週刊READING LIFE vol.217

007の仕事術~ヒラ社員が美学に目覚めた日~《週刊READING LIFE Vol.217》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/5/29/公開
記事:杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「あーあ、今日の睡眠スコアは60か……」
 
スマートウォッチで睡眠スコアを測り始めて3年になる。スコアの基準は、80を超えると熟睡できたという証拠。実に頭がスッキリしている。60点台だと睡眠不足。どこか頭がぼーっとしているのでその日は、ミスをしないように気を付けなければならない。
 
「私がボンドなら、スコア60でもバリバリ仕事ができるんだろうな」
 
『ボンド』とは、映画007シリーズの主役ジェームズ・ボンドのことである。彼は、イギリスの諜報機関MI6のスパイ。映画のなかでは、いつ眠っているのかと思うほど昼夜を問わず戦い続けている。
 
しかし、私はボンドと違って生身の人間だ。今は50代で人生の折り返し地点にいる。人生100年時代と考えたらあと50年、この身体と心を大切に維持して使っていかなければならない。そのための要素として掲げているのが、日々の睡眠である。若い頃は、睡眠を軽視してきた。いや、あの時代に生きていた人はほとんどそうだったのではないだろうか。
 
私が社会人になったのは、バブルが終わりかけたころ。「24時間戦えますか」という栄養ドリンクのキャッチコピーが一世を風靡した時代だ。
 
当時は、常に会社とつながっていることを会社員同士で誇りあう風潮があり、取引先を夜通し接待して、上司からの休日の誘いも受けて、女性といえども24時間どころか365日会社を中心に生きるのが当たり前であった。
 
当時の私は、ファッション関係の小さな会社で営業として働いていた。ある年の暮れ、上司の代わりに取引先のクリスマスパーティに出席しなければならなくなった。会場は、有名ホテルのレストラン。そんなところへ足を踏み入れたことなどない。私が考え込んでいると、女性の上司は「大丈夫、ドレスをレンタルしてあげるから」と言ってくれ、美容院まで予約してくれた。
 
「だって私は、もとが悪いもの。どう転んでもチンドン屋みたいになるに違いない」
 
気が進まなかったが、これも仕事だから仕方ないとドレスをひきとって、美容院に向かったのであった。
 
前日は終電で帰宅したため、普段以上にボサボサのショートヘアの鏡のなかの自分と正面から対面する勇気はなく、疲れていたこともあり美容室の椅子に座るとすぐに眠り込んでしまった。
 
「はい、できましたよ」
美容師のお姉さんの声で目が覚めた。
 
おそるおそる目を開けてみると別人のようにキレイになっていた。髪はアイロンで巻かれてフワフワに、色味を抑えた品のよいメイクがほどこされていた。急に気になって衣装のボックスを開けると、小粋な黒のワンピースが入っていた。映画『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘプバーンが着ていたようなデザインで、ネックレスと靴、バッグまでセットになっていて完璧にコーディネートされている。それを着ると私はまるで雑誌に出てくる読者モデルのように変身していた。
 
私は、これでものおじせずに会場に入れることに安心した。同時にキレイになれたことがうれしくて、「今日だけは少し贅沢を許そう」となけなしのお金でタクシーに乗ってホテルへ向かった。
 
「こんにちは」
受付で声をかけられた。大口契約の取引先のY社長だった。使い走りで何度かその会社に出入りをしたことがあったが軽い挨拶をする程度で直接話をしたことはなかった。
 
彼のことは、社内でうわさだった。専門学校を出てアルバイトとしてその会社で働き始め、営業で手腕を発揮し、部長、取締役とどんどん出世して、40歳になると同時に社長に昇りつめ、若くして鬼のように仕事ができると評判だった。
 
一方でどこか変わり者だという話もあった。社用車を買うときにBMWの特定の車種にひどくこだわったということや、スーツの下に着ているのが白いシャツではなくいつもブルーのシャツであるという内容だった。
 
しかし、それは些細なことで、それをうわまわる魅力を備えた独身だったので女性からの引く手あまただった。クレームを処理しに行って、逆に先方の家族からうちの娘と見合いをしてくれと持ちかけられたこともあるという。私は、それを自分とは縁のない偉人の伝記のように聞いていた。
 
その日のY社長は、黒いタキシードに蝶ネクタイ姿であった。もともと長身で端正な顔立ちなのでタキシードが映え、華やかな会場にふさわしい。社長は、会うたびにぼろ布のように疲れている私が、変身していることにちょっとびっくりしたようだが、言葉にせずニッコリ笑っただけだった。
 
私はそれがありがたかった。相手をほめることがいつも良いことかというと決してそうではない。この場合、ほめてしまうと普段とどれだけギャップがあるのか強調してしまうことにつながるとともに、異性として見ているような雰囲気が生まれてしまう。それで安易にほめ言葉を口にしなかったという選択だったと思う。そういった配慮が彼がモテる理由なのだろう。私は、彼の態度で気が楽になった。
 
「社長、今日もステキですね!」
思い切って声をかけると、うれしそうに笑って
 
「あなたには、僕の秘密を特別に教えるね」
と言って、タキシードの内側を見せてくれた。そこには
 
James Bond
 
と刺繍されていた。普通なら自分の名前を入れるのではないだろうか。意味がわからずポカンとしていると
 
「ジェームズ・ボンドは、007の主人公の名前だよ。僕の憧れの人」
 
タラッタ、タララララッター……
有名なテーマ音楽が頭のなかで流れた。
 
私は、昔テレビで見たその映画を思い出した。どんなピンチになってしまっても、驚異の知恵と身体能力で乗り越えていくあの主人公のことか。そうか、社長が今日まで猛烈に仕事をしてこれた、その陰で支えになっていたのは、ジェームズ・ボンドだったのか!
 
007の映画には、彼のように颯爽と仕事ができるようになるヒントが何か隠されているのだろうか? 気になって仕方がなくなった。
 
私は社長とわかれ、何人かと名刺交換をしたあと会場を出た。その足でレンタルビデオ店へ寄り、借りられるだけ007を借りた。
 
007は、イギリスのアクションスパイ映画だ。1962年の初回から2023年の現在まで25作品が発表されている。ジェームズ・ボンドは主役のスパイの名前で、MI6でのコードネームとして「007」と呼ばれている。
 
その日レンタルしたのは、初代ボンド役のショーン・コネリーや2代目ボンドのロジャー・ムーアなどいくつかの作品。007は、作品やシリーズごとに監督や俳優が変わるのが特徴だ。
 
なかでも最も印象に残ったのは、5代目ボンドを演じたピアース・ブロスナンが主演するシリーズ。イタリア製の高級スーツに身を包み、ヨーロッパ、アメリカ、ロシア、アジアと世界を舞台に飛び回り敵を倒すのだが、街でも山でもビーチでも雪のなかでも、とにかくフットワークが軽く目的を達成していく。
 
洗練された身のこなし、知的なウィットに富み、絶体絶命のピンチに面してもジョークをつぶやいて起死回生を図る。これがボンドの仕事の流儀なのか。ああ、なんてかっこいいのだろう。Y社長が憧れるのもよくわかる。私もこんなふうに何事も乗り切りたい。
 
「よし、今度困ったら顔を青くする代わりに心のなかでジョークを言ってみよう」とそのとき決めたのだ。
 
「ボンドガール」と呼ばれる美女たちも見どころだ。特に惹かれたのは、『007ワールド・イズ・ノット・イナフ』のソフィー・マルソーである。味方だと思っていた女性が、実は敵。それもボンドを上回るほどの知恵者で狡猾だったという設定だ。過去あらゆる女性に優しかったボンドが、シリーズ史上初めてボンドガールを射殺する作品である。
 
やはり、女性はキレイなほうが得だ。私もパーティでおしゃれをしていったからY社長も心を開いたに違いない。これも心に留めておかねば。映画を見ながら、私は手帳にメモをした。
 
「あ!」
 
その映画を見ながら、ジェームズ・ボンドが非常にこだわりが強い人物であることに気づいた。スーツ、時計、靴、お酒の銘柄など、このブランドというのが決まっているのだ。
 
車に関しては、BMWの7シリーズ、スーツのなかに着るのはブルーのシャツであった。Y社長はそういった点でもボンドを日常的に真似ていたのかとわかった。つまり、彼のこだわりはジェームズ・ボンドのように仕事をすることだったのだ。
 
私もY社長のやり方を真似てボンドの愛用品で仕事をしてみたかった。その月の給料で、思い切ってパーカーのボールペンを買った。このペンは、『007ゴールデンアイ』で、秘密兵器として手榴弾に改造され、ピアース・ブロスナン扮するボンドが使用した。ノック3回で4秒後に起爆、もう一度3回ノックすると解除されるという仕掛けだ。これをペンケースに入れておいて仕事で誰かから怒られるたびに、「ノックしちゃうから!」と触りながら心のなかでつぶやいた。もちろん、これは007からウィットを学んだ私が編み出したジョークの一つだ。
 
次に社長に会ったら「007見ましたよ。勉強になりました」と伝えようと思った。しかし、その日は来なかった。過労で倒れて入院し、そのまま亡くなったのだ。
 
原因ははっきりとわからなかった。表には見えないところでボンドのように心身を酷使して無理をされていたに違いない。彼のファンはもちろん私も思いがけない訃報を悲しんだ。しかし、ほどなくして忙しい日常に再び流されていった。
 
Y社長から受け継いだ精神とでもいうのだろうか。あの日以来私はすっかり007のファンになっていて、次回作を楽しみにしていた。
 
はまり役だったブロスナンが降板し、新たな俳優が6代目のボンド役に選ばれ、前作から4年を経て新作がリリースされた。ボンドをイギリス人俳優のダニエル・クレイグが務める『007カジノ・ロワイヤル』である。
 
ボンドのプロフィールは、1968年生まれと再設定され、若かりし頃の恋愛を激しいアクションシーンを交えてヴェニスや東欧を舞台に描いた作品だ。
 
しかし、制作されるにあたって非難の嵐のようなバッシングが起きた。ダニエル・クレイグはシリーズ初の金髪であることから、ボンド役にふさわしくないという、ののしりのような声が高まったのだ。こういったアンチファンの存在について聞かれクレイグは語った、「そういう人たちを納得させるための唯一の方法は、この役を上手くやりこなすことです」。
 
この作品で、彼はイアン・フレミングによる原作のジェームズ・ボンドのイメージに限りなく近い、寡黙でタフなボンドを演じきった。その演技力が評価され、シリーズ最高記録の興行収入を樹立した。
 
実際にどのシーンもボンドそのものと錯覚するような熱演であった。恋人との別れのシーンでは、目頭が熱くなった。重責を予想以上の形で乗り越えた俳優クレイグの情熱に尊敬の念を持ち、私はあらためて007から学べることの奥深さに目覚めた。
 
このあと、一作一作封切られるたびに、2度、3度と映画館へ足を運び、さらにDVDで鑑賞するほどのコアなファンとなった。
 
同じスパイ映画のジャンルにトム・クルーズの『ミッション・インポッシブル』がある。こちらも世界各国を舞台にしたとても楽しめる作品だ。主役のイーサン・ハントとジェームズ・ボンドとの違いは、仕事をするための物選びや環境づくりに徹底してこだわっているかどうかという点であると思う。007においては、映画のなかで見えているのは、氷山の一角であって、きっとボンドは朝食にどのパン屋のクロワッサンを食べるか、週末にどのバーで飲むか、なんの本を読むか、どこのメーカーのタオルやシーツを使うかなど一つ一つの選択に揺るぎない思い入れがあるような気がしてならない。その思いの強さが蓄積して、仕事での目標達成につながっているというのが私の解釈である。
 
007と出会った当時は平社員だった私だが、年を経て管理職となった。そして人生100歳に向けて生涯取り組める仕事を見つけたことで会社をやめて独立した。年老いた自分にとって仕事がない人生はきっとつまらないだろうと思ったからだ。そういった慣れない環境で時々睡眠が浅くなることがある。だが、できるだけ長く健康を維持し、最後の日まで仕事をしていくのが夢だ。
 
そんな私を支えるのが、007からの学び。苦しいときこそ自分のなかでジョークにして笑って流してしまうこと、ここ一番のときはおしゃれを大切にすること、仕事に情熱を持つこと、物や環境にこだわりを持つこと……Y社長との会話をきっかけに手に入れて、今日までずっと大切にしてきたパーカーのボールペンは今も私のペンケースに入っている。これからもノックするたびに、007の仕事の流儀を思い出すことだろう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
杉村五帆(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

30年近く一般企業の社員として勤務。イギリス貴族に薫陶を受けたアートディーラーMr.Kとの出会いをきっかけに40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなどアート作品の価値とシビアに向き合うプロたちによる講演の主催を行う。絵画取引にまつわる書籍を出版。アートによる知的好奇心の喚起、人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。

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2023-05-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.217

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