」
黄色っぽくて粘り気のある古い母乳は、超低感度センサーしか装備していない私の舌も「まっず!」と言っていた。
赤ちゃんが好きなのは青白くて透明感のある、サラッとしてほんのり甘いおっぱいなんですよと助産師さんは言い、
「おっぱいが詰まったら、まずは赤ちゃんに『ごめんね、ママのおっぱい美味しくないよね、でも〇〇君が飲んでくれたらママとっても助かるんだ。飲んでくれないかな?』とお願いしてごらん。赤ちゃんはちゃんとお母さんの言っていることが分かるし、お母さんのお願いは聞いてくれるから」
と教えてくれた。
 
それからはおっぱいトラブルが起きるたびに「ごめんね、お母さんのこと助けて」と息子を拝み倒しながら、赤く熱を持った乳を含ませた。助産師さんの言ったとおり、息子はそのまずい母乳を吸い、詰まった乳を何度も貫通させてくれた。ウソだ、気のせいだと思われるかもしれないが、本当のことだ。赤ちゃん育ては母親が一方的にしてあげることで成り立つわけじゃなくて、母と子がコミュニケーションを図りながらやっていくものなんだな、育てられる赤ちゃんもまた子育ての共同参加者なんだなと知らされたできごとだった。助産師さんのあの一言がなかったら、私はずっと息子とのコミュニケーションを置いてきぼりにしたまま、母乳育児への恨みつらみを限界まで募らせていったかもしれない。もっとも、息子の力だけでは解決できないときも確かにあって、そのたびに助産院の扉を叩いていたけれども。
 
二人目の出産は経膣分娩だった。帝王切開歴がある経産婦の出産は帝王切開以外受け付けませんという病院も多いが、私のお世話になったところは、前回の帝王切開の理由によってはTOLAC(既往帝王切開後妊娠の経膣分娩)を受け入れてくれるところだった。
幸い今回は、妊娠中の経過に何ひとつ問題はなかったが、いざ陣痛が始まると長女の心拍が下がった。それで急遽帝王切開に切り替えることになったが、手術室の準備が整う前に子宮口が全開したため「だったら腹を切るより下から産むほうが早い!」ということになり、そのまま分娩室に急ぎ(実際に急いだのは車椅子に座った私を押してくれた看護婦さんだったが)、経腟分娩としては初産婦なのに、驚きの「分娩室入室後15分スピード出産」となった。この超安産体質が、次女の出産のときに思わぬ形で発揮されることになるとは、このときは想像もしていなかったが。
 
帝王切開だった一人目のときにくらべると産後はまだ楽だったが、退院後に別の問題が起きた。産後の床上げが終わるか終わらないかの頃に、息子の通う保育園から電話がかかってきて、園長先生は、息子さんに手をかけていないのではないか、と前置きしてこんな風に話を続けた。
 
「先日の遠足で、息子さんは公園に設置してあった揺れる吊り橋を怖がって、渡るのを嫌がりました。頑張ってと声をかけてやらせたところ、怖いからとハイハイして渡りました。こんな子は他にいません。ご家庭で親御さんから遊ばせてもらう経験が少ないからでしょう。お母さんが積極的に外に連れ出していろんな体験をさせてあげてください」
一通りの子育てを経てそれなりに経験も積み、図太くもなった今の私なら、「子どもがこれからどんなふうに成長するかは未知数です。今できないことがあったとしても、長い目で見てください」とかなんとか、つまり「うっせーわ」を丁寧な表現に変換して伝えるだろうが、当時の私は産後疲れに長男への罪悪感も加わって、
「ご存じでしょうが、私はつい先日出産したばかりで、下の子の世話で手いっぱいで長男を公園で遊ばせる余裕がありません」
と伝えるだけで精一杯だった。
いくら産後のダメージが少なかったとはいえ、首も座らない乳飲み子を抱えて公園に遊びに行くなんて、考えただけで心が折れそうだった。
だが先生の答えはとにかく外に連れて行け、発達が遅いの一点張りで、私はできませんと涙声になりながら電話を切った。
一生懸命やっているつもりなのに、私のせいで長男の発達が遅れているのだ。だったらどうすればよかったのか。次の子を産まなければよかったのか。でも時計の針は戻せないし、これから長男の外遊びにみっちり付き合うわけにもいかない。どうしたらいいんだ。
 
このときにも助産師さんに相談した。相談したというより、単に愚痴を聞いてもらっただけだったが、話すだけで楽になった。
 
「息子さんは早生まれですよね。四月生まれの子と三月生まれの子に一緒のことをさせるのが保育園ですから、早生まれの子にできないことが多いのは当たり前ですよね。保育園の先生は、在園中の子どもたちのことはよく見ているかもしれないけど、卒園したあとにどう成長したかなんて知りようがないんです。小さいときにゆっくりさんだった子のなかには大きくなって運動が得意になる子だってたくさんいるのに、それは知るすべがないんですよね。だから今のことだけ見て判断したことしか言わないし、言えないんですよ」
 
今こうして書いてみて分かるとおり、助産師さんの話はごく当たり前のことで、とりたてて特別な情報があったわけではない。だけど当時の私には、それを「たくさんの子どもを取り上げて成長を見守ってきた助産師さん」の口から聞くことに大きな意味があったのだと思う。当時住んでいたのは、助産師さんと町内会やプライベートで付き合いがずっと続いたり、どこかでばったり顔を合わせたりするのも珍しくはないような、本当に小さな市町村だったから。
 
三人目の出産は、先にも書いたとおり予期しない自宅出産になってしまった。玄関まで這って出てきたものの、陣痛の間隔が狭まってどうしても動けなくなった私の背中をさすって、そこで生まれた次女を取り上げてくれたのは、正確には助産師さんでも夫でもなく、近所に住む親しい友人だった。私がそんなことになっているとはつゆ知らず、単にサツマイモをおすそ分けするつもりで我が家の玄関を開けたところ、痛みをこらえながら四つ這いになっている私が目に飛び込んできたというわけだ。それから、私がふうふう言いながら「ここで産むー!」「破水したー!」などと声を上げるのを聞きながら、お風呂場からバスタオルを持ってきて生まれた子をキャッチし、その子を私の胸にそっと抱かせて、救急車で私が運ばれたあとには羊水でびちゃびちゃになった玄関をきれいに拭き掃除し、洗濯機を回し、ついでに夫と上の子たちが病院から帰ってきて食べられるように夕食まで作っていってくれた彼女は、職業人としての助産師ではない。だが、「他人の人生が始まる瞬間にその生に立ち会い、母と子を助けるもの」という意味では、やはり素晴らしい「助産師」だったと思う。本当に彼女には、感謝しかない。
 
このときの顛末を本当に助産師をしている友人に話し、夫はお産の最初から最後まで病院に電話を掛けていて、生まれる瞬間も受話器を握っていたのだが、なぜ家の奥にある固定電話で掛けたんだろうか、私の横で携帯電話を使えばよかったのに、当事者意識がなかったんだろうかなどと愚痴ったところ、旦那さんは旦那さんなりに精一杯のことをしたんだよ、予想外のことでやっぱり気が動転していたんだよと私をなだめた。
そしてふと思い出したように、お産って、単にこれから産む女性や産んだ女性、生まれた赤ちゃんだけが関係することじゃないんだよねと彼女は言った。その友人さんのように他人の出産に直接的に関わった人はもちろんだけど、産もうが産むまいが、男だろうが女だろうが子どもだろうが老人だろうが関係なく、誰もがお産に関わっているの。だって、誰もがお産を経てこの世に生まれて来ているんだから。だから、すべての人類はお産の当事者なんだよ。そうでしょう? と。
 
確かにそうだ。
生きている人すべてが経験したこと。
人の数だけ存在し、今もどこかで新たに起きている、地球規模で眺めたら珍しくもないごく当たり前のこと。
だが当事者にとってはとても特別な人生の出発点、それがお産だ。
産んだ私だが、いや産んだからこそかもしれないが、私にそんな視点はまったくなかった。
何かを体験したことでしか分からないことはもちろんある。だが、逆に何かを体験したことで、それを体験しなかったことで分かることは分からないんだなと思った。
だって、これを教えてくれたのは、自分では子供を産んでいない助産師さんだったから。
 
他人の人生が始まる瞬間に立ち会い、他人の人生をそのスタート地点からサポートしてくれるのが助産師だ。彼女たちの目には見えるけど、私の目には見えないことが、ほかにもたくさんあるのだろう。だが、私の目には映るけれど他人の目が素通りすることがもしあるのなら、私が書き散らす駄文が誰かの役に立つことがあるかもしれない。そんなことを考えながら、今日もパソコンに向かっている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。

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2023-04-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.213

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