週刊READING LIFE vol.230

忘れられない仕事《週刊READING LIFE Vol.230 忘れられないこと》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/9/4/公開
記事:松浦哲夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
今から3年前、母方の祖母が亡くなった。95歳だった。その時私は祖母のお葬式に参加していて、優しかった祖母のことを思い出していた。そんなに頻繁に会えていたわけではなかったが、私は祖母のことが大好きだった。その祖母がもうこの世にいないという事実は私の心にポッカリと大きな穴を開けたが、その穴を埋めるかのように祖母との思い出がよみがえる。おばあちゃん子だった私と祖母との懐かしくも楽しい思い出ばかりだ。
 
葬式が終わり出棺の時を迎える。いよいよ祖母との最後の別れだ。死化粧を施された祖母の肌は、まるで生きているかのように艶があり美しかった。すぐ目の前では実の娘である母が涙をこぼしている。こうして祖母との最後の別れが終わり、祖母の棺は霊柩車へと運ばれた。
 
私は祖母を乗せた霊柩車を見送り、その後ろ姿をしばらくぼうっと眺め続けた。その時、私は祖母のことを思い出しながら、頭の片隅で全く別の記憶を呼び起こしていた。
 
祖母は95年もの人生を全うした。もちろん辛いことや悲しいこともあったに違いないが、祖母は十分に幸せだったと思う。愛する家族に看取られて、死化粧を施されて、家族によって葬式で見送られたのだ。
 
しかし、世の中には十分な人生を全うすることなく、唐突に不幸な死を迎える人もたくさんいる。私は祖母の思い出に浸りながらも、そのことを思い出していたのだ。思い出そうと意図したわけでもない。出棺前の祖母との最後のお別れの時に、私の10年前の記憶のスイッチが突然入ってしまったのだ。おそらく祖母の遺体がトリガーとなったのだろう。
 
突然私の頭に湧いた記憶、それは私がかつて所属していたある研究室での業務だ。そこでの業務は、私がそれまで経験してきた職歴と照らし合わせてもかなり特殊で、一生涯忘れることはないと断言できるほどの強力な記憶として私の脳に焼き付いた。
 
祖母の遺体がトリガーとなってよみがえる業務の記憶、その業務とは、実は人の遺体の解剖なのだ。
 
 
時は今から10年前にさかのぼる。当時、私は長年勤めていた化学分析の会社を退職し、溜まりに溜まった有給休暇の消化期間を過ごしていた。有給休暇は1ヶ月、まるで小中学生の夏休みだ。社会人生活10年目でこれほどの長期休暇を取得できるとは思わなかった。私はそれこそ小学生の頃に戻ったような気持ちでウキウキしながら毎日を過ごしていた。
 
せっかくの機会だからと1週間の地方ローカル線の旅でかけた。帰宅後はなかなか読む時間が確保できずに本棚の肥やしとなっていた文庫本を読み漁った。そうして気楽な生活をしていたある日、知り合いの大学教授から私のスマホに着信があった。何事かと出てみると、なんと仕事のお誘いだった。
 
「私の友人で大学病院の研究室に勤めている職員がいる。彼の研究室で化学分析の専門家の手が足りてないらしくてな。よかったら話だけでも聞いてみないか」
 
まさに渡りに船だった。有給休暇の消化期間後に職のあてがあるわけではなく、職探しを始めようと思っていたところだ。大学病院の研究室での職務経験などないが、化学分析の専門家の手が足りていないということであれば、私の職務経験に合致する。私は2つ返事で了承し、研究室に行くことに決めた。
 
面接当日、私は先方の指定日時に研究室へ向かった。大学病院と言うだけあって病院の隣に建つ研究棟は巨大なビルで、日本有数の大病院であることが伺えた。医者でも医学部生でもない私がこんなところに足を踏み入れる違和感を感じたが、今さら引き返すわけにもいかない。私は未知なる領域へ足を踏み入れる心の準備を整えていざ研究棟へと侵入、指定された研究室へと入っていった。
 
そこは小さな事務所と実験室からなる研究室だった。紹介者である知り合いの大学教授の名前を告げると、すぐに研究室の責任者がやってきた。互いに簡単に挨拶を済ませた後、その研究室での研究テーマについての説明があった。話を聞いて私は思わず息を飲んだ。
 
「ここは法医学教室なんです」
 
法医学教室とは、つまり事件や事故などで亡くなった方の遺体を解剖し死因を究明する研究室であり、警察の捜査のために情報提供を行なうこともあるという。
 
「教授から、あなたは優秀な化学分析の専門家だと伺っています。ここでは違法薬物で亡くなった方の血液や尿を採取し、そこから薬物成分の分析を行なっていただきます」
「あの、私が遺体から血液や尿を採取するのですか?」
「はい、もちろん。状況次第では解剖の助手もお願いしたいと思っています」
 
私は言葉を失った。注射すら苦手な私が遺体の解剖などできるはずがない。医療の経験もなく、かつて医療業界にいたことすらないのだ。さすがにそれは難しいのでは、と私は言った。しかし責任者の方はそんな私の言葉など問題にしなかった。
 
「ははは、大丈夫ですよ。なにも解剖の指揮をとってほしいと言っているわけではありません。あくまでも助手です。あなたは解剖を指揮する立場の教授や職員の指示通りに遺体にメスを入れていけばいいのです」
 
そういうことではないと思ったが、私はその言葉を飲み込んだ。目の前にいる責任者は私に無理な業務をさせようとしており、私はそのことをちゃんと頭で理解している。今は面接の席だ。先方の一方的な要望を無理して聞き入れる必要などない。こちらにも断る権利があるのだ。
 
しかし、もう遅かった。私の心は未知なる業務に対する好奇心で支配されてしまっていた。今からでも断ることはできる。しかし、この機会を逃すともう二度とめぐり合うことのない経験だ。やってみて無理だったらその時に無理だと言えばいいだけのことだ。
 
私は心の赴くままに責任者の言葉を全て受け入れ、こうして私の再就職が決まったのだった。
 
有給休暇期間が終わった翌日に初出勤日を迎え、その日以降、約3年もの長きにわたり法医学教室で業務を行なった。私の基本的な業務は、当初の話にあった通り、遺体から採取した血液や尿の薬物検査が中心だった。ただ、研究所は慢性的な人手不足であり、突発的に私が何度か解剖室に入ることもあった。繰り返すが、私に医療の経験も医療業界での経験も全くない。まして人の体にメスを入れた経験などあろうはずがない。しかし一旦解剖室に入るとそんな甘えは誰も聞いてはくれない。呼吸すらためらわれるほどの緊迫感が張り詰める解剖室で、私は必死になって教授や職員の指示に耳を傾け遺体にメスを入れていった。
 
法医学教室の業務は警察の犯罪捜査と直結する。解剖対象である遺体は警察から運ばれることがほとんどであるためだ。
 
例えば殺人事件が発生したとする。まずは警察が現場に入り、そこで捜査が行われた後に遺体が回収され法医学教室へと運ばれることになる。
 
解剖が終わると、事務所で待機する刑事課の警察官と打ち合わせがある。これは解剖を指揮する立場の教授や職員の仕事だ。解剖が終わった段階で判明している点を犯罪捜査に役立てるわけだ。
 
私の3年間もの業務期間に、およそ500もの遺体が法医学教室に運ばれてきた。私はそれら遺体の解剖や薬物検査に関わってきた。事件や事故はもちろんのこと自殺や孤独死もあった。法医学教室に運ばれてきた段階で人の原型をとどめないほど損壊が進んだ遺体もあった。
 
私が関わった遺体は300にも及ぶが、私はそれぞれの遺体について大まかな年齢、遺体の状態、死因などある程度詳細な情報まで概ね記憶している。もともと記憶力が高いわけではないし、自分の記憶力が人よりも高いと自覚したこともない。印象深い出来事は記憶に残りやすいというが、私にとって解剖案件の1つ1つがあまりにも強烈な記憶なのだ。その中でも特に印象深く、私の記憶に焼き付いて離れない2つの事件を以下に紹介したい。
 
1つ目の事件は年配の女性が自殺したというものだ。ある日の朝出勤すると、事務所と研究室に異様な匂いが充満していることに気がついた。鼻を突くような刺激臭でもなく、吐き気を催すような生臭い匂いでもない。一般的にはかぐわしいと表現される芳香剤の匂いだ。通常であれば、研究室で芳香剤の匂いが充満するなどあり得ない。遺体の血液や尿、各種試薬、消毒薬が混ざったような研究室の匂いは病院のそれに近い。それが普通なのだ。だからこそ、芳香剤の匂いが充満する状況に異常を感じた。私は匂いの原因を知るべく上司を探したが、事務員さんによると上司は朝から解剖中だという。私は日常業務をこなしながら上司の到着を待つことにした。
 
それから2時間後、上司が研究室に入ってきた。手には遺体の血液や尿の採取に使用した注射器の入ったケースを持っている。私がそのケースを受け取り、注射器に入った血液や尿を専用の容器に移して検査するといういつもの手順だ。
 
私はいつも通りケースを受け取った後、研究室に充満した匂いについて聞いた。業務ではなく単なる興味本位のつもりだった。ところが上司の反応は意外なものだった。私の質問には答えず、注射器の入ったケースの中を匂ってみろという。真剣な表情だ。興味本位の話をするような表情ではない。
 
私は上司に言われるままにその場でケースを開け、恐る恐る匂ってみた。当然血液の生臭い匂いがするはずだが、そうではなかった。なんとケースの中の匂いは研究室に充満している匂いと同じ芳香剤の匂いなのだ。
 
「今日朝から解剖した遺体な、78歳のおばあさんらしいが、どうやら柔軟剤を一瓶一気飲みして自殺したらしい」
 
信じられなかった。柔軟剤には多くの薬品が入っており、とても人間が飲めるようなものではない。飲んだ瞬間に消化器系の臓器は焼けただれ、飲んだ人は想像を絶する痛みに襲われるはずだ。
 
「食道も胃も腸もほぼ全滅だ。血液とか尿はちゃんと採取できたけどな。あれほどボロボロになった臓器は久しぶりに見たよ」
 
上司はつぶやくように言った。これで研究室内に充満した芳香剤の匂いの正体がわかった。このおばあさんの飲んだ柔軟剤の匂いが充満していたのだ。普段嗅ぎ慣れた匂いとは違うかぐわしい匂いではあるが、原因がわかるとなんとも悲しい匂いに感じた。
 
なぜおばあさんは柔軟剤を飲むなどという暴挙に出たのか。おばあさんの身に一体何が起きたのか。78年もの長きにわたる生を全うしてきた末のあまりにも悲しい最期に、私は心が締め付けられるような思いがした。
 
もう1つの事件は夫婦間の殺人事件だ。75歳の妻が79歳の夫を殴打して殺したというのだ。この事件は私が解剖助手を担当した。
 
解剖室に運ばれてきた遺体を一目見て私は驚愕した。遺体の頭からつま先まで全身のいたるところに殴打された跡があるのだ。その数は実に150箇所にも及び、これらの殴打が死因であることが伺えた。しかも、その殴打はハンマーや木材のようなものでもなく、また人間の拳によるものでもなかった。殴打された箇所全てに謎の円形模様が施されていたのだ。
 
直径5cmほどの二重の円形となっており、外側と内側の円形の間には無数の斑点模様があった。何かの刻印とも暗号とも取れるなんとも不気味な模様だった。
 
解剖の結果、やはり遺体の死因は殴打によるものとされた。殺人の容疑者となった妻は逮捕され、事件は解決したと思われた。それでも殴打痕の正体は不明なままだった。解剖報告書には殴打痕とだけ記すことになるだろうと思われたが、解剖から1週間が経過したある日、意外なところから殴打痕の模様の正体が明らかになった。
 
それはいつものスーパーで夕飯の買い出しに来ていた時だった。その日の安売り食材をもとに夕飯のメニューを思案していた時、ふと嫁から味の素を買っておいてくれと頼まれていたことを思い出した。
 
私は夕飯の食材選びを後回しにして、調味料コーナーへと移動した。多種多様な調味料が並ぶ中から味の素の瓶を手に取り、買い物カゴへと放り込んだその時だった。私はふと買い物かごに入れた味の素の瓶と解剖した夫の体につけられた殴打痕の大きさが似通っていることに気がついた。確かこのくらいの大きさだったな、と何気なく買い物かごから味の素の瓶を手に取り瓶の裏を見た瞬間、私の全身を電撃が貫いたかのような衝撃が走った。瓶の裏の模様と殴打痕が私の頭の中でぴったりと一致したのだ。もはや確信といってもよかった。
 
翌朝、私は出勤と同時に家から持ってきた空の味の素の瓶を上司にみせ、状況を説明した。早速上司は殴打痕の写真と瓶の裏を照らし合わせ、息を飲んだ。
 
「これだ、間違いないな」
 
そうして妻による夫殺害の方法が判明し、程なく夫婦間殺人事件は真の解決を見たのだった。
 
この2つの事件が、特に私にとって特に印象深い解剖案件だ。もちろん他にも強く記憶に残る事件はたくさんあるが、これらの2つの事件はあまりに大きな悲しみを含んだ事件として私の脳裏に焼き付いている。
 
なぜおばあさんは、78年もの長い人生を歩んできた末に想像を絶する苦しみを味わって死ななくてはならなかったのか。
 
なぜ75歳の妻は長年連れ添ってきた79歳の夫を殺さなくてはならなかったのか。
 
これら2つの事件は警察による捜査が行われ、自殺したおばあさんと夫を撲殺したおばあさんの身に起きた状況も明らかになっているはずだ。もちろん捜査の内容が一般に公開されることはないし、私たち法医学教室に知らされることもない。今や書類やデータだけで残る無機質な記憶でしかないのだ。
 
火葬場にて祖母の火葬が終わり、祖母の骨を拾い上げて家に帰った後、母は私に言った。
 
「おばあちゃんね、息をひきとる前に笑ってたよ、ほんの少しだけどね」
 
私たち家族の呼びかけにも応じることできない祖母だったが、もしかして楽しかった日々を思い出していたのかもしれないと母は言った。
 
息をひきとる直前にこれまでの人生を想って笑顔を浮かべる。我が祖母ながら本当に素晴らしい生き様だったと思う。私もこんな人生を送りたいと心から思った。
 
その一方で、10年以上も私の記憶に焼き付いて離れない2人のおばあさんの事件が私にとって何かしらの意味を成すとしたら、それは私のような人生を歩むな、という教訓なのかもしれない。
 
素晴らしい人生を全うした祖母、幸せとは言えない人生を歩んだ2人の女性、いずれの人生も私にとって忘れることのない貴重な教訓として、一生涯私の記憶に残り続けるだろうと思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
松浦哲夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

大阪生まれ大阪育ち。某大学文学部卒。
大学卒業後、大手化学系の企業に就職。経理業務に従事。
のちに化学系、環境系の国家資格を4つ取得し、研究開発業務、検査業務に従事する。
約10年間所属した同企業を退職し、3つの企業を渡り歩く。
本業の傍ら、副業で稼ぐことを目指し、元々の趣味である登山を事業化すべく登山ガイド業を始める。この時、登山ガイド業の宣伝のためにライティングを身につける。
コロナ騒動により登山ガイド業が立ち行かなくなり、宣伝のために覚えたライティングで稼ぐことを思いつく。そうして個人や企業からの執筆依頼を受け、ライターとしての経験を積み重ねる。
2023年4月ライティングゼミを初めて受講。
天狼院メディアグランプリ54nd season総合優勝。
現在に至る。

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2023-09-04 | Posted in 週刊READING LIFE vol.230

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