週刊READING LIFE vol.213

赤貝の寿司を見ると父を思い出す理由《週刊READING LIFE Vol.213 他人の人生》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/5/1/公開
記事:牧 奈穂 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
オレンジ色をした赤貝の寿司を見ると、父を思い出す。
息子が幼稚園の年中の頃、祖父母を招待する園行事が始まった。祖父母を幼稚園に呼び、園内で一緒に歌を歌ったり、遊んだりして思い出作りをする。息子の近くに住む祖父母は、義父と私の母の二人だった。義母は他界していたし、父は離婚後に新しい家族と暮らしていたからだ。義父か私の母が行けばいい。だが義父は、歳を取りすぎて園内の階段の上り下りはきつい。園児と共に遊ぶのは、体力的に厳しいだろう。だから、私は母にお願いするつもりだった。母に話をすると、あいにく仕事が入っていて休むことはできないと表情を曇らせる。
どうしよう……困った私は、ふと父を思い出した。ためらいつつも、思い切って電話をかけてみる。
「あの……突然のお願いだから、ダメもとで電話をかけたんだけどね……断られても当然だと思っているから、全然気にしないでほしいのだけど……」
父が断りやすい雰囲気を作ろうと、前置きの言葉を並べ尽くす。
「実は、幼稚園で祖父母と遊ぶ行事があって……参加してもらうのは無理かな? きっと仕事が忙しいよね? 無理なら構わないんだけど……突然のことだしね……」
困り果てながら父に尋ねる。一瞬、間があったが、父は私に向かって返事をした。
「いいよ。行ってやるよ。いつ? 何時から?」
日時を聞く前から、父は行けると言ってくれた。多分、私の心を読み取ってくれたのだろう。よほど来てもらいたいのではないか? よほど困っているのではないか? 父は、私の言葉の裏にある気持ちを察してくれたのだろう。
 
「せっかくだから、寿司でも食べて行かないか?」
園行事が終わると、父が息子と私をお昼ご飯に誘った。いつもとは違い、回っていないお寿司屋さんへと3人で向かう。
「さぁ、好きなものを注文して!」
私は好きな貝の寿司を注文した。いつもの回転寿司では見かけなかった、オレンジ色の赤貝をまず選ぶ。コリコリと歯応えがよく、貝の旨味も口いっぱいに広がる。行事を終えた安堵感で味わう赤貝の旨味が、私の心の奥深くへと染み込んでいった。父は、私の心のツボを押すのがとても上手い。あの日から、赤貝を見ると、あの瞬間の私の気持ちを汲み取ってくれた父を思い出すようになった。父の心が嬉しく、父らしい優しさが心に染みたからだろう。
 
私は、父と一緒に暮らした時間がとても短い。だが、父との思い出は心の底に深く入り込んでいるようだ。
私が初めて手術をするために入院した日には、誰よりも早く見舞いに来てくれた。
「ほら……」
明るい色で作られたアレンジメントの花を持って来て、私に差し出す。手術前の不安な私に、元気を与えてくれた。毎日、毎日病院に来ては、私の好物を置いていく。押し付けがましくもない。ただ私を心配してのことなのだろう。心でいつも行動する父が、私はどこか憎めなかった。
 
フットワークが軽い父は、空いた時間を見つけては、いつでもこちらの予定もお構いなしに、連絡をしてきた。
「今日、一緒にお昼を食べないか?」
この電話が私にはとても迷惑だった。父とのランチは、いつも突然やってくる。前もって約束をしない父が嫌で、ランチができる日でも断ったことさえあった。
 
いつも急に連絡をしてくる父は、あの世への旅立ちまでも、急に告げてきたようだ。ある日突然、父の危篤を知ることになる。
自宅に、父の奥さんからの電話があった。父の奥さんの慌てた声が、電話の向こうからやって来る。
「お父さんの携帯のアドレスに、あなたの名前があったの。お兄さんの電話番号は見つけられなくて……お父さん、末期ガンで危篤なの……」
いつだって父からの連絡は、突然だった。また後でね……と言える状況ではない。父が生きている間に、一目会いたい。どうか、私が行くまで待っていてほしい。すぐにでもあの世へ旅立ちそうな父のもとへと、急いで車を走らせた。
病院に着き、父の病室へ恐る恐る入る。父は、静かに寝たまま私を待っていてくれた。父ならば、きっと待っていてくれる気はしたのだ。ホッとして父の顔を見つめる。父とは思えないくらいの変わり果てた姿に、ショックで言葉を失った。4ヶ月前に会って食事をしたのに、まるで10年会っていなかったかのようにさえ見える。ガンの恐ろしさを目の当たりにし、恐怖で心が動かなくなった。父が突然歳をとってしまったような姿を、呆然としたまま見つめていた。モルヒネを打っていた父は、もう意識はない。それでも、今言わねば一生後悔しそうだ。
父の耳に届くかは分からなかったが、二人きりにしてもらった病室で、父に語りかけた。
「育ててくれて、ありがとう。お父さんの娘でよかった……」
涙が溢れて心が痛くて、それ以上は何も言えなかった。
父のことをひどく恨んだこともある。父の奥さんと口論をしたこともある。私に黙って再婚した父が許せなくて、10年以上会わない月日もあった。走馬灯のように、かつての記憶が一つひとつよみがえってくる。
 
父の葬儀は、寒い日に執り行われた。2月の寒さがとても厳しい。通夜と告別式を避けるかのように雪が積もった。参列する人が困らないようにと、まるで父が気遣ってくれたかのようだ。
父の葬儀には、亡くなるまで働いていたホテルの社長が参列してくれた。その社長は父の友人だと聞いたことがある。どこまで仲が良かったのかは分からない。父からは直接聞いたことがなかったが、通夜と告別式の両方に参列した姿を見て、父が生前人に与えてきたものが見えた気がした。社長という仕事柄、とても忙しいはずだ。わざわざ遠い田舎の葬儀に来ないこともできただろう。仕事として来たわけではないことは、祈りを捧げる姿を見れば、容易に想像できた。そして祈る姿を通して、父が亡くなる直前まで人に与えてきたものが、見えるような気がした。
 
父の親友も葬儀に参列していた。
「ガンなんだ。会いにきてくれないか?」
亡くなる数ヶ月前、父は親友に電話をしたそうだ。いつも強く生きていけそうな父が、心身ともに弱ってしまった姿が伝わってくる。
父の親友は、父の骨まで拾ってくれた。長い時間、私たちと一緒に葬儀を過ごし、父を温かく送り出してくれる。父が何を得て、何に囲まれて生きてきたかを最期に私たちに見せてくれた気がした。
 
父は、失ったものがたくさんの人生だった。
子供の頃、木登りをしていた時に、持っていたハサミを目に刺してしまい、片方の視力を失った。そして、視力を失ったことで、父は医者になるという夢を失った。その後は、自分の会社を失い、財産を失い、そして家族を失った。
「地位がなくなると、人が去っていく。最後に残ったのは、親友だけだ……」
会社を失ったある日、父が母に話したことがあったそうだ。
失ったものがたくさんの人生の中で、父は最期に温かな心がある人に囲まれて過ごしていたようだ。自分の最期を見届け、骨まで拾ってくれる親友を手に入れたくても、お金で買えるものではない。父の親友の姿を通し、父がどう生きてきたか、何を得てきたかが見えた気がした。
 
人は、いつかはこの世を去らねばならない。去る時期は決めることはできないが、どう生きていきたいのかは選び取ることができる。この世に遺したいものは財産だろうか? 名声だろうか? 父の人生を見つめながら、自分自身に問いかけることがある。
父は、人に認められたいとも、人から尊敬されたいとも思わない人だった。ただ、目の前にいる人が困っていれば、当たり前のようにそれを助けるような人だ。特別に、大きなことを成し得たわけではないだろう。離婚という形で家族が離れ離れになったことで、兄や私に心の傷も与えてきたはずだ。決して、間違いがなかった人間だったとも言い切れない。
 
人の人生は、自分の心を映す鏡だ。
その人の生き方の中で、何に強く惹かれるのか、それを自分に問いかけてみればいい。
父から与えてもらったものは、時を経て、今もなお私の心の中に生き続けている。父に会うことができない今、一層鮮明に父を思い出すことがある。父が私に心を与えてくれた時間が、赤貝の寿司を通して思い出されるのだ。
父のように、人の心の中で生き続けられる「何か」を、人に与えられる人でありたい。偉業でなくていい。地位もなくてもいい。ただ日々の生活の中で、ふとした時に思い出してもらえるような、人の記憶に残れるような生き方をしてみたい。人の心の中にその日のエピソードがよみがえり、その人を温かな気持ちにさせていく。それが、父が人生を通して、私に語りかけてくれていることのような気がする。
 
オレンジ色の赤貝を箸でつまむとき、父を思い出す。胸がキューッとして、父が懐かしくて
たまらないこともある。きっと父と食べたお寿司の記憶が、父の私への優しさを思い出させる瞬間だからだろう。父があの時与えてくれた優しさが、赤貝をみる度に思い出されるのだ。些細な思い出にすぎないが、父がまだ生きているかのような気持ちにさえなる。父という存在は、もうこの世にはいない。だが、父がかけてくれた優しさは、私の心の記憶の中でずっと生き続けていくことができる。私を今も幸せにしてくれるのだ。
 
父のように、私も誰かの人生の思い出の一部になれるといい。父の人生から、自分がどうありたいかをいつも考えさえられる。
これからも、赤貝の寿司を見るたびに、私は父を思い出していくことだろう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
牧 奈穂(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

茨城県出身。
大学でアメリカ文学を専攻する。卒業後、英会話スクール講師、大学受験予備校講師、塾講師をしながら、26年、英語教育に携わっている。一人息子の成長をブログに綴る中で、ライティングに興味を持ち始める。2021年12月開講のライティング・ゼミ、2022年4月開講のライティング・ゼミNEOを受講。2022年10月開講のライターズ倶楽部では、全課題を提出し、全て掲載となる。2023年1月ライターズ倶楽部NEOを受講。

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2023-04-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.213

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