週刊READING LIFE vol.216

弱さを輝きに。マリリン・モンローの映画ベスト5《週刊READING LIFE Vol.216 オールタイムベスト映画5》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/5/22/公開
記事:杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「えっーと、 グレンドン・アベニュー1218……」
 
私は、パーカーのポケットから手書きのメモを取り出した。1990年代があと数年で終わりという初夏のある日、ロサンゼルスの市営バスを乗り継ぎある場所を目指していた。ウエストウッド・メモリアルパーク墓地だ。アメリカ出張の合間に念願のマリリン・モンローの墓参りに行くつもりだった。
 
その日の服装は、グレーのパーカー、下は普段着のジャージであった。墓参りの格好としては、ふさわしくないと思われることだろう。それには理由がある。
 
私は欧米と取引がある東京の小さな会社で働いていた。当時の海外では日本人は裕福なイメージがあったため、スリや強盗のターゲットになりやすかった。
 
そういった理由で上司たちは海外出張を避け、自動的にいちばん下20代の私にその役割がまわってきた。インターネットがなく、海外旅行の情報が少ない時代だから必然的に私は何度もスリや強盗にあった。
 
自らの体験から編み出した自営の手段が、いかにもその街に住んでいるような地味な普段着を持って行くことであった。実際、仕事以外はそれを着て歩くことで被害がなくなったのだ。
 
高層ビルの谷間が急にひらけて高い樹木が見えてきた。これが墓地の入口らしい。私は、まるで映画の上映を待つときのようにときめくのを感じた。
 
 
マリリン・モンローは、ハリウッドを代表する女優の一人だ。彼女を知ったのは、中学生のとき。中国地方の山間の村で育った私の楽しみは、テレビで映画を見ることであった。『風と共に去りぬ』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『ベン・ハー』などを見て、映画のおもしろさを知ったのだ。正月やお盆などに祖父にねだって町に一軒しかない書店で月刊の映画雑誌を買ってもらったものだ。
 
私は世界に一冊しかない経典を手に入れたかのように俳優たちの写真を眺め、隅々まで文字を読んだ。
 
特別な花畑のように数多くの美しい女優たちがいるなかで、目を引く女性がいた。それがマリリン・モンローであった。
 
最も有名なハリウッドスターの一人だ。ブロンドヘアに独特の眠たげな表情、大きく腰を振る歩き方、甘い声。私にとっては色っぽいという感覚を超えてマンガのキャラクターのように人工的な魅力をたたえた異星人であった。その唯一無二のキャラクターに心を奪われずにいられなかった。
 
さらに親しみを感じたのは、彼女について書かれた記事に、他のスターにはないネガティブな情報が多いことであった。例えば、孤児院育ち、虐待、遅刻癖、うつ病、アルコール依存症、3度の結婚と離婚、数回の自殺未遂を繰り返した果ての自殺。しかもベッドの上で裸で亡くなった。
 
そういった内容は読者の興味を引くようにショッキングに表現されていた記憶がある。しかし、私は子供心に「とても弱い人」として彼女を身近に感じたのだ。
 
年齢を重ねるにつれ、私はマリリン・モンローの情緒の不安定さや繊細ゆえに長続きしない人間関係に共感を覚え、ますます彼女を好きになっていった。
 
実際に、アメリカの精神医療の専門家の間では、マリリン・モンローは「境界性パーソナリティ障害」だったといわれている。
 
これは、気持ちを一定状態に保つことが難しく、行動が行き当たりばったりになりやすい。一方で相手の気持ちを敏感に察することができるため、相手のために極度に頑張ってしまうことが多い。それにより、日常生活や仕事で苦痛や支障を引き起こしてしまう障害だ。
 
もともと彼女の母親は、精神病院へ入退院を繰り返していた。両親は2歳のときに離婚し、孤児院や親戚の家庭を移動しながら育ったのだ。内気な性格で、吃音を発症し引きこもりがちであったという。
 
最初に女優になりたいと思ったのは、家に帰ることができず映画館で時間をつぶすことが多かった少女期だったという。そういった状況のなかで『現実は、”いい子” を演じるお芝居なんだ』と思った時、演技することを初めて意識したと回想している。
 
孤児院に戻されないために最初の結婚をしたのは、16歳のとき。相手は近所に住む男性だった。
 
彼女は、夢見ていた映画業界で働くきっかけをつかもうとモデルの仕事を始めた。しかし、後年まで「一流の女優になりたい」という上昇志向と、子どもの頃育った環境からくる「自信のなさ」の狭間で悩まされ続けたのであった。
 
 
マリリン・モンローは、約10年の間に30本近い映画に出演した。その映画はいつも私を励ましてくれる存在だった。あれは、ロサンゼルスへ出張する前の年だったと記憶している。私は疲れ果てて、生ける死体のようになっていた。自分の能力不足のために、会社に泊まって徹夜で働いたり、休日出勤して誰もいない会社で仕事をしたり、ミスをして何度も取引先に怒られたり……。おまけに失恋も重なった。
 
「もう、何もかもがイヤ!!」
 
それである朝、発作的に無断欠勤したのだ。会社から何度も電話がかかってきたが、とにかく誰とも話したくなかった。電話をとらずにいたら、夕方、アパートのドアをノックする音がした。上司の女性であった。仕事では厳しい人であったが、なぜか気が合ってプライベートでは頻繁に食事をするほど親しい仲であった。
 
私は、彼女とコタツで向き合った。申し訳なさを感じながら、とても疲れてしまったと正直に話した。彼女は、今回の無断欠勤は特別に自分のなかだけに納めると言ってくれ、2~3日休めるように計らってくれた。
 
突然、天からのギフトが降ってきたように感じた。今思えば、家族のような感覚で働いていた会社だったからこそのありがたい話であった。
 
現金なもので、それで少し元気になって何をして過ごそうかと五感が働きはじめた。ワンルームのカラーボックスには、バイト代を切り詰めて買ったマリリン・モンローの写真集が数冊入っていた。何度引っ越しをしてもずっと大切に持ち続けて、時間があれば眺めていた。
 
「そうだ、映画を見て過ごそう」と思い立ち、レンタルビデオ屋に向かった。借りたのは、見た後は元気になれる『紳士は金髪がお好き』(1953年)。マリリン・モンローの映画ベスト5を選ぶなら、私の1位となる作品だ。
 
マリリンの役は、ニューヨークで舞台に立つショーガール、『お金持ち』との結婚をもくろむ金髪美人という設定だ。
 
役の名前は、ローレライ。ローレライというのは、ヨーロッパのライン川で美しい歌声で船乗りを惑わし、船を沈めたという妖怪のこと。知的なウィットに富むミュージカルだ。親友役をジェーン・ラッセルが演じ、パリ行きの豪華客船のなかで起きる事件を中心にコミカルに展開していく。
 
この映画の最大の見どころは、マリリンがショッキングピンクのドレスを着て『ダイアモンドは女の子の親友』(Diamonds Are a Girl’s Best Friend)を歌うシーンだ。シンガーのマドンナが『マテリアル・ガール』のミュージックビデオで真似たことでも有名で、マリリンのイメージを代表するワンシーンとなっている。
 
実はこの映画の制作中にとんでもないスキャンダルが起きた。当時のマリリンはすでに女優としての名声を確立していたが、売れないモデル時代にわずか50ドルで撮影したヌード写真が出回ったのだ。
 
彼女は、自らインタビューに応じた。そこで自分の生い立ちを正直に説明した。
 
「ずっと自分で生計を立てないといけなかったんです。家族もいなかったし、行くあてもありませんでした。それに借金がありました」、お金を返すために必要だったから写真に応じただけだと明かしたのだ。
 
「そもそも、私は何も恥じていません。だって何も悪いことはしていないもの」と最後に加えたそうだ。
 
世間はその正直な告白を受け入れ、その後、ライフ誌が彼女を表紙に取り上げた。この事件は、図らずも名声を後押しした。
 
そんな渦中にありながら、映画の彼女の表情は生き生きとして、観客を楽しませることしか頭にないように見える。そのような尊敬すべき誠実さも持っていたがゆえに、傷ついてしまうことが多かったのだろう。
 
マリリンの映画は、ユーモラスなものが多い。役柄は、頭が弱い金髪美女がほとんどだ。同じ時期に活躍した金髪女優は大勢いるが、ダントツでマリリンにはこのような役柄がはまると言わざるを得ない。彼女自身は嫌がったそうだが、彼女の大きな強みであったと私は思う。
 
2位に『7年目の浮気』(1955年)を選びたい。白いドレスのスカートが地下鉄の風で舞い上がる場面が有名なコメディ映画だ。撮影は夜を徹して行われ、男性の見物人が何重にも撮影中の彼女を取り巻き野次を飛ばしたという。
 
そのなかに、二番目の夫である野球選手のジョー・ディマジオがいて、撮影の様子を見て離婚を決意したと言われている。そんな悲しい原因を作った作品なのだが、その年の興行収入トップとなるとともに彼女の映画のなかで最もヒットした一作となった。
 
3位は、『バス停留所』(1956年)。彼女は、この映画の前年に映画制作会社を設立した。セックスシンボルを脱したかったという理由だが、プロダクションを興したという事実は、彼女がどれほど自分の仕事に誇りを持ち、一生を賭けていたかという証明であると思う。
 
そもそも当時のハリウッドは、パラマウント、ワーナー・ブラザースなどビッグ5と呼ばれる制作・配給会社が市場を独占していた。
 
マリリンは、そのなかの20世紀フォックスの看板女優であった。例えるなら、高収入の大企業に勤務するエリートが地位を捨て経営者としてゼロから中小企業を興すようなイメージだ。彼女の行動は映画界のシステムに疑問を生むきっかけとなったと言われるが、大きな虎の群れに向かっていく羊のようにとらえられ、マスコミに面白おかしく報道され、世間の嘲笑の的となった。
 
しかし、彼女の決意は変わらなかった。険しい道を進む姿勢は、定年まで会社員として生きていくと思い込んでいた私の人生に小石を投げこんだかたちとなった。
 
実際に彼女は、ニューヨークに引っ越し、アクターズ・スタジオで演技の指導を受けた。『バス停留所』では、特有の舌足らずな喋り方を封印して、田舎育ちの世間知らずな女の子を演じている。彼女が、独立という荒海に漕ぎ出す決意とともに、苦労して身に着けた演技力が見どころだ。さらに私生活では、作家のアーサー・ミラーと三度目の結婚をした充実した時期でもあった。
 
4位は、『王子と踊り子』(1957年)。マリリンが、舞台劇として描かれたこの作品の映画化権を購入し、劇の原作者が映画の脚本を担当した意欲作だ。
 
イギリス国王の戴冠式に参列するためやってきた某国大公が踊り子を見初めて食事に誘う、という恋愛ストーリーで、相手を務めるのは、イギリス人俳優として尊敬を集めていたローレンス・オリヴィエ。二人の仲は撮影を進めるにつれ、険悪になっていった。映画のなかのオリヴィエは怒りに満ちている表情が多く、これは素ではないかとかんぐってしまう。一方でマリリンは、一筋に純粋な踊り子の役柄をこなしている。
 
この一作は彼女にとってすべてを賭けて制作する初めての映画だったのだ。その意気込みは相当なものだったと思う。しかし、最終的に映画の制作資金を調達することができず、20世紀フォックスと和解して7年の契約書にサインした。
 
5位は、初期の作品『イブの総て』(1950年)だ。アカデミー賞受賞作として有名だが、マリリンが端役で出演している。そのわずか数分の印象が強烈なのだ。
 
彼女はモデルの仕事をしながら演技、歌に加えて乗馬などのレッスンで常に忙しかったという。それは「いつどんな役でもチャンスが来たら受けられるように」という姿勢から来るものあった。このシーンの彼女の異常な輝きは蓄積された膨大な学びの氷山の一角なのだ。まるで彼女そのものと見まがうような野心に満ちた美しき女優を演じる姿をぜひご覧いただきたい。
 
 
ウエストウッド・メモリアルパークで彼女の墓をやっと見つけたとき、私は少し汗ばんでいた。日本のイメージで墓石を探していたが、実際はコインロッカーのように小さなボックスがいくつか重なったシンプルなものだった。中段に『Marilyn Monroe 1926 – 1962』という文字が刻まれた墓標を見つけることができた。
 
都会のなかとは思えないほど静かな場所であった。そして、まわりには誰もいない。静寂のなかで私はマリリンに語った。
 
小学生のときからずっとファンだったこと。メンタルを崩したけど、あなたの映画を見てまた元気になれたこと。プロダクションを興した勇気に励まされて弱い私にも何かできるかもしれないと思えるようになってきたこと。
 
「あなたが私の人生にいてくれてよかった……ありがとう」
 
心地よい風が吹いてきて、大きな樹木の葉が擦れ合って音をたてた。その優しい葉音に「誰もがスターなのよ。みんな輝く権利を持っている」という写真集に載っていたマリリンの言葉を思い出した。しばらくベンチに座って葉音の余韻を味わったあと、私は墓地をあとにした。
 
そのときのことは、人生の宣言のように心に残った。誰よりも打たれ弱いと思っていた自分。病気、転職、家族の死、独立など大小のいろいろな節目を迎えたが、自分の道を探し続けることをあきらめたことはない。振り返ると長いでこぼこ道をよくここまで歩いてきたものだ。
 
いつのまにか私は50代になった。人生は自分が監督し、主演する長いドキュメンタリー映画だ。今は中間地点。第二幕のはじまりだ。まだまだ新しい経験をしたいし、たくさんの人と出会い影響を受けあってエンドロールに一人でも多くの名前を載せたい。
 
そして、万一誰かの目にそれが触れるようなことがあったら、私がマリリンに勇気づけられたように、誰かを励ますようなストーリーをつむぎたいと願っている。
 
こう考えられるのは、マリリン・モンローという同志のおかげだ。彼女がいるだけで人生の旅は、希望に満ちた明るいものになる。私にも、あなたにも自分らしく輝けるステージが必ず用意されているに違いない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

VOICE OF ART代表。30年近く一般企業の社員として勤務。イギリス貴族に薫陶を受けたアートディーラーMr.Kとの出会いをきっかけに40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなどアート作品の価値とシビアに向き合うプロたちによる講演の主催を行う。アートによる知的好奇心の喚起、人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。

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2023-05-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.216

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