理想の食卓《週刊READING LIFE Vol.224 「家族」が変わった瞬間》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2023/7/24/公開
記事:赤羽かなえ(天狼院公認ライター)
※この話はフィクションです。
小さい頃見たドラマで憧れたのは、朝食の風景だった。
主人公が目を覚ますと、台所からいい香りが漂ってくる。リビングに行くと食卓の上には湯気の立ったご飯とお味噌汁が並んでいて、お母さん役の人が微笑みながら「おはよう」と声をかけてくれる。
お父さん役の人がテーブルで新聞を読んでいて、家族がそろったら、手をあわせていただきますと言って朝のにぎやかな食事のシーンが始まった。
そんなことを友達に話すと普通じゃん、と笑うけど、そのシーンのどれもが私の手の中には、なかった。
今日も不自然なくらいに焦げたにおいで目が覚める。慌ててキッチンに直行すると、目玉焼きが真っ黒こげになっていた。味噌汁も沸騰しっぱなしでチリチリと音を立て、弁当も中途半端に作りかけのままで放置されている。
コンロのスイッチを切ると焦げる音がだんだん収まって、ゆっくりと静寂が訪れた。
リビングに目をやると、コタツには頭を抱えたまま固まっている母がいた。朝日が窓から差し込んでいて、彼女の明るい茶色に染めた髪がキラキラと輝いてまぶしい。
「お母さん、お母さん、目玉焼き焦げてたよ」
「……うわ、マジか! ホントだ、めっちゃクサイ。なんで気づかなかったんだろ。美樹、ゴメン」
焦った表情で固まった後、母の顔は次第に悲しそうに歪んでいった。私は、それでもイライラが収まらなくて母に嫌味を言ってしまう。
「卵は食べられなくなるし、フライパンにこびりついちゃうしさ。仕事したいなら、ごはん、無理に作らなくていいよ。火事にでもなったら怖いじゃん」
「これじゃあどちらが母親でどちらが子どもか、わからないね」母は、しゅんとした顔をしてつぶやくと、コタツの上のクロッキー帳を閉じた。周りにクロッキー帳を破ってクシャクシャに丸めた白い塊がそこここに転がっていた。
「目玉焼きに火が通るまでほんの少しやるだけのつもりだったのに……つい夢中になっちゃって。今度のコンペのデザインがなかなか決まらなくて……」
ひとりごとのような言い訳を聞きながら、私は、散らばっている白い塊を拾い集めてゴミ箱に捨てた。
「そうだ、お母さん、今日15時半から三者懇談だからね。忘れないでね」
「オッケー、出先から直行する。教室の前にいればいいよね」
よろしくね、と返事しながら、私は、焦げ付いたフライパンを丁寧に洗った。改めてフライパンに火にかけ、頃合いを見計らって卵を落とす。卵の白身が油と混じってジュワッと音を立てた。食パンをトーストし、サラダを盛り付ける。合間にお弁当も完成させた。
自分が作った朝食を見て、仕方がない、と思う。憧れの朝食の風景は、自分自身で作るしかない。わが家はそういう家なのだから。
雨は降っていないのに梅雨の雲がしつこく空にある。じわりと出てきた汗に前髪が張り付いく。
教室前に着くと、担任が前の親子を送り出すところだった。クラスメートに小さく手を振って見送ると、先生が
「お母さんは?」
と聞いてきた。携帯電話をチェックするが画面にはなにもメッセージはない。時計を見上げると、もう15時半になろうとしていた。
「ここで、待ち合わせって約束したんですけど……」
仕事が立て込むと、母は授業参観に面談とか、学校行事をうっかり忘れてしまうことがあった。なんだか嫌な予感がして、先生をそっと見ると、時計を見ながら焦っているのが伝わってきて余計にいたたまれなかった。
「先生、うちの母、間に合わないかもしれない」
「え、だって受験前の大事な面談よ?」
教師になりたての若い担任には、状況が理解できないようだった。
「あなたのおうちって……確か保護者はお母さんだけよね? 何か困っていることとかは、ない? お母さんは、ちゃんとしてくれてるの? あの……もしも何かあったら、内緒でもいいから相談するのよ?」
戸惑いながらも精一杯優しい口調で話す先生のおうちには、私の理想の食卓があるんだろうなあ。朝になればご飯がきちんとテーブルに並んでいて、お弁当もできていて。そんな当たり前のことが当たり前のようにやってくることが奇跡なんだ、ということをこの人はきっと知らない。
虐待とかそういうことがなくても、理想の食卓が手に入らない私の気持ちなんか、わかるわけがない。
なんだか急に投げやりな気分になって、強い口調で言った。
「先生、次の面談もあるでしょ? 母は仕事が押してるだけかもしれないんで、大丈夫です。忙しい人なので連絡とかあったら、自分で伝えます。高校の志望校は自分で把握してるから大丈夫だし、むしろ母に言っても、多分把握してないから、私が全部やります」
手元の資料を見ながら顔を上げない担任をじっと見つめた。しばらく間があった後で、「なにかあったら、いつでも相談に乗るから言ってね」ともう一度繰り返した。その顔が、かわいそうな子を見るような表情だったのが妙に鼻につく。黙って立ち上がると「失礼します」と言って、教室を出た。扉が勢いあまって、ガタンと大きな音を立てた。次の親子に会わなかったのが不幸中の幸いだった
足早に玄関を出る。背中越しに聞こえるランニングの掛け声が遠ざかるのをBGMに大股歩きで歩いて校門を出た。怒りたいのか、泣きたいのかよくわからない気持ちで道に転がっている石を蹴ろうとしたら、縁石に足をぶつけて「いたっ」と声が出た。
帰り道に通る商店街には、母が営む花屋がある。店の扉はいつも通り開いていた。一時閉店にしていないということは、やっぱり今日のことはすっかり忘れていたんだろう。でも、外からパッと見る限り、店内に母の姿は見えなかった。
文句を言ってやりたいと、裏口に回って店のバックヤードのドアから中を覗く。母が険しい顔で誰かと言い合いをしているのが見えた。段ボールの陰に隠れて見えなかったが、相手の声は低く男性のようだ。
「お母さん、いた」
声をかけると、母はようやくこちらに気づいて、気まずい時に見せるような表情になった。
「美樹どうしたの?」
「今日、三者面談だって言ったのに」
「あ……! ごめん!!!」
母は近寄ってこようとして、段ボールにひっかかり、箱の中身が倒れて散乱した。「待って」という言葉が聞こえたけれど、私は、そのまま踵を返して裏口を出た。走りに走って家まで戻り、自分の部屋に入った時に涙があふれてきた。
その後しばらくしてから、鍵の開く音がした。窓から差し込む光はいつの間にか夕焼け色に染まっていた。
母が部屋の扉をノックする音がする。私は、返事をする気にもなれずに、帰った時にしゃがみこんだ場所にうずくまっていた。
ドアを隔てて、静寂が広がる。
その気まずい静けさを打ち破るように、扉の向こうで母が深呼吸する息遣いが聞こえた。
「美樹、ちょっと話そう。入っても、いい?」
いいよと小さく返事した声はかすれて自分のものではないみたいだった。部屋の扉をあけた母は、しゃがみこむ私の横にちょこんと正座した。
「美樹、ホントにごめん。謝るのは、直接顔を見て言いたかったから」
深々と頭を下げられても、私の心は鉛のように重くてちっとも動かなかった。
「今日、仕事が立て込んでて、すっかり面談のこと飛んじゃった……本当にごめんなさい。しかも、あの人が店にいきなり来てうるさいことを言うからケンカになってしまって……、そしたら美樹が来て。美樹にあんな顔させてしまった。私、母親失格だわ……」
声が潤んでいるのがわかるが、それでも返事をする気にもならなかった。それでね……母はそこで一息つく。
「私ね、しばらく、仕事セーブしようと思う」
それまで下を向いていた私は、その言葉の意味が分からなくて、母を見た。
「今まで美樹にずっと迷惑をかけてきたから、少なくとも高校受験終わるまでは、美樹を最優先にする」
目が覚めると、ジュワ―という液体が広がる音がする。その後、香ばしい鼻の奥に届いて、ずっといい香りが漂っている。私は、今、夢を見ているに違いない。理想の食卓が夢に出てくるなんて私も行きつくところまで来てしまったな。
でも、夢はいつまでも終わらなかった。昨日、泣きすぎて顔がむくんでいるのが、現実だと証明してくれた。起き上がってリビングにいくと、テーブルの上に湯気が立った味噌汁が置いてあり、「美樹、おはよう!」とキッチンには母が笑顔を見せた。
「おは……よう」
ぎこちなく挨拶をすると、「お弁当ここに置くわね」と母がナプキンで包んだ弁当をカウンターに置く。
落ち着かない気持ちで、洗面や登校準備を済ませ、テーブルの上を改めてみると、ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、ほうれん草のおひたしが置かれていた。そのどれもが焦げている様子もなかった。母がこんなに完璧に朝食を作れるなんて、知らなかった。
制服に着替えて、着席する。2人で手をあわせて「いただきます」と言うのが妙に気恥ずかしかくてフワフワした。
「なんか、うちじゃないみたい」
そうつぶやくと、母は困ったように笑った。
「ごめんね、私が仕事で忙しかったばかりに当たり前なことができなくて」
穏やかに過ぎる時間がかえって落ち着かない。
母に隠れてお弁当の包みをほどき中を見ると、手の込んだおかずが美味しそうに並んでいた。
その日の帰り道、いつも通り店の前を通ると、店は既にシャッターが降りていて、おや、と思う。近寄ると貼り紙がしてあった。
『当面の間、開店時間を9時~15時に、土日祝は予約営業のみとさせていただきます。詳細はお問い合わせください』
という文言が踊っている。焦って家に戻りドアをあけると、今までにかいだことのない香ばしくて甘い香りが家の中からあふれてきた。
廊下を歩いて、リビングにはいると、
「美樹おかえり!」
という満面の笑顔で母が迎えてくれる。
「おやつ、シフォンケーキだよ」
「……お母さんが、焼いたの?」
母の笑顔が若干かげる。
「サイトで調べて作ってみたから多分、大丈夫だと思う。でも、こればかりは食べてみてもらわないと不安で……着替えて食べてみてくれない?」
母は、私が食べる姿を、息を詰めるように見つめた。
「そんなに見られると、食べづらいんだけど……」
と言うと、母は照れくさそうに笑った。
「ごめん、初めて作ったものだから心配で。……美味しい?」
「美味しいよ」
私は、そう言ってから、母のことを改めて見つめた。シフォンケーキは捉えどころなく、ふわふわと口の中で、溶けた。美味しいけど、ちょっと甘かった。
翌日も、翌々日も、朝食もお弁当も完璧で、おやつも毎日手作り。母は、家中に花を飾り、部屋はピカピカに磨かれていく。
理想通りなのに、なぜか落ち着かなかった。
母の笑顔がなぜか偽物のような気がするから。
「ねえ、お母さん、前に悩んでいたコンペのデザイン、決まったの?」
「ああ、あれ?」
母は、キッチンを雑巾で拭きながら無造作に答えた。
「今回は出すの、やめたの。デザインも行き詰まっていたし、もしもコンペが取れたとしても、かなり時間が取られる仕事になるから」
「この間、ケンカしていた男の人は?」
「ああ、あの人はもういいの、別れた。美樹が気にすることじゃないよ」
「なんで?」
「なんでって……今回は美樹の受験を応援したいの。お父さんと別れて、美樹にいつも大変な思いをさせちゃったし、ご飯もちゃんと作れない、学校の行事もすっぽかしちゃう、彼氏ともゴタゴタしてる……私、サイテーな母親じゃん。せめて今だけでも美樹のことを最優先したい」
「なんか、違う。そんなのお母さんじゃないよ……お母さんらしくない」
「え、ちょっと待って、美樹、なんで泣いてるの?」
言われて、自分の頬に涙がこぼれていることに驚く。それでも、母に言いたいことが次々と出てきた。
「確かに私、お母さんが作った素敵な朝ごはんが並ぶ食卓に憧れてた。私が帰ってきたら、お母さんが迎えてくれるのがいいなって思っていたし、母親らしく、ちゃんと学校の行事とか来てくれるのも、嬉しいよ。嬉しいけど……それはうちじゃないよ」
母は驚いたように私を見つめている。
「料理焦がしたって、学校のことすっぽかしたって、お母さんがしたいことをしているのが、うちだよ。お母さんがやりたいことを我慢するくらいなら、私は美味しい朝食なんていらない」
自分が自分の言ったことに一番驚いていた。それでも、口に出してようやく腑に落ちた。
私の母はこの人しかいない。不器用で自分の仕事のこととなったらそちらに夢中で、私のことも見てくれない、家事もままならなくなってしまうけど、いつも楽しそうに働いている。
理想の食卓は美味しいご飯が並んでいる食卓ではない。焦げたご飯が並んでいても、母ではなく、私が作ったものが並ぶ食卓でも、毎日を一生懸命に生きている母と一緒に過ごす食卓が、我が家の食卓なんだ。
なんだ、うちの冴えないいつもの食卓が、最高の食卓だったんだ。
母がいつの間にか横に来ていた。
「ごめん」と泣きながら抱きしめられる。急に恥ずかしくなって食卓を見ると、母が大好きなブーゲンビリアの花が、揺れていた。
□ライターズプロフィール
赤羽かなえ(天狼院公認ライター)
2023年下半期は、フィクションに沢山挑戦します! インスタにて毎朝小説を更新中。2020年8月期ライティングゼミに参加、同12月よりライターズ倶楽部所属。2021年10月よりREADING LIFE編集部公認ライター認定、2023年1月期ライターズ倶楽部主席、同5月に天狼院公認ライター認定。月1で『マンションの1室で簡単にできる! 1時間で仕込む保存食作り』を連載中。天狼院メディアグランプリ47th season & 50th~53nd season総合優勝。
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